「ブッダみたいになりたいんです」

東国原英夫

2008.09.18 THU

ロングインタビュー


兵藤育子=文 text IKUKO HYODO 稲田 平=写真 photography PEY INADA スチーム=編集 e…
謹慎は新しいことを始める絶好のチャンスだった

大胆な転身を遂げる人は、過去においても現在においても意外といる。しかし“致命傷”を負ったにもかかわらず、消えるどころかパワーアップして生還する人はなかなかいないだろう。しかもこの人の場合、一度きりではない。86年にビートたけし率いるたけし軍団が、出版社を襲撃した“フライデー事件”。そして98年、児童福祉法違反容疑で摘発された風俗店を利用し、マスコミに取りざたされた“イメクラ事件”。芸人は羽目を外してなんぼのもの、と信じて疑わなかった価値観が覆された瞬間だった。そして長い謹慎期間へと突入する。

「謹慎期間は、当然、仕事を自粛しなければいけません。その間、もちろん反省はしますし、自分の置かれている社会状況はどん底でしたが、そこに可能性を見出そうとする性格なんです。仕事ができないから膨大な時間がある。神様がこの時間を使って、新しいことや今までできなかったことにチャレンジしてみろと言ってくれていると思ったのです。ただ、家族やスタッフ、ファンのみなさんに迷惑をかけて、本来ならば落ち込んでいなければいけないから、そんなことを大きな声では言えません。ポジティブな部分を出すと怒られるから、神妙な顔をしながら、心の中では『何かできるぞ!』と思っていました。“ピンチをチャンスに”と僕はいつも言っているのですが、ピンチだからこそチャンスがあると思うタイプなので、周りが想像するほど大変なことをしているわけではないんですよ」

打たれ強いというか、したたかというか…。

事実、86年の謹慎中は3カ月かけて『ビートたけし殺人事件』という小説を執筆。ベストセラーとなりドラマ化もされ、自らが脚本、主演を務めた。のちに結婚することになる女優のかとうかずこと出会ったのも、このドラマがきっかけだった。一方、1年半にわたる98年の謹慎中はパソコン教室へ通い、さらにはかねてから行きたいと思っていた早稲田大学文学部を受験すべく勉強を始める。これにはさすがの本人も、突拍子もない計画をしているという自覚はあったようだが。

「『ふざけるのもいい加減にしろ!』と言われるのがオチだと思っていたので、誰にも言わずに裏でこそこそと準備をしていました。それである程度周りの状況が整ってから、家族や事務所のスタッフに打ち明けたんです。みんな一様に驚きましたが、前のカミさんだけは平然としていました。その態度に私自身、非常に助けられましたね」

40歳を過ぎて大学へ通う選択には、悠々自適という印象を受けがちだが、大きな誤解である。勉強をしながら月400kmを走り込み、なおかつタレントの仕事をこなし、父親としての役割を果たす、壮絶な暮らしぶり。

「文学部は2部なので、授業が終わるのが夜の9時くらい。10時から2時間ほど走って、12時に帰って来てご飯を食べ、3時か4時くらいまで勉強をする。次の日は6時に起きて、子どもたちを学校へ送り出して仕事へ行くという生活でした。好きなことをやらせてもらっているから、自分を甘えさせたくなかったんです。それにマラソンをやっていると、どんな苦しみもヘッチャラになるんですよ。肉体的にも精神的にもこれ以上の苦しみはないから、何があっても乗り越えられるはずだと。限界ラインを基準化するために、つらい経験を常時しておく必要がそのころの僕にはあったんです」

疲労が溜まり、血尿が出ることもしょっちゅうだったという。まぎれもなく、血のにじむ努力をした。

言って伝えるよりも生きる姿で示したい

芸能界を退き、家族との生活を諦めてまで選んだ政治家という職業。小学校の卒業文集に書いた将来の夢は、「政治家とお笑い芸人」。一見真逆なイメージのこのふたつが、子ども心になぜか結びついていた。

