「つねに道を切り開いてきた。切り開き続けていく」

ジャッキー・チェン

2006.03.30 THU

ロングインタビュー


ジャッキー・チェン
ジャッキー全力投球。武侠への新たな挑戦

スクリーンでのジャッキーの顔は険しかった。憂いに満ちた表情で、主君である始皇帝のために――その実は、王妃の玉漱のためでもあったりするのだが――闘う。秦の時代の蒙毅将軍。そして、同じ顔をした将軍の夢を見る現代の考古学者ジャック。映画『THE MYTH/神話』で二役を演じている。

「ジャックは簡単でした。これまで僕が演じた役柄の延長線上だから。将軍は大変。ずっと渋い表情で、泣きたくても泣かないし笑いたくても笑わない。心にまで甲冑を着た男なんです。ラブ・シーンでも“アイ・ラブ・ユー、ハハハ”なんて言えません(笑)」

将軍とジャックそれぞれキャラクターにあった見せ場がある。ストイックな将軍はハードな剣劇。炎を上げて谷底に転落する馬車を引き上げながらの戦闘や、手負いのまま無限の敵と切り結ぶチャンバラ。ジャックは命綱なしでインドの渓谷を飛び、工場のベルトコンベアの上でコミカルに戦う。50歳をすぎて一切の手抜きなし。

「今まで、何をするにしても一所懸命専念してきました。ファンの人たちにも、友達にも、会社にも、そして自分に対しても“申し訳ない”と思うようなことはしたことがありません。そう言えることが僕の誇りです。現場で考えついたことは必ずやってきました。もちろん失敗もありますけど」

ジャッキー・チェン作品といえば、エンドロールでのNG集がおなじみ。それは、どれだけ知恵を絞り体を張って映画を作ったかという証拠である。85年の『サンダーアーム/龍兄虎弟』では石垣から木に飛び移るスタントで、15m落下。頭蓋骨骨折の重傷を負っている。今回の作品でも20人以上が骨折したというし、自身も細かい生傷は絶えなかった。

「つねに新しいこと」に「そのつどそのつど全力で」取り組む。実は『THE MYTH/神話』はジャッキーにとって初めての“武侠映画”。読んで字のごとく、武術と侠気。自らの力を頼りに他人を助ける―簡単に言うと、中国の時代劇である。

「僕自身はずっとやりたかったんです。でも世界のマーケットに、武侠物はフィットしなかった。欧米の人々に“中国の歴史”って言うと、万里の長城とチンギス・ハンしか知らないと思う(笑)。だからどうしても舞台は現代で、僕の役柄は警察官ということになる。でも、ここのところ、ずっと撮りたかったけど撮れなかった作品に着手するようになってきたんです。マーケットのことなんてあまり気にしないで、ね」

気持ちが変わったのは約2年前。最新のターニングポイントだ。だが、それを語る前に、過去いくつかのターニングポイントのお話。いかにして世界に羽ばたくようになったのか。

第二のリーから、オリジナルのチェンへ

1954年、香港で生まれたジャッキー・チェンは7歳のときに中国歌劇研究所に入学する。早朝から深夜まで武術や歌や踊りを学び、10年間在籍。“七小福”と呼ばれる優秀なチームで子どものころから映画に出演していた。

「17歳のとき、武術指導をやりたいと思ったんです。それからは毎日、いろんなカンフーを学び、カメラレンズの違いによる効果を学び、編集を学び、カメラアングルを勉強し、仕事をしながら学んでいったんです。その翌年には、アジア一若いスタントコーディネーターといわれるようになっていました」

並行してブルース・リーの作品に脇役やスタントマンとして出演していた。73年、ブルース・リーの死とともに、ジャッキーに俳優としての白羽の矢が立った。香港最大のスターの穴を埋める人材が求められていたのだ。

「当時はぼくもブルース・リーでしたよ(笑)。映画のポスターの真ん中に“第二のブルース・リー”って書いてあるんです。“第二の”がすごく小さく“ブルース・リー!”がでっかく書いてある。で、ぼくの名前はどこだ? って見たら、下のほうに小さく小さく“ジャッキー・チェン”(笑)。そのころはブルース・ライ、ブルース・イー、ブルース・テーブル、ブルース・ゴハン(笑)…あらゆるブルースがいました。映画館で見て思いました。変えないといけないって…」

74~75年には俳優活動を一時休止し、オーストラリアへ。カンフー映画が下火になり、好きな映画が撮れなかったのだ。76年に香港に戻る。この年『少林寺木人拳』に、翌年には『成龍拳』に主演。そして78年、『スネーキーモンキー/蛇拳』が香港で大ヒット。もはや“第二のブルース・リー”ではなかった。

