「自分のなすべきことを自覚せよ」

釜本邦茂

2006.06.22 THU

ロングインタビュー


釜本邦茂
早く社会を見せろ小さな箱に入れるな

「いまはね、社会性が欠けてるんだよ。いろんなビジネス書に“リーダーを育てなければ”ってあるけど、そんなもの必然的に生まれてくる。われわれのころは、体育会系の上下関係もあったし、それ以前に、子ども同士の遊びのなかでタテの関係が生まれていて、リーダーシップが自然に育ってたんだ。それがいまは薄い。その理由のひとつは、サッカーでは年齢制限を設けたことにある。アンダー12とかアンダー15とか、その世代だけでサッカーをやっている。われわれのころは高校生でも大学生やそれ以上の人と一緒にやっていた。大人の世界に入っていくことが早かったんですね」

山城高校在学中、釜本はデットマール・クラマーの指導を受けている。64 年の東京オリンピックを見据え、60 年に日本サッカー協会が招聘したドイツ人コーチだ。大学生以上が対象の選手枠に高校生ながら選ばれた。

「大人の世界ってこんなものなのかっていうことがわかってくる。早いうちから社会生活の構造が理解できたわけ。ついでに、真っ白な状態で世界に触れることができたのも大きかった。

いまみたいに小さなハコにわけていると、いい仲間はたくさんできても、社会のあり方は知らないよね。だから社会人になって枠をはずしたときに“あいさつをしよう”とかいうレベルのことから教えないといけなくなる。世界が広がっていくことに相対するには度量を持っていないとダメだ。われわれの世代は、それをスポーツの世界で身につけることができたんだよ」

そういえば、「R25」だって「U-15」と似たようなものだ。FWの話が、微妙に若い世代に対する警鐘になっている。でも “昔はこうだった”と言われても、その世代ではない人々は困る。そうじゃない今の若者はどうすればいいのか聞いてみると、「本人の努力次第」ときっぱりと答えた。

「年功序列がなくなったでしょ。いまはヘッドハンティングされたり、起業したり、やることの幅がすごく広がっている。自分が何かを手に入れたいと思えば、情報は平等に目の前に全部あると思うんだよ。目を光らせて何を選んでどう使っていくか――これが努力次第というわけ。ここで、自分で考えて自分のやり方で好きなようにやればいいのに。いまはみんなハコの中に入れられて“こうしなさい、ああしなさい”って言われてるから、いざそのハコを取り払ったら、自分が何をしたらいいかわからなくなってしまう」

ただそこで、自分のなすべきことをきっちりと自覚していれば、迷うことはないのだという。釜本の仕事はFW、役割は「点をとること」だった。

役割を自覚して、なすべきことを考えろ

「ボールを蹴る練習をしたし、いろんなプレーの練習もしたけど、サッカーがうまくなりたいと思って練習したんじゃない。点を取るために練習したんだ。プレーがうまくなるかどうかはね、どうでもいいねん(笑)。わたしは、点を取らなきゃいけなかった。自分がFWだということを自覚して、“点を取る”という役割を与えられたから、そのためには何をしたらいいかと言うことを自分で考えることができたんだ」

釜本の練習はつねにオリジナリティあふれるものだった。お風呂のたび、バスタブに脚を突っ込んでキックのトレーニング。水の抵抗が負荷となって筋力増強につながった。高校時代にはお寺の石段を走り込んだ。デコボコな路面に対応することでバランス感覚を養った。早稲田大学に入ってからは、吊り革を持たずに電車に乗った。歌舞伎町の人ごみを敵ディフェンダーに見立てて、ぶつからないようすごいスピードで通り抜けた。

「言われたとおりにやるのでは、何の効果もない。やる意味を自分でわかってないとしょうがないよね。もちろん、組織全体の練習もやるけど、役割がある以上、それを果たせないと代えられてしまう。だから練習をして期待に応えてきた。“ああ釜本はやってくれたな”って評価される。それで次のゲームにもまた起用してもらえるんだ」

