「骨格がシンプルな物語は何度でも繰り返すことができる」

筒井康隆

2006.07.13 THU

ロングインタビュー


筒井康隆
弾け飛ぶような性格。シンプルな物語の骨格

アニメ版の主人公は、みなさんおなじみ芳山和子さんではない。その姪・紺野真琴さん17歳、現代の東京の女子高生。同級生の男友達二人と放課後、野球するようなアクティブな娘である。

「これまで何回か映画化されたりドラマ化されたり漫画にもなったりしていて、そのたびにちょっとずつ現代的になってきているんですね。それをまたいまやるときに、“もう、ちょっと芳山和子でもないなあ”っていう気が、ぼくもしてました。原作者としても変わったものを見てみたかったですし」

和子はタイムリープを異物のようにとらえて悩んだ。真琴は逆だ。食べ損ねたおやつがあった時間に戻ったり、

“友達”のはずの男子からの告白をなかったことにしたり、新しく手に入れたおもちゃみたいに嬉々として使う…。

そんなシナリオを見せられて思った。“原作と全然違う…だが、よいな”。

「性格ですね。芳山和子のような古典的な感性は、前回の映画化でギリギリだったんじゃないかと思います。もっと弾け飛ぶような感性は2代目でなければ表現できなかっただろうと」

男女対等な関係が後半の“胸キュン”な展開を盛り上げるのだ。メールやカラオケなど、現代の高校生的な要素も顔を出すのに、夏の放課後のたたずまいは、原作で読んだ静かな雰囲気にごく自然に通ずるものがある。

「物語の骨格が非常にシンプルだから。それと人の気持ちみたいなものは、それほど変わるものではないから。リアリティーさえ伴えば、いまの若い子たちにもアピールできるでしょう」

時代のアイドルで映像化するという点だけとらえると、ノーベル賞作家・川端康成の『伊豆の踊り子』と双璧である。

「『伊豆の踊り子』は最近、松浦亜弥がやったけど、あの時代背景を抜きにしてはできない話でしょ? 現代版ってないでしょうね。『時をかける少女』の場合は、もっとどうにでもなる。時代背景はなくてもいいんですよね。通時的な骨格がはっきりしてるわけだから、繰り返し映像化できるんです。ということは、『伊豆の踊り子』の、あの時代に限定してでないと成り立たない話が、あれだけ繰り返されたってことは、あれは、やっぱり傑作なんですよ」

“時かけ”書き始め。ジュブナイルの使命

「40年かあ…年をとるわけだ」と、筒井さん、笑う。『時をかける少女』は学研の『中学3年生コース』65年11月号から『高校1年生コース』5月号にかけて連載された。物語の骨格がシンプルなのは、この作品が「ジュブナイルだから」であるという。ジュブナイルとは少年・少女向けの物語。

「これを書いたころはSFという言葉すら世間に浸透していなくて、若手の――当時はSFには若手しかいなかったんだけど――われわれには使命感があったんです。アメリカの、いわゆるSFの黄金時代。日本は第二次大戦中だったんだけど、その時代の一番いい成果や財産をできるだけわかりやすい形でこれからのSF読者になっていく子どもたちに紹介したい、そういう使命感です」

当時31歳。この年の春に上京し、短篇集『東海道戦争』でデビューしていた。

「たとえば『SFマガジン』に載っけたりするような作品は、最先端のつもりで、もう好き放題なことをやりました。でも学習誌というやつはね、そうはいきませんよ。何々しちゃイカン、ドタバタはイカン、セックスはイカン…三翻縛りと思うぐらい(笑)。それで面白くしようっていうんだから、相当苦しんだ。過去にない類のものですしね。第1回の締め切りが迫っていて、どういうものを書こうかって、原宿の駅前から明治神宮の中、代々木公園、新宿御苑と、朝からウロウロ歩き回りながら考えてましたね」

当時の日記をまとめたものには、のちに日本SF界の重鎮となる人々の名前がいくつも登場する。星 新一、半村良、小松左京、眉村 卓…。日本のSF関係者全員が集っていたかのように。

「みんな孤立してたんですよ、そのころは。果たしてSFでやっていけるかどうか不安だったから。で、メダカみたいに群れになって寄り集まってなんやかやと話してたんですよね」

デビューこそこの年だったが、すでに26歳のとき、作家への手がかりはつかんでいた。主宰する同人誌『NULL』で発表した短篇『お助け』が江戸川乱歩の目に留まり、乱歩が編集長を務めていた雑誌『宝石』に掲載されていた。そして「やはり長篇を書かなければ」とのアドバイスに苦悩することになる。

