「目の前のことを必死でやれば、何かが次につながる」

中村正人

2006.03.02 THU

ロングインタビュー


中村正人
イジメへのリベンジ。武闘派と音楽の芽生え

「マイケル・ジャクソン、マドンナ、プリンスと同じ1958年に東京で生まれまして。市川とかあちこち引っ越して小1から大阪ですわ。イジメられました。“はい、わかりました”って普通に言ってもカッコつけて聞こえたんでしょうね、東京の言葉が。先生が“生意気な子やな”って。やることなすこと気に入らなかったんでしょうね。登校拒否のようになりました。でも大阪のいいところは、強い人間を作るところ。そこまではっきり言われると“なにくそ”って気にもなる。小4のときにリレーの選手に選ばれた。小児喘息で身体が弱かったのでクラスメートは僕がきっとビリになるだろうと思ったんでしょうね。でも、予選でたまたま1位になった。それからは、ひたすらリベンジの日々(笑)」

中1で千葉・市川市に戻ると、時代はフォーク・ブームだった。吉田拓郎の「青春の詩」や泉谷しげるの「黒いカバン」に夢中になった。

「フォークギターを買いたかったのに質屋さんにはナイロン弦のギターしかなかったので、父がそれを購入。ギターを教えてくれた大学生のおにいさんが、ソウル・ミュージックの手ほどきもしてくれて。地元の音楽サークルに入って、マーヴィン・ゲイやバリー・ホワイトなんかの渋いブラック・ミュージックのベースを弾くことになった」

早熟な音楽少年。しかし少年時代のスペクタクルは高校生活にあった。

「文化祭がすごく盛んな高校で、野外ステージ担当として燃えましたね。ステージの設営から照明、音響まで一切を取り仕切る。騒音対策のためにベニヤ板と新聞紙で防音壁を1年かけて手作りしました。でも運動部の連中は気にくわないわけです。野外ステージをやってるから校庭が使えない。それでお互い激しくやり合った。感動と乱闘、青春映画そのものですよ。それで燃え尽きたからかな、卒業以来、その高校には一度も行っていない」

やるだけやったら燃え尽きる少年時代だった。

人生の暗黒時代と、25歳の“誕生日”笑顔

やがて苦い挫折を味わう。浪人して、外交的だった高校時代から一転「人間嫌いになった」。翌年も志望校の受験に失敗して、青山学院大学へ。

「クラスは女子40人、男子10人だったかなぁ。ちょうど『JJ』が創刊されたころで、オシャレな子が多くて肩身が狭かったですよ。音楽は続けてましたが、大学のサークルには桑田佳祐さんをはじめ大先輩がいて行きにくい。結局、大学の西門の前にあった喫茶店でバイトを始めた。大学の近くまでは行くんだけど、中には入らない(笑)。いま思えば、音楽を理由にしてひたすら何かから逃げている生活でした」

マサさんの“何かから逃げる暮らし”はさらにエスカレートしていく。喫茶店の仕事が終わった後、夜8時から新たにバイトを始めた。青山の伝説の店『ガスコン』で働き始めたのだった。『ガスコン』は、いわゆるパフォーマンス・パブのハシリで、一流ミュージシャンや有名モデル、スタイリストたちが遊びに来るヒップな場所だった。

「お客さんに合わせてレコードをかける。今でいうDJみたいなもの。『ガスコン』で回せるのは名誉なことでしたね。いろんなレコード会社の人も、最新の音楽をチェックしに来てたし、海外のアーティストもたくさん来てた」

ちなみにマサさんの憧れの人、アメリカのトップ・ベーシストであるウィル・リーも来店した客のひとり。

「そのとき、彼が参加したアルバムをずっとかけ続けたらすごく喜んでくれて。その後20年ぶりに、吉田美和のソロ・アルバムの仕事でウィル・リーと再会した。そしたら彼が言うんですよ。 “前に日本に行ったとき、俺の弾いてるレコードをずっとかけてくれてるヤツがいた”って。“それ、僕ですよ”って言ったら、びっくりしてました」

「『ガスコン』は朝4時を過ぎたら給料なし。店長が言うには“人生勉強だ”。しかも時給は420円。もうボロ雑巾のように使われました(笑)」

それがヤバイ時期の始まりだった。当然、家には帰らない。帰れない。

「ウチのオヤジは怖かった。スパルタでしたから。だけど僕が大学を卒業することを本当に願っていた。なので、4年で出られないとわかったとき、オヤジは涙を浮かべて“それでオマエは何をやりたいんだ? ”って。“音楽”って答えたら、即、勘当されました」

