「いつも誰かが背中を押してくれた」

関根 勤

2006.04.06 THU

ロングインタビュー


関根 勤
消防士のはずが…。とにかく30歳まで!

“なりたいものがなかった”から、消防士。だが、中学時代から8年間やってきたお笑い活動が、就職活動に変わらざるを得なくなり、心にぽっかり穴が開いた。

「そんなとき『ぎんざNOW』の『素人コメディアン道場』を知ったんです。それで、あくまで、青春の思い出として応募しちゃいました。絶対受かりたいから、オーディションのとき、8年分のネタ全部やったんですよ。ひとりで50分ぐらい(笑)。当時もう、千葉真一さんとか水森亜土さんはやってましたね。あとは馬場さんと猪木さんも」

ネタの豊富さに急遽、コーナーは勝ち抜き形式になり、初代チャンピオンとなった。そして、萩本欽一所属の芸能事務所・浅井企画の社長直々にスカウト。が、生活に不安を感じ断る。

「そしたら“コント55号を育てた浅井がキミの才能を認めるんだ!”って(笑)。そりゃ舞い上がっちゃいますよね。ちょうど大学3年の秋だったんで、卒業までという形で、1年間だけ仮契約しました。最悪の場合、また消防士に戻ればいいやって思って」

まったく鳴かず飛ばずだった。しかし予定の1年が過ぎても、用意した逃げ場に戻ることはなかった。

「あとに引けなくなっちゃったんですよね。あまりにも通用しなかったんで。全部が新しい現場だし最年少だしガチガチになってた。このビビリが治ったら、ウケるはずだって。それで、30歳までやろうと思いました。30なら、同年代の共演者やディレクターも出てきてやりやすいだろうと。それとね、このまま消防士になったら絶対後悔するって思ったんです。 “俺もやればできてたかもなー”って。負け犬の遠吠えより、やって後悔したほうがいい、と」

しかし、いかにカッコよく決意したところで、状況はまったく変わらない。25歳のときは人気バラエティ番組『カックラキン大放送』で評判を落とした。

「カマキリを演じておりまして、国民のほとんどに気持ち悪いと言われましたね。良かれと思ったことがすべてが裏目に出る。ストーカーと同じ。相手の気持ちがわからない。でも一所懸命愛してる。愛してくださいと(笑)」

本編の出演シーンが全部カットになり、オープニングとエンディングしか映っていないこともあった。つらかったが、単純なつらさでいうなら「小学校の給食のほうがつらかった」という。

給食を残すことを許さない、大正生まれの厳格な担任教師との戦い。極度の偏食の勤少年は目の前に置かれた給食を放課後まで見つめ、毎日、担任教師の帰宅後に捨て続けていた。これが小2~小5の4年間。ここで、つらさへの耐性ができた。同時につらさを忘れるためにハマったのがお笑いだった。

ともあれ、「たぶん、すべて間違ったまま“カックラ”は終わりました」。萩本欽一と出会うのは、27歳のとき。小堺一機とともに、ライブハウスでコントをやるよう指導され、さらに2年後、『欽ちゃんのどこまでやるの!』への参加が決まった。期限ギリギリ!

プロとは何かを知り、自ら開拓してゆく

『欽どこ!』自体はすでに放映開始6年目で、『欽ドン! 良い子悪い子普通の子』『欽ちゃんの週刊欽曜日』とあわせて、萩本欽一は“視聴率100%男”と呼ばれていた時代だった。

「ものすごいプレッシャーでした。芸能生活31年ですけど、出番前に胃が痛くなったのは『欽どこ!』だけですね。魔人に胃をギュッてつかまれたみたいに」

演じたのはクロ子。最初は萩本一家の娘・かなえの彼氏役だったが、すぐに外され、グレ子役の小堺一機とコントを演じるようになる。

「楽になりましたね。小堺くんとはずーっと仲良しで。27歳からラジオも一緒にやってたし、ふたりでやってたコントのストックもあったし。萩本さんは何にも言わないんですよ。コントに関してアドバイスしないしダメ出しもないし。何か言ったら萎縮するからって、泳がせてくれてたんです」

萩本欽一はコメディアンとしての常識を徹底的に叩き込…んだら萎縮するので、叩き込まない形で教えてくれた。

「クロ子の衣装は足が短く見えて、地味だし目立たない。“そういうのを見てる人は応援したくなるんだ”って。“コントだけじゃなくて素のしゃべりがあったほうが伝わる場合があるよ ”つって、全部演出してくれるんですよ。僕らのことじゃなくって一般常識だから、萎縮しないで済んだんです」