釜本は高校1年生のとき、当時の監督・森貞雄によって“オマエは点を取るんだ”と告げられた。そこから一貫して、その技術を磨き続けた。

「それは会社員でもおんなじだよね。ある部署に配属されたとき、おのずと役割は与えられるわけじゃない? 何をやるかまでは教わらなくていい。あとはそのことにどれだけ自覚的になって取り組めるかが大事なんと違うかな?」

高校時代の“クラマー教室”を経て、19歳で東京オリンピック日本代表に(ベスト8進出。1ゴール)。67年にヤンマーディーゼルに入社すると、その翌年にはメキシコオリンピックを視野に入れた西ドイツへのサッカー留学。そして、結果を出した。東洋のなぞの島国にメダルをもたらした男に、世界中からオファーが殺到したという。

釜本が幸運だったのは、役割を早くから叩き込まれたこと。しかし同時に、それは計り知れない重圧だったはずだ。

「そんなもん、マイナスにいってもしょうがないよ。終わったことは取り戻せないんだから。何が足らなかったのかを見返して、次はできるように練習するだけ。僕は生涯で五百何十点ゴールを決めたけれども、失敗はその何倍もある。3000本も4000本もシュートを打ってきたんだ」

25歳のとき、釜本はウイルス性肝炎に倒れた。4年の間、通院しながらボールを蹴る日々が続いた。世界からのオファーに応えることはできなかった。

「それがなかったらたぶん行ってたね。でこういうことを言われたことがある。向こうで通用する選手っていうのは、すごく自意識の高いヤツだと。試合に出られるのは11人、その枠のひとつを日本人がやるということは、向こうの職場を取ることになるよね。だからチームメイトにでもぶっ壊されるかもしれない。周囲が完全に納得できる以上のものを出せないとダメなの。腕もそうだし頭もそうだし、メンタル的にも長けていないと通用しない。日本の代表クラスの選手だったら、ヨーロッパ行ったら掃いて捨てるぐらいいるね。だから、その差を詰めていこうと、日本でもいろんな人ががんばってる。わたしがいまサッカー協会でやっていることは、そういう人たちのための環境作り…まあ、あのとき世界に飛び出してたら、いまみたいな仕事はできなかったかもしれないね」

40歳で現役を退いたあと、釜本はガンバ大阪の監督を務め、6年の国会議員生活を経て、新たな役割を見出した。

「わたしが今やりたいのは、子どもと楽しくサッカーすること。チームじゃなくて、これからの子どもたちをどうするか。京都に仲間とグラウンドを作って、そこに子どもたちを集めて指導して…みたいなことも考えたりしてる。たぶん、サッカーにはきっと死ぬまでかかわるだろうね。よくね“どうしてカマモト2世は出てこないんだ”というようなことを言われるんだ。今からやっていれば、ひょっとしたら10年後ぐらいに出てくるかもしれない。それを見据えて、いまは直接人を育てていこうと思ってるんだ。うん、これはきっと面白いやろうね」

1944年4月15日、京都市出身。京都府立山城高校で国体を制し、早稲田大学では2度の天皇杯制覇を経験。68年メキシコオリンピックでは、6試合を戦い7得点を挙げ得点王に輝く。そして日本代表の銅メダルをもたらす。日本リーグでは67年よりヤンマー・ディーゼル(のちのセレッソ大阪)に所属。17年間の現役生活を経て、その後、91年、Jリーグ開幕よりガンバ大阪の初代監督を務める。95年~01年、参議院議員。現在は日本サッカー協会副会長である。全FWに向けての福音書『釜本邦茂の「とってナンボ」のFW論』は現在、宝島社より発売中。

■編集後記

高校時代以降、ほぼ順風満帆。早稲田大学在学中には2度、天皇杯を制した。2度目は67年1月、4年生のとき。これ以来、大学チームが天皇杯に優勝したことはない。同じ年、数々のオファーのなかからヤンマー・ディーゼルに入社。強豪ではないチームを強くしたいという思いからだった。そして翌年にはメキシコ五輪銅メダル…このとき24歳。25になる年の正月、ヤンマー・ディーゼルは天皇杯を初制覇。しかし同じ年の6月、全日本合宿中に病に倒れることになるのであった。

釜本邦茂

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