「小さいころ、近所にサーカスが来たことがありました。ピエロが会場を爆笑させるのを見て、笑いというものは人々をなんて幸せそうな顔にするんだろうと思ったんです。しかもピエロ役の方は障害があり、ハンディキャップを武器にしてお客さんを笑わせていた。それが自分のなかに強烈に刻まれたんです。一方で、サーカスを町に呼んだのは政治の力だった。僕の父親がそういうことに携わっていたので、子ども心になんとなくわかりました。ですから、人々を幸せにするのがエンターテインメントであり、エンターテインメントを連れて来るのが政治ということで、ふたつがリンクしていたんです。できることなら、今は政治家として人々を笑わせたいんですよ」

子ども心に抱いた直感は、間違っていなかったのだと確信している。

「テレビで芸人を見るときの気持ちと、行政に住民のみなさんが何かを要望されるときの気持ちは、本質的にはそれほど遠くないと思うんです。要するに求めているのは“幸せ”ですから」

20年以上にわたる芸人時代の経験が、政治家となった今、様々な面で生かされているのも事実。

「一番役に立っているのは、根性と環境適応能力。たとえば1000人の前で、ひとりで芸をしてみなさんを楽しませるためには、技術も必要だし、度胸も必要だし、プレッシャーをはねのける気力や体力、精神力も必要なんです。簡単にはへこたれないことや、諦めないことなど、生きていくために最も必要なものは、師匠(ビートたけし)から教えていただきました」

いくら芸人時代に培ったとはいえ、逆境に対する強さは半端ではない。ピンチをチャンスに変える原動力は、一体どこから生まれるのだろう。

「こういう質としか言いようがないんですよね。ただ、どんなに窮地に追いやられたときでも、その状況を客観的に笑えるかという視点は持っていますね。ですから失敗をただの失敗と思うか、おいしいと思うかの違いなんです。失敗って、視点を変えると結構面白かったりしますから。でも僕のような考え方を理解できない人もいるでしょうし、僕がこう思った方が楽ですよと言っても、なかなかそうは思えない人ももちろんいます。ひとつ言えるのは、僕は何回も失敗してきましたが、夢や希望や自分のヴィジョンは諦めなかった。それを僕の生きている姿から、自由に解釈してほしいんですよね」

最後に、東国原英夫という一個人としての理想の生き方を尋ねてみた。

「ただそこにいるだけで、周りが幸せになれるような存在になりたいです。究極の存在ですね、ブッダみたいな。おこがましいけど、目標です」

ネタではない。この人はきっと、本気でそう思っているのだ。

1957年、宮崎県生まれ。専修大学卒業後の81年、『笑ってる場合ですよ! 』内のコーナー『お笑い君こそスターだ! 』に出演し、チャンピオンとなる。それをきっかけにビートたけしの一番弟子となり、以後“そのまんま東”の芸名でたけし軍団のリーダーとして活躍。00年4月、早稲田大学第二文学部に入学し、04年3月卒業。同年4月、再び早稲田大学政治経済学部へ入学。06年3月退学。07年1月、宮崎県知事に就任。主な著書に、『ビートたけし殺人事件』(太田出版)、『どん底』(音羽出版)、『ゆっくり歩け、空を見ろ』(新潮社)、『芸人学生、知事になる』(実業之日本社)など。マラソンランナーとしても知られ、今年の東京マラソンにも出場。

■編集後記

自分の実力と運の強さを試すべく、23歳でお笑いの世界へ飛び込み、ビートたけしの一番弟子に。しかし「25歳はすべてがドン引きのとき。大森うたえもんくんとツーツーレロレロというコンビを組んでいましたが、まったくウケない。そのとき思いついたのが、お互いにギャグを言い合って、白けたほうが勝ちというネタ。何か言うたびにお客さんが引いて『強えな、お前!』って。それが引けば引くほどウケましたね」。最悪な状況を逆手に取るのは、当時から必殺技だった。

兵藤育子=文
text IKUKO HYODO
稲田 平=写真
photography PEY INADA
スチーム=編集
editorial steam

関連キーワード

注目記事ピックアップ

 

編集部ピックアップPR

ブレイクフォト