「怖さと、隠れた自信と」

河村隆一

2006.05.18 THU

ロングインタビュー


河村隆一
自分が歌うに足るのか。自分の歌たり得るのか。

サザンオールスターズ「真夏の果実」、沢田研二「LOVE(抱きしめたい)」…河村隆一は『evergreen ~あなたの忘れ物~』で14曲をカバーした。今年36歳の彼にとっての名曲たち。

「自分が好きな曲、歌いたい曲ということを根本に選びました。音楽に対してぼくがものさしとして持っているものは、ポピュラリティ。自分がコンポーザーとして挑むとき、シンガーとして歌いたいと思うときの基準は、それが普遍的でスタンダードか否かです」

狙いではなく、ピュアな衝動。だが、実際に制作に踏み出すにはずいぶん勇気が必要だったという。誰もが知ってる曲を歌い直すことへの勇気。原曲に対する限りないリスペクトの表れだ。「最終的に作品が名刺みたいになるでしょ。タイトルが“evergreen”で河村隆一のアルバムっていうことになる。それがいままでのぼくのアルバムと並ぶわけです。ファンの方たちが手にしてくれたときに、同じ作品としての重みがあるか。“なんだ、カバーじゃん”って受け止められては心外ですからね」

名曲ぞろいとはいえカバーだ。オリジナルでないものを“河村隆一・作”のアルバムと同じ高みに持っていけるか。そこに対する勇気でもあったという。リスペクトだけでは終わらない。

このアルバムにはオフコースの「YES|YES|YES」も収録されている。初めて聴いた12歳のときに、「音楽というものを強く意識しました。小田和正さんの歌を聴いて、“なんてすごい声の人なんだろう”って思ったんです」。

それは普通の少年としてだけではなかった。どこかに“同じ音楽に携わる者として”という目線がすでにあった。

好きなものを自覚してどんどんどんどん…。

「実は幼稚園ぐらいのころから、自分の声ってなんてキレイなんだろうって思ってました。園の授業で“ハイ、りゅういちくん歌って”って言われるのが楽しくてしょうがない…すごく勘違いしてました(笑)。そういうふうに、子どものころから歌手の人たちを見ながら分析していたような気はしますね」

クリエイターとしての自我は生まれもってのものかもしれない。で、実際にオリジナルを作り始めるのは14歳。

「本当に人生ラッキーだったと思います。生きていて、自分が好きなものを見つけられたんだから。自分はサーフィンの大会に出たり、テニスも結構やってきました。音楽に関しても小さい頃から勘違いしたまま育ったし(笑)」

ある日、高校を辞めようと決意したとき、自分のなかで愛情が変わらずあるものが何かと、問いかけてみた。

「ある王様がいて“オマエは死刑だ”とぼくに言うんです。“でももし自分を楽しませることができたら、価値を認めて生かしてやろう”って。そのとき、ぼくは歌うだろうと思ったんです。勘違いかもしれないけど、そう言い切れることがぼくのラッキーな点です。そうして音楽を続けてたら、どんどんどんどんメジャーデビューも決まり、お給料ももらえるようになって…」

これがまさしく“どんどんどんどん”。18歳でLUNA SEAのメンバーと出会い、すぐにライブハウスに出始めた。月5日のライブと週4日のリハーサル。こんな日々が3年続き、実感した。

「ファンの人たちが増えていった。ステージから3列しかいなかったのが5列になり7列になり、気づいたら満員になってた。ある雑誌に載せてもらったら、その次にはワンマンライブができて、それが2デイズになって。インディーズ盤をエクスタシーレコードから出したらあっという間に1万枚。メジャーデビューの話はレコード会社15社ぐらいから。しょっちゅうゴハンおごってもらってましたね(笑)」

92年、河村隆一はRYUICHIの名で、SUGIZO、INORAN、J、真矢らとともにLUNA SEAとしてメジャーデビューを果たした。プログレッシブロックやニューウェーブの影響を受けたサウンド、足首まであるエクステンションにメイク、耽美な世界観ですぐさまビジュアルロックの頂点へ…。

広い視野を持っても、無知ゆえの信念を

彼を突き動かしていたのは、「無知から生まれる信念」だった。音楽のジャンルも知らないし、譜面も読めない。

「頼るものはすごくシンプル。耳と声、このふたつしかなかった。聴いて“いいな”と思ったものを耳で覚え、その通りに自分の声で歌う。ロックというムーブメントに乗っかって、カッコイイと思うものをただ追求していく。このシンプルな欲求が“カッコイイもの”と“それ以外”を識別できたんです。ジーンズを穿く者をカッコイイと思ったら、スーツの大人たちを軽蔑する。そこまで極端にいられた。だからこそ走っていけたんじゃないかな。個人的で稚拙な音楽センスのなかで、“オレはカッコイイと思ってるんだ! 黙って聴け”みたいな。臆病さと強烈な“個”があったような気がしますね」

