「死ぬまではわからない」

吉村作治

2008.09.11 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
目の前のことを克服。それが将来につながる

吉村先生10代の頃、エジプトを志す日本人考古学者は皆無だった。「エジプトで発掘」なんて夢のまた夢。この学校に行ってこんな勉強をすればエジプトへたどり着くという道筋もまったくなかった。

「よそ見はしてましたよ(笑)。高校では山岳部と演劇部の両方に所属して。山岳部はエジプトに行く体力作りのつもりだったけど、芝居は本当にやりたかったですしね。東京大学目指して浪人していたときも…エジプトに行くために東大目指してるのに、急に落語家になりたくなったり(笑)。それで親の前で演じてみたらクスリとも笑わない。『無理じゃないの』って」

果たして、一途なのかふらふらしているのかわからない。だが、「それでいい」と、吉村先生は言うのである。

「目の前にあることはとにかく一所懸命やる。でもそれにたぶらかされてはいけない。その向こうに必ず待っている、自分がやるべきことがある。だからこそいまのことをちゃんと克服するという、ダブルスタンダードできているんですよ。遠くにあることはもやもやした状態でかまわない。僕の場合はエジプトとか、役者とか、落語家とかあったけど、目の前の直近のものはとにかく避けない。それを乗り越えることが、絶対後々意味を持つことになるだろうし、乗り越えたことで新しくやりたいことが生まれる可能性もあるからね」

エジプトはブレずに50年以上も追求することができた。ハワード・カーターの伝記のカッコ良さはもちろんだけれど、日本で誰も手をつけていなかった、という理由も大きかった。

「おばあちゃんの言いぐさでね、僕はすごく期待されていたんですけど『お前は変わっているから、平凡になっちゃだめよ』と。『人が左に向いたら右に向きなさい』と」

エジプトに限らず、生涯の教えになった。もうひとつ、これも幼少時におばあちゃんから刷り込まれたこと。

「“人は必ず死ぬ”と。それを5~6歳の頃からしょっちゅう聞いていた(笑)。おばあちゃん、小さな新興宗教の教祖だったんですよ。それで、成功も失敗も期限は死ぬまで、みたいに考えるようになったのかな。要は死ぬまでになんとかしよう、と」

誰もやっていないことを。死ぬまでに片をつける

早稲田大学にエジプト研究会を結成し、エジプト渡航資金を作るためにいろいろなベンチャービジネスを考え、実践した。学休期間に幼稚園のバスを借りてきて、スキーのツアーバスにしたてたり…。

「リース業とかね。知り合いから複製画を借りてきて、それを貸し出すんです。12軒の喫茶店の契約を取って12枚借りれば、1年間ずっと毎月変えられる(笑)。絵がうまくいくと、今度は観葉植物を友だちのお父さんからタダで借りてきて。熱帯魚もやった。あと、こんなこともやったな…(笑)」

ある会社からコピー機を無料で借りてきて、試験近くになると授業に出てる女の子のノートを“予約”。「試験に向けてノートは大丈夫ですか?」というチラシを各教室に置き、必要なノートの注文を取る。そして注文分だけノートをコピー。在庫を持たない安心確実なビジネスである。今から40年前、大学近辺にもコピー機なんてなかった。

「つまんないことをパッと思いつくんだよね。普通は思いついてもみんなやんないんだけど、僕はやっちゃうんだ。失敗してもいい。失敗したら止めちゃえばいいんだから」

まさにおばあちゃんの教え。もちろんすべてはエジプトのためである。それでも費用は足りず。そこでパッと思いついた。「支出を抑えよう!」。旅費はあらゆる船会社にあたり、タンカーに往復タダで乗せてもらえることになった。エジプトで乗るクルマはトヨタでリース。レンタカーではない。トヨタの本社に行って直談判。

タンカーで3週間かけてエジプトに降り立ったのは1966年、吉村作治23歳の秋のこと。エジプト研究会を母体とした早稲田大学古代エジプト調査隊は、アジアで初めてエジプトでの調査研究を開始した。5年後にはルクソール西岸のマルカタ南遺跡で、発掘権を獲得、さらに3年後には同「魚の丘」遺跡で彩色階段を発見。サクジ・ヨシムラの名を轟かせた。

吉村先生、その後もひとり切り開いて歩いてきた。文部省(当時)から支給される科学研究費の不足分をエジプトコーディネーターなどで稼いだり、電磁波地中レーダーや人工衛星などの最新技術を発掘に導入したり。

しかもことごとく外さない!

「“当たる”“外す”って、みんな何年のことを言うんだろう。2~3年で考えると当たり外れはそりゃあるでしょう。でも僕は死ぬまでに当てればいいと思っています。たとえば1987年に『第2の太陽の船』を見つけた。掘り出して復元するための費用を、広告代理店にまで応援してもらって集めたんだけど無理だった。僕が持っている発掘の権利が切れる今年、全額を出してくれるという人が出てきてくれて、いま準備しているところです。ホント、死ぬまでわからないんです。積み残していることはたくさんあります。たとえばツタンカーメンのDNA解析。これね、あるときにDNAの講演を聞いていて“これでエジプトをやったら面白い!”とパッと思いついちゃったんですよ。それだけ(笑)。調べてみたらそんなことのできる機械はなくて、そこからがんばって作ってもらいました。暇があると思ってしまう。それで、思ったらやってる。できるかどうかなんて考えないですねー。やろうと思うんです。それが失敗するかなんて、死ぬまでわからないと僕は思ってるわけですから、そういう意味では、僕に引退はないな。死ぬまで失敗を失敗と認知しないから、僕にとってはすべて成功なんですね(笑)」

1943年生まれ。早稲田大学人間科学部教授、国際教養学部教授の後、サイバー大学学長、早稲田大学客員教授。早稲田大学在学中に、アジア人として初めてエジプトの発掘調査を行う。74年、ルクソールのマルカタ南にある「魚の丘」遺跡で彩色階段を発見。87年、「第2の太陽の船」を発見。96年、ダハシュール北地区で神殿型大型貴族墓を発見。電磁波地中レーダーや人工衛星の画像解析など、最新技術を遺跡発掘に取り入れたオリジネーターとしても有名。エジプト発掘40年展の詳細は、http://y-egypt.com/40year/ 。ヒストリーチャンネルの番組詳細は

■編集後記

最初のエジプト行きで借りたトヨタの4WDは、帰国後、きちんと返しに行った。そしたらそのままもらえたという。「でも乗って事故したらつまんないからすぐ売りました。そのお金で報告書を作って、お世話になったみなさんに届けた。それで文部省から予算が下りるようになって…」。今度はきちんとトヨタに買いに行ったらしい。“くれる/買う”のやりとりの末、きちんと購入。「それ以来、僕はトヨタ車しか乗っていません」。…若い頃一度だけ浮気したケンとメリーのスカイライン以外は。

武田篤典(steam)=文
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