「みんなが歩いてきた道を歩くのは、安全で簡単です。でも抜きん出ることはできない。ぼくは少し歩いたら自分の好きなところで曲がる。そこに道はありません。自分で切り開くんです。人がぼくの道をついてくるようになると、また別の道を切り開く。それがぼくの哲学です。そして、どこに向かっていけばいいかは、つねにマーケットが教えてくれたんです」

並みの俳優ならば、「映画に出演して演技をして、出番が終わったら帰って寝るだけ(笑)」と言う。だが武術指導からスタートし、やがて演出家になった彼はつねに映画全体を俯瞰してきた。そのうえでとるべきベストな道を選択してきた。

「何がウケなかったのか、どうすればウケるのかをつねに心がけていました。以前は間違ったこともあるけど…」

たとえば最初のハリウッド進出。79年~85年にかけて『バトルクリークブロー』『キャノンボール』などのアメリカ映画に出演した。これも独自の道。

「みんな、ぼくのスタイルが気に入らなかった。“ジャッキーのパンチには力がない”って(笑)。“ジョン・ウェインのアクションだったら、力が入ってるから一発で敵を倒すだろ”って。でも、そっちの方が簡単に撮れるんですよ。アクションをバッバッバって続けていく方がむずかしいのに…」

香港に戻って『プロジェクトA』『香港国際警察』など、おなじみの名作を生んだ。アメリカの映画作法とジャッキーのセンスの融合だった。96年、アメリカで公開された主演作『レッド・ブロンクス』は興行収入1位を記録する。ジャッキーは間違っていたのではなく、早すぎたのだ。そう告げると…

「(笑)。いまではハリウッドでもみんなぼくの映画を観てくれます。バットマンでもスパイダーマンでも、戦闘シーンもババババって連続していく“ジャッキー・チェン・スタイル”。みんな中国のカンフーで戦っています」

もはや神話かもしれない。いつまで撮るのだろう

2年前、ジャッキー・チェンは50歳になった。ハリウッドでも成功を収め、“アジアのマーケットと欧米のマーケットの違い”を身をもって知る。「将来的にはそれらをひとつにしていくことが大切」であることもわかっている。でありながらなお、マーケットをあんまり気にしないで、自分の撮りたかった作品に着手するようになったのは――「夢がありすぎるから」

あと何年、映画が撮れるかを考えると、残された時間が意外に短いことに気づいてしまったのだという。

「実はいま消防士の映画が撮りたいんです。いまなら現場の隊員ができるけど、しばらくするともう、司令官みたいな役しかできない。でもスケジュールが08年まで詰まってるんです。どんどん撮っていかないと撮りきれない。今年の暮れから来年にかけてはイー・トンシンと『SHINJUKU STORY』、07年末から08年はチャン・イーモウと。『RUSHHOUR3』も『MONKEY KING』っていうのもあるし…あと何だっけ(笑)。この映画は“神話”っていうタイトルだけど、もし神様がいるなら、僕自身のこれまでが、神話みたいなものだと思う。30年以上アクションやってこられてるんだから」

一方で、いつも自問自答するという。

「いつリタイアするんだろって。でもこれからも撮っていくんだろうなあ」

ジャッキー・チェンはにこにこ笑って、この2日後、東京を後にした。来日直前まで撮影していた新作の現場に戻っていったのである。

1954年4月7日香港生まれ。7歳から中国歌劇研究所で武術や芸能を学ぶ。18歳のとき、武術指導のプロに。76年にロー・ウェイ監督と主演契約を結び、俳優活動が本格化。78年『スネーキーモンキー/蛇拳』でブレイク。『バトルクリークブロー』『キャノンボール』などのアメリカ映画出演を経て、83年に『プロジェクトA』を85年には『ポリスストーリー/香港国際警察』を制作。96年『レッド・ブロンクス』でハリウッドにリベンジ。世界的なスターとなる。04年の『香港国際警察/NEW POLICE STORY』は、従来のジャッキー的アクションに悲劇の要素を盛り込んだ新機軸。公開中の『THE MYTH/神話』は初の武侠ものと、つねに新たなものを求める姿勢は留まるところを知らない。

■編集後記

子役から映画に関わり、18歳で武術指導として一本立ちしてジャッキーがブレイクするのが24歳。オリジナルのジャッキー・チェン・スタイルが確立されつつある時期だった。香港で大ヒットを記録するのは78年の『蛇拳』。『蛇鶴八拳』『ドランク・モンキー/酔拳』が公開され、香港のスーパースターとなる。25歳で本格的に日本上陸。『クレイジー・モンキー/笑拳』で監督デビューしたのも、『バトルクリークブロー』でハリウッドデビューしたのも、同じ25歳だったのだ。

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