作家になるために。長編を書くという鍵

「長篇の腕はないと思いながら、長篇は書けずにずっときてたんですよ」

大学卒業後入社したディスプレイデザインの会社から独立して、兼業で小説を書いていた。30歳までにはなんとか作家になりたいと思っていた。

「ぼくの仕事は装飾でしたから。博覧会の飾り付けしたり、百貨店のショーウインドウのなかでマネキンを飾ったりね。歳取ってやるもんじゃねえなあと、やりながら思ってましたね。ここから脱出しなくてはいけないと」

長篇に取り掛かるのは、兼業では非常に困難だった。もちろん、小説だけでメシが食える状態ではなかった。

「外国ではロアルド・ダールとかジョン・コリアとかそれ以前にサキっていう人がいるけれど、ヘンな短篇書くんですよね。寡作な人たちで、でも書くものはすごい。年に2篇か3篇短いものを書いて人をあっと驚かせて…それだと食っていけないわけですよ。そんな作家にでもなれればいいなあと思っていた。自信ができるまではね」

自信というか確信はひょんなことから訪れた。結局、長篇を書き上げて、ということではなかった。

「同人誌になんだけど『幻想の未来』(64年『宇宙塵』連載)っていう中篇を書いてて、初めて自分でもいいものができたと思えたんです。反響はそこそこあって、仲間内からもちょっと難しすぎるなんていう声もありましてね。これで難しいんだったら、もうちょっと気楽に書いてもいいのかとか、これはなんとかなるかもな、もしかしたら日本のSF書いていけるのおれぐらいじゃないかなって思ったんですよね。ただそのとき、日本のSF作家は星(新一)さんだけだったからねえ(笑)」

長篇を書くことが鍵だったはずなのに、なんとなく内部では新しい局面に入っていた。長篇デビューの前から筒井さん、中身はもう作家だったのだ。同じころ、SF仲間と温泉地で撮影した記念写真には非常に穏やかな表情の筒井青年が写っているという。

「どうなるかわからなかったからねえ。で、『東海道戦争』でブレイクして。一部の人だけれどわーわー騒いで…山下洋輔とかジャズマンが多かったね。それからすぐに『ベトナム観光公社』を書いたら、丸谷才一が読売新聞でほめてくれて、直木賞候補になって4、5冊目の短篇集から突然売れはじめて。それから、ですね」

名実ともに作家になった。

“最先端で好き放題やった”作品たちがどしどし世に放たれた。『俗物図鑑』『家族八景』『日本以外全部沈没』『富豪刑事』『虚人たち』『虚航船団』『文学部唯野教授』『朝のガスパール』『パプリカ』…その実験性やパンク・スピリットは70歳越えた今も不変だ。

老人たちが殺し合う『銀嶺の果て』しかり、最新短篇集の『壊れかた指南』しかり。70代であることを利用して世界を作り出す。あるいはぶっ壊す。

「もうちょっとぼけてきたら面白くなるよ~。主人公がぼけてんのか作者がぼけてんのかよくわからんと、読者がハラハラして(笑)。作者もよくわかってなくて。これから何が出てくるか楽しみにしてるんです。また、楽しくなってきてるところはありますねえ」

1934年大阪市生まれ。大学卒業後、サラリーマン生活を経て独立。1960年の短編『お助け』が江戸川乱歩の目に留まる。デザイン事務所を経営しつつ執筆活動を展開する。65年、シナリオに参加していたアニメ『スーパージェッター』の商品化権料を得て上京。作家専業となり、短篇集『東海道戦争』でデビュー。『ベトナム観光公社』が直木賞候補となる。SFというジャンルの中で、さまざまな実験や前衛的な小説に挑戦。虚構内の人物が虚構であると知りながら小説を進めていく『虚人たち』(81年)や、パソコン通信を取り入れインタラクティブに内容が変化していく新聞小説『朝のガスパール』(92年)はじめ、著書多数。映画『時をかける少女』は7月15日よりテアトル新宿ほか順次全国公開。

■編集後記

大学卒業後。ひとまず、ディスプレイデザインの会社のサラリーマンであった。高校・大学時代からはまっていた演劇を続けていた。いまでもまったく余技ではない俳優としての顔を持つ。筒井さんがSFに出会ったのは、サラリーマン時代。SF黄金期と呼ばれる50年代以降のさまざまな作品が続々と出版されるようになっていたのである。主宰する同人誌に発表した作品が江戸川乱歩の注目を浴びるのが26歳。当時、日本にSFというものはほとんどかすかにしか存在していなかった

筒井康隆

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