「学んだことが役に立たないわけ、ないんですよ」

畑 正憲

2006.07.06 THU

ロングインタビュー


畑 正憲
子どものころの原始的な空想を

レースは『BBCワールド・アニマル・カップ』の一幕だ。BBC制作の動物バラエティーで、哺乳類(人間含む)から両生類、魚から鳥、昆虫までのいろんな競技をSFXで見せる。ムツゴロウさんはその日本語版DVDの実況解説。台本は真っ白だったという。

「そのとき思ったことをしゃべっただけですね。ぼくはいままでディレクターと、出演して話すという両側の仕事をしてきたんですよ。ぼくね、1.2秒なら1.2秒の、2秒半なら2秒半のコメントが言えるんですよ」

ゴキブリとチーターとクビワトカゲが同じサイズになって100m走で戦う。ノルウェーの世界的スキーヤーがトナカイやコウテイペンギンと戦う。 “ムシが人間サイズならどのくらい速いのか”とか“世界レベルのアスリートは動物に通用するのか”というプリミティブな空想をかきたててくれる。

「ぼく実はこういうことは文章の中ではたくさんやりました。昔、デビューのころに『ムツゴロウの博物誌』というグラフ誌見開きのエッセイを連載してたんですね。イルカがいきなりオリンピックに出てぶっちぎりで勝ったり…そういうことを書いてました。40年ぐらい前から、ちょこちょこ書いております」

デビューは1968年、エッセイスト・クラブ賞受賞の『われら動物みな兄弟』。『ムツゴロウの博物誌』は3作目に当たるという。そして“ムツゴロウ”が誕生した記念すべき作品でもある。

大衆文学と妊娠勝手にムツゴロウ

「“博物誌”はグラフ誌の連載で、たぶん編集長がキバッたんですねえ…ぼく何にも知らないうちに、第1回目『ムツゴロウの博物誌』ってなってるんですよ。当時、北杜夫さんの“どくとるマンボウ”っていうエッセイのシリーズがありましたからね、こっちも際立たせたかったんじゃないかな」

“どうせすぐ消える”と思っていたら、半年後には単行本がベストセラーに。

「“ムツゴロウ”はむずがゆかったですよぉ! 5歳ぐらいからあこがれてた文筆家にようやくなって、やっと世に出たのに、全部の本にムツゴロウって付くんですから! あのね、実はね、いまだに慣れてないです(笑)。男と女の出会いの滴るような物語を書くでしょ。で、本にする。そしたら帯に“ムツゴロウの恋愛小説”!(笑)。がっくりきませんか? もちろんそれで得をした部分もある。でも内心忸怩たる部分があります。時流に乗っちゃったんですよねえ、乗りやすいからねえ(笑)」

これが30歳過ぎの話。時代を少しだけ遡ってみよう…。

5歳から文学にはまった畑正憲は、医師だった父上の望みで東京大学理学部に入学。文学を志向しながらも、学友会の雑誌に載った大江健三郎の小説に打ちひしがれる。そしてひょんなことから動物学科へ。そのまま大学院に進んで、彼女と同棲を始める…。

「女房と同棲したから貧乏して、本が買えなくなっちゃったんです。貸本屋で、大衆作家の本に初めて出合いました。頭ぶん殴られたんですねえ。純文学とかいって自分が目指してきたものは何だと。そこで読んだ源氏鶏太さんの文章のリズム、艶…愕然としました」

「…避妊してたんですけどねえ。気がついたら女房のおなかがふくれてて。それまで、どこかに勤めて国のシステムのなかに自分が組み込まれるなんてことは一顧だになかったです。実験室にもつねに原稿用紙があって。やっぱり夢捨てきれないんですね。でも…」

純文学から大衆文学へ、作家志望から社会人へと転換したのがこのときだ。

大学院を去り、職を得たのは学研。教育映画を製作する映像部門だった。

「映画の世界だったら、学歴が云々されることはないですから。ぼく、映画についての知識ゼロだったし。面白い、やり直したれ、という気持ちですね」

“そこで学問をしたのだ”という。

「学んだことが役に立たないわけないんですよ~。仕事の芯になったのは文学であり科学です。学問に対する自分のやり方が、私を映画に導いたんです」

終業後に社内のいろんな部署に押しかけ助手をした。その後会社の倉庫に潜入。過去のシナリオをすべて読む。そして今度はシナリオを参照しながら、フィルムをすべて観る。倉庫内の全部終わるのに3カ月かかった。

