「『好きだから』以外に何があるんだろう」

竹中直人

2006.04.13 THU

ロングインタビュー


竹中直人
好きだから作る“作りたい”の背景

劇中では、高校時代の正平も登場。実際の監督のエピソードがさしはさまれる。授業を抜け出して屋上から好きな子の授業風景を眺めたり、“絶叫告白”を予告した手紙を渡したり…。

「恥ずかしいから極端な行動に出てたんじゃないですかね。素直に伝えられないから…そういうふうに自分で自分のことを分析するのも変ですけど。そういうふうになっちゃうんですよね。それが映画になっちまったことに対しては不思議な感情がありますね」

“なっちまった”はじまりは、脚本家の馬場当が竹中監督をイメージして書いた「ミセス『洋燈』へ」という脚本。

「読み終わったときに、僕の大好きなSUPER BUTTER DOGっていうバンドの『サヨナラCOLOR』っていう歌を思い出して…これが映画のタイトルとして自分の頭の中に浮かんだんですよ。それで自分なりにエピソードも増やしたり設定を変えていきました」

映画を観終わったり小説を読み終わったときと同じ。得た印象が『サヨナラCOLOR』という曲だった。そこに向かって映画は作られ始めた。

映画にメッセージを込めることはない。テーマという言葉も好きではない。

「よく“どういう世代に見てほしいですか?”って質問されるんですが、“そりゃ全部だろ” と(笑)。“見どころは”って聞かれても、わかりません。映画は印象だって思っているので」

『サヨナラCOLOR』が、印象として浮かんだ曲に向かっていったように、ふと見た風景の印象から話が広がることもあるという。『東京日和』のときは、たまたま立ち寄った書店で手にした荒木経惟・陽子の『東京日和』という本を開いた瞬間がそうだった。

キャスティングにも結構そういう部分があって、たとえば今回の原田知世。

「最初から自分のなかではどういうポスターにしたいかってことは決まってました。ブルーのクルマがあって向こうに海が見える…僕と同世代の女優さんのお名前がいろいろ挙がったんですけど、『サヨナラCOLOR』って曲がぴったり合うのは原田知世さんしかいなかった」

街で見かけて、思わず声をかけてしまったのが雅子。

「何か無機質な感じがしたんです。試写会で並んでたらパッと目が合って、“ウワァ、何この佇まい!”って思って。一瞬目が合ったまま止まってたんですよ、その目が忘れられなくて。絶対出てもらおうと思ってました」

映画は印象だから、見方に正解などはない。観終わった人それぞれの価値観で何通りにも変わるもの。映画作りのモチベーションを尋ねられると竹中直人は「好きだから」と答える。

「いやホント、それ以外に何があるんだろうって思いますよ(笑)」

結局、変わらない少しなれただけ

子どものころから映画は大好きだったけど、実際にそっちに進みたいと思ったのは、大学に入ってからの話。

「二浪して多摩美に入って、8ミリ映画を作る『映像演出研究会』っていうクラブに入ったことがきっかけです」

『燃えよタマゴン』を監督し、主演。ブルース・リーが大好きだったから。同じ年、モノマネで『ぎんざNOW』の『素人コメディアン道場』に出場。関根 勤はじめ、数々のコメディアンを輩出した登竜門的な番組である。モノマネで、がぜん注目を浴びる。ネタは松田優作、ブルース・リー、丹波哲郎、草刈正雄、遠藤周作、松本清張…ちなみに全部、竹中直人がオリジネーター。ジーパン刑事殉職シーンの、あの有名な「なんじゃこりゃあ!」も、だ。

モノマネ自体は高校時代からやっていたが、「“お笑い”という意識はなかったです。お笑いを差別化してるわけじゃなく、自分に自信がなかっただけ。誰かのキャラクターを借りることで、とりあえず普通にしゃべれてたんですね。それが楽な手段だったから」

大学4年のときには、劇団『青年座』の夜間部に入る。劇団に入ったのは「芝居の勉強をちゃんとしたかった」から。そこで青年座を選んだのは「洋物をやらないって案内に書いてあった」から。夜間部研究生をやりつつ無事大学を卒業。本科生、実習科生を経て正式に劇団員となったのが26歳。

