「野球のことばかり考えてた。野球以外の大切さも知った」

古田敦也

2006.02.09 THU

ロングインタビュー


古田敦也
トヨタで2年会社勤めが奏功

プロ野球ってね、選ばれた人間しか入れないと思ってたんです。こっちがいくら行きたいって言っても、行ける場所じゃなくて。ドラフトが終わったそのときは“あ、まだ自分は呼ばれてないんだな”と感じました。悔しいというより、自分にがっかりした」

普通の公立高校から、一般の試験を受けて大学に入り“それなりにはできる”と思いながら野球を続けてきた。

「“野球をやってる普通の学生”で、“プロに行く人”ではなかったわけですよ。でも、これをきっかけに“絶対にプロに行きたい”と、より鮮明に思うようになりました。だって、見返さないといけないじゃないですか…誰を見返すのかはわからないけど(笑)」

大卒後の進路は、トヨタ自動車。ドラフトのときまで就職が決まっていなかったが、ときは87年。バブルだ。ここから少し目の色が変わった。

「次こそホンマに行かなアカンなと思いました。だから、入社以降は、どうすれば野球がうまくなるか、見てもらえるか、いろんなことを考えてたし、自分で言うのも何なんですけど、いやホンマによう練習もしましたよ」

まずトヨタのレギュラーを獲って、88年ソウルオリンピックのメンバーに選ばれること。プロに入るためには絶対に必要だった。選手としての実力を高めるだけでなく、日本代表というチームが必要とするプレーをリサーチし、実践した。結果、野茂英雄や昨年広島カープを引退した野村謙二郎らとともに代表チームで銀メダルを獲得した。

野球で入ったとはいえ、当然、会社でも仕事はある。

「朝8時から12時まで、部署で言うと、人事課第3人事係。ある工場の事務館というところにいました。約6000人が現場でクルマを作ってるんですが、それをまとめる役割。雑用は何でもやりましたよ。工場内でトラブルが起きれば、止めに行く。たとえば、駐車場のクルマの置き方とか(笑)。あとは、会社の施設の使用管理とか。交通安全キャンペーンとか、運動会の企画をしたり…クルマを作る・売るとはまったく関係のない部分で、働く方々を側面から支えるポジションでした」

結局、会社勤めは2年。

「この経験は大きかったですね。クルマが作られて売られる過程を見るだけでも勉強になりましたよ。ネジ1本に至るまでどれだけ多くの人と会社が携わっているのか。社内の縦関係や組織の横のつながりも理解できたし…当たり前ですけど、そういうことに関心なくプロに入ってたら違ってましたね」

89年のドラフトで2位指名され、翌年、ヤクルトスワローズに入団する。 古田25歳の年である。

野球に没頭して気づく野球以外のこと

“絶対プロに行く”という第一段階はクリアしたので、あとは残っていくこと。鳴り物入りで入った選手ではないので、競争に勝ってレギュラーになって試合に出ないと意味がないんです。そのためにどうすればいいのか」

当時の野村(克也)監督の著書を片っ端から読み、考え方を学んだという。起用されるため、監督の需要を取り入れたのだ。自分という商品をバージョンアップ。しかも、“あなた好みのこんな新機能がありますよ”とプロモーション。トヨタ時代と同じだが、状況はよりシビアだった。

「プロ野球のルーキーで25歳っていうのは、ファームで2~3年鍛えられる年齢じゃない。逆に言えば、5年ぐらいでクビになってしまう可能性もあると重々承知してましたから」

プロ1年目は106試合に出場。翌年には128試合に出場し、打率3割4分を記録し、首位打者にもなった。

「無我夢中とまではいいませんが(笑)、20代はやっぱり野球のことばっかり考えてましたね。どうやったらうまくなるか、難敵になるようなピッチャーがいたら自分が上がれないですから、死んでも打ってやると。最初の…7年ぐらいはずっとそんな感じでしたよ」

“そんな感じ”だけじゃなくなったのは、30歳を過ぎてからだという。野球という仕事に関してはもちろんこれまで同様に取り組んでいく。けれど、野球生活が終わっても生活は続いていく。

「野球ばっかりやってきた時期が続くと、ふと“このまま野球だけっていうのもなあ”と。やっぱりいろんなことに目を向けて…当たり前ですけど、スポーツ新聞以外も読みましょうと。そこから始めても、いままでと違った角度でものごとを見られるわけで」

