「気づけばそこに喜劇があった」

三宅裕司

2006.06.01 THU

ロングインタビュー


三宅裕司
やりたいことをできる場所がない――だから劇団を作った

生まれも育ちも東京・神田神保町という生粋の江戸っ子。子供のころから人前で笑いを取ることが好きだった。母親が日舞のお師匠さんだった関係で小さいころから日舞、三味線、長唄を習わされていた。落語好きの親戚もたくさんいた。してみると三宅がコメディアンを目指すのは極めて自然だったといえる。

「中学時代からエレキバンドやって、高校・大学と落研。それからジャズバンドにコミックバンドもやってましたからね。だから大学3年のころには“ヨシ、将来は喜劇役者になろう”と自然と思ってましたね」

22歳で明治大学を卒業した三宅は、両親に「大学まで出してもらってたんだけど、役者を目指したいからあと5年だけ食べさせてくれ」と頼み込み、まず日本テレビタレント学院に入った。理由は簡単、「日本テレビと繋がってるからすぐにテレビに出られるかなと思ったから」だ。だが、ここからが紆余曲折の始まりだった。

「思った以上に生徒のレベルが低かったので、半年で辞めました。その後、東京新喜劇という劇団に入りましたが、人を集めただけで1度も公演せずにつぶれてしまったんです」

そこからアルバイト生活が1年続いたという。東京新喜劇のスタッフからもう1回作り直すから来てくれという連絡が入ったのは1年後のことだった。こうして劇団『大江戸新喜劇』に参加。ことわざでいうなら、まさに“3度目の正直”にふさわしい展開!? …いやいや、待っていたのは“2度あることは3度ある”のほうだった。

「大江戸新喜劇に入って1年くらい。その間、主宰者との間がうまくいってなくて、作品的にもこれでいいのかなっていう疑問がずっとあったんです。自分のやりたい笑いとの方向性が違うっていう不満がかなり溜まったから、ある意味、それが非常に大きなエネルギーになって、爆発したんでしょうね」

79年、このとき三宅裕司、28歳。日本がバブルに突入するほんの数年前のことだった。

「こうなったら自分の劇団を作って自分のやりたい舞台をやるしかないと」

そのとき行動を共にしたのが小倉久寛や八木橋修らである。こうして三宅が座長となり“ミュージカル・アクション・コメディ”を旗印に掲げた劇団スーパー・エキセントリック・シアター(通称SET)が誕生したのだ。

「当時、佐藤B作さんの東京ヴォードヴィルショーがすでに自分のやりたいことを先にやっていて、衝撃的なワケですよ。ただ、ちょっと違うのは音楽的要素が少なかったのと、B作さんが福島出身だったっていうこと(笑)。それで“ヨシ、俺はもう少し音楽を入れた、東京っぽいものを作ろう”と。やっぱり、学生時代から音楽で感動させたり、笑わせたりしてましたからね。そういうのが全部融合したものがSETの形になったんでしょうね」

もちろん勝算はあった。

「大江戸新喜劇では主宰者と方向性は合わなかったんですが、場面場面の演出は好きなようにやっていいと任されていたんです。だから自分が作った部分がドーッって受けてる手ごたえは感じてたんです。だからSETでも俺が思ったことをやれば大丈夫だって」

好きなことをやるだけでなくプロなら芝居で生活しよう

公演のたびに目の前で笑いが起き、観客の数が増えていくのがみるみる分かった。劇団が軌道に乗るまでバイト生活は続いたが、手ごたえは次第に確信に変わってきていた。だからこそ、“単に好きなことだけをやっていればいい”という考えにも疑問を感じていた。

「劇団員には酒を飲むたびに“俺について来れば絶対間違いないから”って言ってましたよ。それとお金を取って芝居を見せるんだから常にプロ意識を持てと。プロになるためにはバイトなんかしてちゃダメだ。バイトする時間があったらもっとレッスンをしてレベルを上げよう。そのために俺、絶対給料制にするからっていうのをずっと言ってましたね」

そんな彼に一つのターニングポイントが訪れたのは84年2月。32歳のときだ。SETの舞台を観に来ていたニッポン放送のプロデューサーが、三宅をラジオ番組『ヤングパラダイス』のパーソナリティに抜擢したのだ。こうして始まった『三宅裕司のヤングパラダイス』はたちまち人気番組となり、三宅は一気に知名度を獲得していく。