「仕事がくると思ったのに、あるのは稽古場のお茶くみとか掃除とか。それも初日1回行っただけであとはサボってバイトばっかりしてました。そうしたら、『ある馬の物語』っていう、学校公演につけられてしまったんです」

バンに機材を乗っけて全国の学校を回り、体育館で同じ公演を行う。軍隊でいうところの前線のようなものだ。

「しましまの、パンタロンになったタイツはいて。首に黄色いマフラー巻いて踊って歌うんです。それが恥ずかしくて…。毎日芝居してるんで、ちょっと違えようとすると先輩に叱られるし。ああもうこんなところにはいられねえって思って。自分で仕事を取ってこなきゃダメだなって、青年座の事務所の人に、“映画とかやりたいんですけど”って言ったら“10年早いんだよ!”。俺はこの言葉が大っ嫌いなんですよ、早いとか遅いとか。一番だとか二番だとか。関係ないでしょ。勝とか負けるとかさ(笑)」

そしてモノマネ番組時代のルートをたどって営業活動を展開。27歳の夏、人力舎の現社長・玉川善治氏のすすめで『ザ・テレビ演芸』の『とびだせ笑いのニュースター』というオーディション形式のコーナーに出演する。

「司会の横山やすしさんがすごくよくしてくれました。TV局ってみんな明るいしテンション高いし、行くだけで俺、落ち込んじゃってたんです。やっさんはいつも声かけてくれました。楽屋にお酒持ってきて(笑)、“どんどんやりゃあええやないか”って」

6代目グランドチャンピオンに輝き、家賃1万2000円、風呂なし汲み取りトイレのアパートは、風呂付き5万円に昇格。生活がグイグイ楽になる。

「その前の時間が貧しかったとは思ってなかったですよ。それはそれで当たり前だったんです。でもこわかったのは、そこからたぶん、周りが急に優しくなったこと。ひとつのエピソードでいうと、青年座にいてエキストラで行った現場で“オマエどこの劇団だ、目立つ芝居してんじゃねえぞ”って言われてたんですよ。その人が、“出てくると思った、すごいオマエは”って。“ウソつけ、この野郎”(笑)。すごく不思議な感じがして。たぶん1年しかもたねえだろう、もう来年はダメだなって思い続けて、ずっとここまできたような気がしますね」

『サヨナラCOLOR』DVD化の感想を聞いたら、中学時代の話になった。

「カセットで録音できる機械ができたときに、学生服で隠して映画を録音していたんです。で、夜、枕元にそのカセットを置いて聞きながら映像を想像する時間がとても楽しかった。ビデオができたときは本当に驚きましたね。大好きな映画を手元に置いておけるのがとてもうれしかったですね」

たぶん本質は変わらないのだ。ずっと「好き」だけで動いている。

「嫌いな人と付き合うこともありますけど、嫌いな人もいてくれないと好きな人もできません。全員好きだと困りますから。コイツあったまくんなと思っても、好きな人がいてくれるから大丈夫です。好きな人をより好きになれる。あー、嫌いな人を好きになっちゃうなあっていうのもあるしなあ」

1956年3月20日横浜市生まれ。多摩美術大学グラフィックデザイン科入学と同時に映画制作を開始。第1回監督・脚本・主演作は『燃えよタマゴン』。大学在学中から『ぎんざNOW』などのバラエティ番組に出演。モノマネで有名に。83年、『ザ・テレビ演芸』でグランドチャンピオンとなり、お笑いタレントとしてブレイク。20代後半より、本格的に俳優としても活躍。1991年には映画『無能の人』で監督としてデビュー。ヴェネチア国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞。『サヨナラCOLOR』は監督第5作。06年4月28日、DVDがハピネット・ピクチャーズより発売される

■編集後記

大学4年のときに入った劇団の夜間部は、まあまあ楽しかった。「学校の先生や女子高生、OL、おじさん、おじいちゃん、子ども、いろんな人が来てたんで。大学卒業後、本科生、実習科生っていうのがそれぞれ1年ずつあるんですよ。それが月曜から金曜まで。夜はバイトです。そっちはほとんど僕と同世代の役者たちが集まってて、“がんばっていこう!”っていう雰囲気なんです。俺、全然体育会系じゃないんで、そういう熱みたいなものが恥ずかしかったですね」

竹中直人

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