意外なことに挑戦する。ハワイでサーフィンしたら酔った。『24-TWENTY FOUR』はバラバラに観ると待ちきれないので、まとめてアマゾンでご購入。…なんてことは、自身のブログで語られる。そうそう、このブログも、新しくハマっていることだ。

「野球やってうまくなれば、評価もされるし、他人からの扱いも良くなる。野球選手にとってはそれがいちばんだと思ってたんですけど、何であれ体験してみた方がいいなと。面白いのかどうかは、その後で自分で判断すればいい。未経験のことを経験してみないとな、と気づきました。まあそんなこと当たり前ですけどね」

普通の視点があるから球界がうまく見える

“当たり前なんだけど”、とよく言う。古田は98年にプロ野球選手会長になり、年棒契約に代理人制度を導入した。04年には球界を縮小再編しようとするオーナー会議と戦った。労働法を学び、ネゴシエーターとして大活躍した。昨年始まったセ・パ交流戦も、以前から提案してきたことだ。

“当たり前”なのは、世間一般やビジネスなど“外の世界”常識に照らし合わせれば、という意味だろう。古田は大きな視点で、球界全体を見てきた。そして今シーズン、新たな立場を得て、さらに具体的に動き始めた。

「プロスポーツって、エンターテインメントだと思うんです。大切なのは、観に来てくれた人がどれだけ楽しんで帰るか。球場に来ること自体がすごく楽しみで、ファンも球団も選手も一体感を持って盛り上がればみんなハッピーだと思う。その辺のお手伝いをできないかなと思ってまして」

まずは『F-PROJECT』と題した球団の改革。「神宮球場満員」「応援するチームから自分のチームへ」「球団IT化」を掲げ、プロジェクトリーダーには『カカクコム』の穐田社長を迎えた。各球団の変革から球界全体の底上げだ。

「仙台も大阪も福岡も、お客さんがたくさん入っていて、地域に密着して盛り上がっています。東京のスワローズというチームも、そういう都市に密着した姿勢をファンにアピールして、神宮球場で盛り上がろうやないかと」

プロデューサーではない。チームの監督だからもちろん試合に勝たねばならないし、チームを育成せねばならない。しかし、基本的に放任主義である。

「指示待ちの姿勢になると、表現やパフォーマンスはできないと思う。自分の意志がないと、正しいと思うことを自信を持ってやれない。結果は同じかもしれないけれど、自分で選択したという過程には大きな意味がある。その意志を育てたいんです。管理のなかからは生まれません。こちらの要求は、ひとつ。“何月何日にゲームがあるので、それまでに仕上げてきてください”。そのためには調整が必要ですよね。これ、プロの世界に残ってる人はきちんとできてるんです。その辺は早めにわかってほしいと思ってる。間違った方向に進んでる人には注意しますけど、自分で考える時間は与えてあげたいなと」

監督は死ぬまでには1回ぐらいやるだろうと思っていた、と言う。「自分の技術なりを伝えていくのは、ある程度の年齢までプロで野球を続けてきた人間の責任なんですよ」と。

技術もさることながら、“なり”の方…社会人の感覚を持ったプレーヤーがきっと今シーズン以降、これまで以上に増えることだろう。

1965年8月6日兵庫県生まれ。東京ヤクルトスワローズ選手兼監督。180cm、80kg。右投げ右打ち。川西明峰高校-立命館大学-トヨタ自動車。88年ソウル五輪で銀メダルを獲得。90年、ドラフト2位でヤクルトスワローズ入団。91年に340.で首位打者。これまでに優勝5回、日本一4回を経験。97年と01年には日本シリーズでMVPに輝く。ヤクルト黄金時代の立役者である。98年以降、労組プロ野球選手会会長として、労使交渉においても活躍。社会人出身の選手という年数的なハンディを背負いながらも、05年には2000本安打達成。ちなみにベストドレッサー賞にも輝く。今季より選手兼任監督として東京ヤクルトスワローズを率いる。公式ブログはhttp://blog.so-net.ne.jp/atsuya-furuta/、球団ウェブサイトは

■編集後記

ドラフト2位指名され、まさにヤクルトに入団したのが25歳。意外とトヨタでの社会人生活も肌にあってもいた。周囲からは不安定な世界へ飛び込むことに対して、心配の声も上がっていたという。「なんといってもトヨタ、一流企業ですからね。でも、ぼくのなかには、そこで躊躇する材料はなかった。プロしか道はなかったから。逆に親身になって心配してくれたみんなのためにも絶対にレギュラー獲って活躍しないといけないと思ってました」

古田敦也

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