「いま、自分のいちばんやりたいこと。」

時任三郎

2006.03.23 THU

ロングインタビュー


時任三郎
大工さんからつながった。自分のすべてが道具である

俳優を志したのは、大学生のとき。中学・高校時代はアクティブだった。自転車で四国まで旅したり、往復14kmもある道のりを徒歩で通学してみたこともあったという。でも大学で演劇…。「自由人なんでしょうね。ふらっと旅に出るのも、行動パターンを変えてみたりするのも、そういう風来坊的なベースから来るものでしょう。でも、自分の思いに反した行動はとっていません。周りからは突然だと思われても、自分の中ではつながってるんだよね」

小学生のころの夢は「大工さん」。物作りに興味があったという。

「それで中学校のとき、何かの折りに、姉が“役者になったら”って言ったんです。そのときは気にしてなかった。同じころ、俺が歌いたがってたからだと思うんだけど、今度は兄貴がギターを買ってくれた。漠然と物を作りたいと考えてた俺に対して、兄貴や姉貴が少しずつ種をまいてくれていた」

高校は木材工芸科(現在のインテリアデザイン科)に進み、大阪芸術大学では工業デザインを専攻。着々と物作りの道を歩み続けてきた。すべては「大工さんになりたい」から始まっていたのだ。

「大学に入ったときに芝居と出合った。昔、絵を描くのが好きで、でも絵を描くときには鉛筆とか筆を使うよね。立体の場合も、木材と鑿が必要。道具を使って作るじゃないですか。大学の小さいアングラ劇団で演じてみたとき、“これだ!”と思ったんです。それまでは道具を使って物を作っていくことをやろうとしていた。その道具が、自分の身体であり、精神である。全部がつながりました。自分のやることはこれなんだという、確信に近い感覚」

大工さんと俳優がつながった。「絵を描いたり木を削ったりする以上の最高の表現方法」の発見だった。それから1年と少しあと、時任三郎は大学を辞めて上京した

順調なキャリアと煩悶する20代

「ほとんどすぐでしたね、ミュージカルへの出演が決まりました。一応ギャラをもらって出たっていう意味でプロデビューかな。オーディションを受けたんですよ。一緒に役者の勉強してたヤツが誘ってくれて。で、ありがちな話ですが、俺だけが受かりました」

これが80年、22歳のとき。翌年にはドラマ『虹色の森』で、本格的にTVデビュー。シンガーソングライターを演じ、歌った挿入歌「川の流れを抱いて眠りたい」が大ヒットする。『ふぞろいの林檎たち』でイケてない大学生を演じ、『俺っちのウェディング』でスクリーンデビューするのが25歳。

順調すぎるR25時代である。

しかし、時任三郎は悶々としていた。存在が知られ、名が売れるにつれ、自分のコントロールができなくなった。

「自分の意志の及ぶ範囲が限られてたんです。“時任三郎”全体としてまとまっていることもなく、俺の力が届かない範囲がいっぱいあって、ぐしゃぐしゃになっていたような気がします」

自分の身体を使って表現したい――極めてシンプルな動機でスタートを切ったにもかかわらず、そうした、ある意味ものすごく簡単なことすらできなくなっていく状況が日に日に重くなってきていた。

「コミュニケーションがうまくとれないのが俺の欠点だと思うんだけど、そのころは、ものごとが自分の思いとは全然違う方向に動いていました。他人の作った線路を走ってる状況で、そういう自分にガマンならなかったんです。自分で敷いた線路を走りたいし、石橋を叩いて壊したうえで、自分で橋作って渡りたいタチだし(笑)。やっぱりどこか風来坊的なところがあるんです」

“自分の好きなことをやって生きていきたい”ってすごくピュアに思ったことが、自分の好きな形ではなくなってきていた。だから役者ということにこだわらず、いちばんやりたいことは何かという、ルーツに立ち返ることにしたという。それが…

「空を飛びたいってことだったんです」

人気絶頂の88年、時任三郎は、休養に入った。

やりたいことはなんだ。そして、ポリシーの貫徹

“空を飛びたい”というのは、比喩ではない。この時期、スクールに入り、パラグライダーで実際に空を飛び始めていたのだ。

「リセット…他人から見れば“アイツ仕事休んで空飛んでるぜ”ってぐらいにしか思われなかったと思うけど、自分にとっては大きなリセットでしたね。やりたいことをやりたくて始めたのに、いつの間にかがんじがらめで、不自由で。それは役者だけじゃなく、サラリーマンでも何でも感じることだよね」