「勉強するからって、女房と子どもはノシつけて実家に帰す。終わってしばらく同居するでしょ、そしたらまたやりたいことが出てきて“帰ってろ”(笑)」

倉庫の次は編集室。フィルムの粗編集で出たくずをチェックする。箱に山盛りになっているのを見て、1秒24コマの長さを体に叩き込んでいった。フィルム用体内時計が完成に要したのは2カ月。もちろん妻子は故郷。そして今度はくずばかりを集めて自分だけの映画を編集…早すぎた『ニュー・シネマ・パラダイス』活動に半年。急速に映画作り方を知る人間になっていた。

教育映画祭でグランプリを獲得、初めてのCMでもACCの賞を得た。

結局入社7年で学研をクビになる。

「枠にはまらなかったんですねえ。当時は非常にギャンブルが強くて、給料の3~4倍稼いでました。だからシネハン(=下見)の費用なんて会社からもらわない。企画会議で次の仕事が決まったら、“ああ、じゃああそこの海だ”って思ってスーッといなくなるの(笑)。経費もらわないから誰も知らないし、女房も知らない。そのころぼくは現場で一生懸命やってるんですよ。“人間の繁殖学”を映画にするときでも、次の日もう産婦人科行って、居ついちゃう(笑)」

そして、会社に従うか辞めるかの最後通牒。“7年がんばったんだから。いいチャンスじゃない”と、奥様は大喜びで背中を押したという。実は、このいくらか前から、執筆活動を始めていた。毎晩帰宅後、2時間の仮眠をとって朝まで原稿用紙に向かい合っていた、という。いいチャンスとは、もちろん文学をするための、である。

すべて身をもって知る知るための体験は全力

デビューして、ムツゴロウと名づけられるのはこの翌年だ。3年後の71年、突如、北海道厚岸郡の嶮暮帰島という無人島に移住する。俗に“動物を愛するがあまり魚すら食べられなくなった娘さんを本当の自然に触れさせるため”と言われているが…。

「もちろん教育はしますけど、それによってぼくの人生が変わるなんてことはあり得ません。ノンフィクションが書きたかったんです。ぼくはロバート・ルイス・スティーヴンソンの『トレジャー・アイランド』が好きだったんですねえ。でも最初に読んだときには失望したんです。島の描写がウソなんです。南の島じゃなくて、あれはアイルランドとかスコットランド。それで、あの『ロビンソン・クルーソー』とか『トレジャー・アイランド』をノンフィクションでやってみたらどうだろう…よし無人島だ! っていう、これがぼくのモーティブ・フォースですよ。大事なのは、自分が何をしたいか!」

ここでの生活は『ムツゴロウの無人島記』になった。その後書いた『どんべえ物語』は、ヒグマとの暮らしを日記のようにつづったもの。すべての素になるのは体験。

作品に共鳴した人々が集まり、動物王国が生まれた。そこでも「自分が興味を持って突っ込んでいける対象しか書かなかった」。80年から始まったテレビ番組『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』では21年にわたって多くの動物たちに触れ合い一体化を試みた。それも「セットじゃない、作り物じゃない空間を映して、視聴者に疑似体験してもらうため」である。

ムツゴロウさんはいつも泥まみれで、犬とベロベロキスをし、糞尿にまみれ、危険にさらされていた。全力で体験する。すげーなーと思うけれど、この人にとって当然のやり方だったのだ。

インタビューの最後、文学に関して「まだまだ負けるかって、むくむく芽が出てくるんですよ~」と締めくくる。

ムツゴロウさん、唇の端が切れて、少し血が出ていた。

1935年4月17日、福岡県生まれ。東大理学部動物学科大学院を経て、学研映像部門に職を得る。プロのディレクターとして教育映画やCMでさまざまな賞を得た後、文筆家としてフリーに。68年『われら動物みな兄弟』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。71年より北海道厚岸郡の無人島に移住。翌年、浜中町に移って『動物王国』を建国する。その後も独自のスタンスから数々の動物ノンフィクション、ルポルタージュをものする。81年からはドキュメンタリー番組『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』がスタート。21年にわたって人気を博す。86年にはみずから映画『子猫物語』を監督。今回解説を務めた『BBC ワールド・アニマル・カップ』“スポーツの祭典” “氷上の祭典”は7月28日発売/コムストック。

■編集後記

東大理学部の大学院に籍を置いていた。学部のころは理科系の家庭教師としてオールマイティーな働きぶり。「地学に始まり、物理、化学と…理科ならば何でも教えられましたからねえ。当時の初任給が1万3000円ぐらいのところ、ぼくは1万5000円もらってた」。が、院からは困窮。同棲し始めた奥さんと生活費は2倍だし、家庭教師もバリバリできない。「二人で銭湯に行きましたよ。“出るぞー”“ハ~イ”なんて言ってね(笑)。神田川の世界ですよ」。

畑 正憲

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