関根 勤は欽ちゃんの天才に感謝する。やや脱線するかもしれないが、萩本欽一の天才的エピソード…。

「萩本欽一は、まったくできなかったんです。初舞台であがって一言もセリフが言えなかった。で、どうしたかっていうと、11時からの舞台に朝の7時から行くんです。ずっと客席を見て先輩の演技を全部やる。すると場所に慣れてくるんですって。舞台に立てるようになったら、あるとき手がブラブラしてることに気づいた。この手をどうしよう。先輩を見る。ほかにヒントはないかと、近くの映画館に行くんです。石原裕次郎や小林 旭はどうしているんだろうって、ずーっと手だけ見てるんですよ。それで、こういうときはポケットに入れる、こういうときは頭をかくんだと理解する。次は立ち方だ、次は目線だ、次はしゃべり方だ…全部見て考えて1個1個積み重ねてきた。天才は、普通は他人には教えられません。萩本さんは努力を積み重ねました。で、手法を構築したとき、努力だけでは行けない領域に入った。そんな天才です。だから、理論で説明することもできるし、実際に演じてくれる」

“『欽どこ!』はやり直しの場であり、ターニングポイント”と、断言する。

「僕は、格闘技でたとえると街でケンカがちょっとできるだけの男だったんですね。そのままプロのリングに立ってずっと殴られ続けた。それで27歳で会ったときに、萩本さんがもう1回僕を基礎から作り直したんですね。それで、今度は欽どこへ行って、寝ワザのポジションはこうで、フェイントはこう。タックルの位置はこうだって全部教えてくれたんです」

並行して、奇妙な発想の種も芽生えていた。きっかけは、小堺一機とのラジオ番組。あるアナウンサーの帯番組の木曜日だけを担当することになった。当時27歳、夜9時・TBSという舞台に、ガチガチ。散々な結果に終わる。ハガキも、週に2枚しか来ない。

「小堺くんとふたりで“クビになるね”つって。“つらいからワザとクビになっちゃおう”って。当時ライブハウスでやってたわけのわかんないコントをやったんですよ。いきなり“おじさーん、ガムちょうだーい”って言うと “俺は不死身だぁぁ”って返して、“チョエーチョチョチョエー”って叫んだり」

クビにはならなかった。“ヘン度”が足りないと、さらに意味のないしゃべりを続けたら、逆にハガキが増えた。

「リスナーが僕たちの意味のないセンスを聞き始めて、消化して構築し始めたんですよ。ハガキが僕らのセンスを越え始めたんですよ。そこにまた刺激を受けまして。どんどんヘンな世界を自分のなかで作り上げていったんですね。それでヘンな発想が頭のなかで膨らみ続けるようになってたんです」

時は流れて“欽ちゃん道場”を経て、プロとしてからだもワザも出来上がった30数歳。関根 勤はビートたけし司会のバラエティ番組に招かれた。

「VTR中のツッコミどころはみんなたけしさんが言っちゃうんですよね。“なんか言うことないかなぁ~”ってVTR見てると、ふとあることを思ったんです。で、ちょっと言ってみようかなって。“さっきのVTRのロニーって、次男っぽいですよね”って。ウケたんですよ」

それが、今日、栄華を誇る関根ワールドの、最初のひとことだったのだ。

「正統派は先輩が全部やっちゃうから、俺は変化球でいこうって。そのスペシャリストになるしかないなと。でもね、そこを最初に目指したわけじゃなくて、そこしか席がなかったんですよ。だからカッコ悪いんですけど、全部自分の意思じゃないんですよね。決められた流れのなかで要所要所でポーンと誰かが背中を押してくれたという…」

1953年8月21日、東京都港区生まれ。日大法学部在学中の21歳のとき、TBS『ぎんざNOW!』の素人コメディアン道場で5週勝ち抜き、初代チャンピオンになる。これをきっかけに浅井企画に所属。デビュー当時の芸名はラビット関根。名付け親は桂三枝だった。ジャイアント馬場や千葉真一、大滝秀治や宇津井健、輪島功一、青木功など、ものまねのレパートリーは100を超えるといわれる。82年9月より『欽ちゃんのどこまでやるの!』にレギュラー出演。萩本欽一のアドバイスで本名の関根 勤に戻し、親友である小堺一機と「クロ子とグレ子」役で人気を博す。その後、奇妙な持ち味を開花。いかなるタレントと組んでも実力を発揮し、必ず結果を出す稀有な存在となる。なおブレイクのきっかけとなった『欽どこ!』は『欽ちゃんのどこまでやるの! DVDボックス』として4月5日、ポニーキャニオンより発売された。

■編集後記

堺 正章に研ナオコを擁し、野口五郎、郷ひろみ、近藤真彦…時代のアイドルをフィーチャーした公開バラエティ。本文中ではサラリと語られているが『カックラキン大放送』はすごかったのだ。「つねにアウェーの気分でした。女の子たちはアイドルのみなさんを見に来てるし。より気持ち悪く演じれば演じるほど突き放される(笑)」。だが、事務所との契約時、父上が“公務員の給料と同等”という条件をあげたため、生活苦ではなかった。そこが一層つらかった。

関根 勤

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