感動と乱闘、そして勘当。ジェットコースターのような日々が続く。

「スケジュールも立たないその日暮らし。音楽をやりたいって言ってみたものの、実際はバイトで忙しくしてるだけ。お金がなくて苦しいフリをしてたけど、精神的には楽だった。本当はやりたいことなんかなかったのかも」

ヤバイ時期は、唐突に終わった。

「大学時代から付き合っていた彼女が、本気で僕が音楽家になることを支援してくれていた。先に彼女は就職してたし、僕もいつかは就職して結婚するつもりだった。で、僕の25歳の誕生日に彼女から電話がなくて、変だなと思っていたら、僕のあまりのふがいなさに愛想を尽かしたのでしょう。他の人と付き合ってたらしい。僕は全然知らなくて。彼女を幸せにするっていう大義名分があったのに、ただの飲み屋のバイトになっちゃったって、そのとき初めて気が付いた」

傷心。ついにマサさんは自分の夢と真正面から向き合うことを決心する。

「25歳の誕生日の次の日にフラれて、人生が変わった。フってくれてありがとう、ですね」

やらなくてはいけないこと。そしてでっかい夢

『ガスコン』で業界人の客に渡したデモテープをきっかけに、タレントのバックバンドの仕事を開始。やがて吉田美和と出会い、片っ端からレコード会社に売り込み。が、反応は冷たかった。

「バンドブームの真っ最中で、しかも俺は妙に業界に詳しくて年齢もいってるし。“君が抜けるなら契約してもいいよ”って言われたり。これは吉田の手前、つらかったですね」

デビューを果たしたのは、マサさんがギリギリ30歳の89年だった。

「30歳までは、やりたいことなんてなくていいよって、よく言うんです。簡単にわかるわけがない。今やってることが夢につながらなくてもいい。ただ目の前にあるものに対して、その瞬間、瞬間を必死でやってれば、何かが次につながる。吉田と出会って、僕は吉田の音楽を伝えるために存在してるってわかった。やりたい、やりたくないではなく、やらなくてはいけないことを見つけたんですね」

ドリカムは、デビュー直後の反応こそ鈍かったものの、ひたすらライブを展開、セカンドアルバムでは早くもチャート2位を獲得。90年のサードアルバム『WONDER3』でついに1位を奪取。初の紅白歌合戦に出場を果たす。

「その年の夏に親父が亡くなって。紅白、見せたかったな」

5枚目の『The Swinging Star』は300万枚をオーバー。

「500万枚とグラミー賞が夢。まだひとつもかなってない」

まさに25歳から始まったマサさんの夢へのトライアル。溜めに溜めた夢だけに、さすがにでっかい。最新アルバム『THE LOVE ROCKS』のオープニング・ナンバー「PROUD OF YOU」で吉田美和は、“あなたのこと大大誇りに思います”と歌う。“「最愛の友」はこれからもやめないでください”とも。

「ドリカムやってて、今がいちばんつらいですね。自分が掲げた夢の前に、押しても開かないドアがある感じ。プライベートもつらいですよ。フラれっぱなし。こんなふうにドリカムやってると付き合ってくれる人、いません」

笑いながら言って、「でも新しいアルバムが出せてよかったな」と再び感謝の言葉を口にするマサさんだった。

1958年10月1日、東京生まれ。青山学院大学文学部英米文学科中退。中学時代からギターをはじめ、ベースに移行。大学中退後は、とんねるずや小泉今日子などのバックバンドでベーシストとして活動。吉田美和を見出し、89年DREAMS COME TRUE としてデビュー。90年『WONDER3』で初登場1位、92年の『The Swinging Star』は日本で初めて300万枚をセールス。2月にリリースの『THE LOVE ROCKS』は13枚目のアルバム。ドラマ『救命病棟24時』主題歌「何度でも」やロッテCMソングの「JET!!!」、テレビ朝日ドラマスペシャル『愛と死をみつめて』テーマ曲「めまい」など13曲を収録。初回限定盤にはドキュメンタリー+プロモ106分収録のDVD付き。

■編集後記

「ヤバイ時代」に別れを告げたのがこの時期。ハタチから25歳まで、何も始めていなかったころの記録は今も残っていない。ほんの少しずつ、ミュージシャンとしての仕事もいい具合になり始めていた。そして手帳にもスケジュールを書き込めるようになってきていた。それと、「とにかく夢中でレコード集めてました。いまでこそDJのみなさんが素材として使ってますが、僕のころは、それらがまさにすべて。ドリカムサウンドの原点はその辺にあるといえますね」

中村正人

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