そうした自分の姿勢に気づいたのが、25歳。初めての東京ドームの年だ。

「振り返ったんです。“こんなに俺たち愛されてるんだ”“こんなに自分の歌って多くの人に届くんだ”っていう、充実感が余裕を与えてくれたんですね」

自分を含む社会のあり方に気づき、「音楽の道で一生やっていきたい」という自覚が生まれた。武道館を満員にしようとチャート上位を独走しようと、社会人として目覚めたのはこのとき。 もはや無知ではなくなっていた。

「これが天職だ! と思って、広げていく方向で回路が働いてましたね。敵だと思ってたものも裏から見ると真意がわかったり。視野が広がることで大人の自分が生まれ、社会との協調性ができて人間として成長するわけです」

それは必ずしも100%善ではない。

「アーティストとしてはむずかしいところなんですよね。ウマイ地酒だけを売る酒屋がコンビニエンスになり、スーパーマーケットになって、じゃあデパートだ、支店も出そう…ってなると、一番得意だったものが見えなくなる。アーティストとしての自分をカテゴライズする力や自分を売っていく鋭利な何かをナマクラにしていく。それは後にわかることなんですけどね(微笑)」

97年、LUNA SEAは全員がソロ活動に突入。翌年復活し、00年に終幕を迎える――。

「これは本音なんですが、チャンピオンベルトを守ることは非常に困難です。LUNA SEAだけシンプルにやっていくこともできたかもしれない。でもそこでソロをやってみた。(安住せず)攻撃的になることで、自分たちがつねに開拓者であることを見せられたと思うんです。僕にはいつも怖さがある、そしてどこかに隠れた自信がある。“期待と不安”ってよく言ってるんですけど、成功すれば成功するほど重苦しさがあったんです。同じ場所に同じように生息していることで生じる重苦しさが」

果たして、ソロになった河村隆一は、アルバム『LOVE』を270万枚以上売り上げ、アーティストとしての実力を見せつけたのである。そしてドラマや映画、小説の世界にも攻めていった。

07年でソロ活動10周年。今回のアルバムには1曲LUNA SEAのカバーがある。98年発表の「I for You」だ。

「自分が5人で作ったレジェンドのなかにある大切な曲です。これまで何度も人から歌ってって言われてたんだけど、歌わなかった。アンタッチャブルなもののような気がしてたし、歌う気にならなかったんです。でも今回、自分から歌いたいと思った。“歌いたいから歌う”っていうシンプルな発想。どうしてってきかれたら、そう答えるでしょう。でね、歌ってみてわかったことがあって…今回すごい曲ぞろいなんですが“あ、すげえいい曲”“負けてないじゃん”って、素直に思えたんです」

社会人としての良識に目覚めながらも、やはり河村隆一、強烈なアーティストとしての自我は健在なのであった。いまは広い視野とビジネス感覚を持ちながら、こだわるべき“地酒”を知る。

「自分にとっての必殺技が何なのか、来年に向けて、もう一度見いだしたいと思ってます(微笑)」

1970年5月20日、神奈川県出身。10代からオリジナル曲を作り始める。18歳からLUNA SEAでライブ活動を展開。91年、X JAPANのYOSHIKIが主宰するエクスタシーレコードからアルバム『LUNA SEA』をリリース。翌年『IMAGE』でメジャーデビュー。93年には早くも日本武道館を制覇する。97年ソロ活動開始。この年「I love you」「Glass」「BEAT」「Love is...」のシングルをリリース。同じ年のアルバム『LOVE』の売り上げ枚数278万枚は男性ソロアーティストとしての記録である。00年のLUNA SEA終幕後もソロアーティストとして、Tourbillonのメンバーとして活躍中。ニューアルバム『ever-green ~あなたの忘れ物~』は5月24日リリース。6月23日より全国19カ所をのツアーも敢行。詳細はオフィシャルサイトにて。

■編集後記

東京ドームに6万人を動員。「足は細くてブラックスリムで酒浸りで肌は青白くて髪は長いっていうのがロックの基本」みたいな、自分で決めた枠からの目覚めの時代。「カッコイイ自分を追求するのにメイクをしたり、髪をアレンジしたり、洋服を着せてもらったり、写真を撮られるときに角度を考えたり目つきを研究したり…達成するまでは楽しいんですが、じゃあそいつがボーっとしちゃいけないの? って」。

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