この『R25』も、まさにそうした、立ち位置を見失った世代に向けて作られた側面もある。

「右も左も分からない時代を過ぎて、社会の裏側の導入部ぐらいが見えてきた世代だと思うんだけど、そのとき、オレの場合は嫌悪感でいっぱいになった。考え方次第。見方を変えれば面白がれて伸びていくこともできるけど、違う見方をすれば、どん底へ落ちていく。いろんな仕事やいろんな立場の人がいるから一概には言えないけど、社会と自分のなかでぶつかりがあるのなら、そこで角度を変えてみる。無理やり押すのか、押すのをやめて様子を見るのか。その人なりの何か、切り替えのチャンスとか、何かが見えるといいですね」

そのとき、時任三郎はリセットを選択したわけだ。リアルな話だが、空を飛んでる間、収入はない。世間への露出が減れば、忘れ去られてしまうかもしれない…。「不安がまったくないって言うと嘘になるけど、ほぼなかった。だってゼロから始めたことが、またゼロに戻るだけだから。そういう気持ち。すごく開き直ってたんですよ。休むことで、仕事が来なくなって世間から忘れ去られるなら…そこまでの人間でしかなかった、ってあきらめるしかないだろうと。またそこからスタートすりゃいいじゃないかって」

約2年のオフ。後に移住することになるニュージーランドに出合い、奥様に出会い、世界の空を飛びまくって、ごく普通に日常に戻ってきた。

「初心に返ったというか。リセットした分、最初のころの気持ちにこだわるようになりました。よりピュアに、“自分が出ることが作品のプラスになるのか”“この作品は自分にとって面白いのか”って」

“何がやりたいか”という本質的なこだわりが、一層極立つようになった。

「わがままじゃないんですよ。キミがいて僕がいてスタッフがいて…どうせなら、できる限り面白いものを作りたいじゃないですか。そんなポリシーを貫いてきただけなんです」

今年でデビュー26周年。時任三郎は、“ポリシーを貫くこと”に対して一切ためらわない。40歳のときには、家族と共にニュージーランドに渡り、4年間暮らした。

こうしたポリシーは確実に尊重されるようになってきた。ドラマ『Dr.コトー診療所』の男気あふれる漁師しかり、『海猿』の現場にこだわる潜水士隊長しかり…彼ならではの役柄をオファーされ、見事に演じ分ける。

一方で、音楽のほうも26周年。

「音楽では等身大でいいと思ってます。一時、CDのリリースが7年開いたんです。それでもう歌わないのかなと思ってたんだけど、俺の歌を聴きたいって、一緒にやってたミュージシャンが言ってくれたんですね。そこから、また始まったんです」

最近リリースした2枚のアルバムはインディーズ。ライブも、ウェブサイトで主催者と会場を募集する手作り感覚だ。

「等身大の時任を歌い続けます。昔から聴いてくれてる人が少なからずいて、支えられてる。その人たちが聴きたいって言ってくれる限りは歌い続けていきたいですね」

やっぱり、一貫しているのだった。

1958年2月4日、東京都世田谷区生まれ。青森県弘前市を経て、幼稚園から大学までを大阪で過ごす。大阪芸術大学デザイン学科中退後、上京。80年 ロックミュージカル『HAIR』でデビュー。TVドラマデビューは翌年『虹色の森』で。同時に挿入歌でレコードデビュー。映画デビューは83年『俺っちのウェディング』。同じ年、ドラマ『ふぞろいの林檎たち』に出演、後にシリーズ化される。84年には映画『海燕ジョーの奇跡』が大ヒット。若手俳優としての地位を確立するも、88年よりパラグライダー休暇。独自のスタンスで作品に取り組むようになる。98年以降シーカヤックにハマリ、ニュージーランドに子育てのため移住。帰国後、『Dr.コトー診療所』『アイ’ムホーム』などに出演。最新作は映画『LIMIT OF LOVE 海猿』(5月6日より東宝系にて公開)。また、音楽業では12枚目のアルバム『君の帰る場所』がリリースされたばかり。現在ライブツアー中(4月14日、六本木スイートベイジル他)。詳細は

■編集後記

83年5月、のちにパート4まで作られることになる『ふぞろいの林檎たち』がオンエアされた。このとき、時任三郎・25歳。仕事が軌道にのると同時に、好きでないことが雪だるまのようにいっぱいくっつき始めていた。26歳ごろから、時任三郎はしきりにエッセイなどで語るようになった。「立ち止まろう」「ゆったりとした時間を過ごさねば」「食えなくてもいいから、好きなことを」…。ポリシーを貫く難しさをひしひしと感じていた。

時任三郎

関連キーワード

注目記事ピックアップ

 

編集部ピックアップPR

ブレイクフォト