この番組のおかげでようやく役者として食える自分がいた。気づけば大学卒業から10年が過ぎていた。

「完全に劇団で食えるようになるためにはマスコミで売れることが必要なんだと。だから頑張ったんですが、やっていくうちに司会業とかバラエティというもの自体にも非常に魅力を感じるようになりました。テレビやラジオの番組を作っていく面白さみたいなものに取り付かれたんですね」

この番組で一躍人気者となった三宅は『テレビ探偵団』でテレビの司会にも初挑戦する。86年のことだ。以来20年、テレビ番組を語る上で欠かすことの出来ない司会者として、常に表舞台に出続けている。だが、出続けているからこその弊害を感じてもいた。

「無名のころは、お客さんに好感を持って笑ってもらえる雰囲気を作るために芝居の最初のギャグに非常に神経を使いましたが、マスコミに売れて顔が知られると舞台に登場しただけでいい空気になるので非常に楽でした。でも、そのぶんギャグの詰めが甘くなりました。これはある意味、弊害でした。しかし、今度の熱海五郎一座はテレビで顔を知られている人たちばかりなので、いい雰囲気とかの問題じゃなくて、それこそ本当に面白くないと“金返せ!”の世界ですから。必死でギャグを作ってますよ」

コント番組がない今だからあえて舞台で軽演劇をやる

7月6日から行われる熱海五郎一座楽曲争奪ミュージカル『静かなるドンチャン騒ぎ』。この公演は“瞬発力の笑いで勝負する今のテレビ”とは対極に位置する笑いを目指すと三宅は語る。

「SETでは自分のやりたいことを27年間やってきたんですが、一方でテレビの笑いがドンドン変わってしまってる。作り込んだコント番組がなくなって一発芸とかリアクションの笑いが重視されるトーク番組のほうが多くなってしまった。だからこそ、浅草からずっと来ている軽演劇というきっちりと作り込んだ笑い、それも今風のものをやらなきゃいけないんじゃないかと。そういう思いから伊東四朗一座を立ち上げて、声をかけたらそう思っている人たちがたくさん集まってきてくれた。その流れを熱海五郎一座は継承しなければいけないと思ってます」

大好きな喜劇のことだけをひたすら考えるその真摯な姿勢。そう、三宅裕司にとって笑いはすべてなのであろう。

「僕の場合は学生時代の落研やバンド、生まれ育った街や家庭環境とか、これまでのすべてが元になって生涯何をやっていきたいかが見つけられた。だから頑張れた。でも、好きなことではなくて、“なんでもいいから食えればいい”からってやってる仕事だと、辛いことがあったらすぐ諦めて他へ行っちゃうような気がするんですよ。そういう意味では好きなことっていうのは、辛くてもそれを乗り越えられるだけの根源的なパワーになるんですよ」

1951年5月3日、東京都千代田区神保町生まれ。明治大学経営学部卒業後、79年に劇団スーパーエキセントリックシアター(通称SET)を結成。“ミュージカル・アクション・コメディ”を旗印に、幅広いジャンルの舞台を上演。84年2月からニッポン放送で『三宅裕司のヤングパラダイス』を開始。86年には『テレビ探偵団』(TBS系)で、テレビ初のメインMCをスタート。その後は司会者としても活躍。現在のレギュラー番組に『新どっちの料理ショー』(NTV系)、『笑いの金メダル』(EX系)など。7月7日に、昨年上演した伊東四朗一座~急遽再結成公演~『喜劇 芸人誕生物語』のDVDがアミューズソフトエンタテインメントより発売。また7月6日から池袋サンシャイン劇場にて熱海五郎一座・楽曲争奪ミュージカル『静かなるドンチャン騒ぎ』の公演が決定。渡辺正行、ラサール石井、辺見えみりらが出演する。

■編集後記

ちょうど東京新喜劇がつぶれたころ。やりたい笑いは決まっていたが、どこに行けばそれが出来るのかが見えてこない不安な時期だった。そのころ始めたバイトが有線放送の多摩テレビでの番組司会である。「バイトはいろいろな業種をやりました。その中でも多摩テレビはどの業種よりも芸能界に近かった。そうそう、キャラクターショーでウルトラマンとか仮面ライダーの縫いぐるみに入ったりもしましたよ(笑)。それも今の自分にとって役に立った経験です」

三宅裕司

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