「命がけで描いて、すべてを犠牲にした青春の思い出」

原 哲夫

2006.07.20 THU

ロングインタビュー


原 哲夫
強い男になりたかった。あるいは描きたかった

ヒーローは松田優作とブルース・リー。強い男が好きだった。小学校高学年からほとんどぶれずにマンガ道一直線。“4コママンガで構成力を磨け”

“自分を客観視せよ”“天井の木目がマンガのコマに見えるぐらいまでのめりこめ”…先人からのマンガの教えはすべて胸に刻んだ。高校もマンガのためにデザイン科を選んだほどだ。

だが、ほんの少し迷ったことがある。

「小学生のとき、俳優に憧れてたんです。松田優作さんみたいになりたくて、中学生になったら身長185cmの予定だったのに…(笑)。その代わりに絵でかっこいい男を描いたんです。『太陽にほえろ!』のジーパン刑事が好きでね。ものまねもしたけど絵も描いた。“なんじゃこりゃああ”って死ぬシーン、当時ビデオなんてなかったから1回しか見てないんだけど、鮮明に覚えてた…タバコくわえてポロッと落として、内股になって倒れてゆく…ノートにコマ割りして、マンガにしました」

高校時代にはジャンプに原稿を持ち込み、「堀江(信彦)さんに出会いました。絵を見て気に入ってくれて、いきなりメシに連れてってくれた(笑)」。

堀江信彦は後に原哲夫の担当としてともに『北斗の拳』を生み出す。90年代にジャンプの発行部数が600万部を超えたときの編集長でもある。現在は『コミックバンチ』を発行する株式会社コアミックスの代表取締役。原哲夫の積年の友であり、師でもある。

「高校卒業を控えて、寺沢武一さん(代表作『コブラ』)のアシスタントになりたいなあと思ってジャンプに電話したんです。堀江さんが出て、“高橋よしひろ先生(代表作『白い戦士ヤマト』)なら空いてるよ~”って。正直イヤだったんですよ。絵がヘタだと思ってたから(笑)。でも行って勉強になった」

堀江との“1年勉強したらデビュー”という約束で、プロの現場へ。そこはまさしくプロの現場だった。

「いきなり表紙描かされた(笑)。キャラクターも。18~19歳でホントにいろいろ描かされましたよ。オレ、ウマかったんで。すごく便利に使うんですよ、オレのこと(笑)。でも寺沢武一さんのところに行ってたら、こんな体験はできなかったんじゃないかな」

並行して、マンガ原作者・小池一夫の主宰する『劇画村塾』でも学ぶ。

「この期間、漫画家のやり方とか仕組みがずいぶん勉強できました。プロの仕事がわかるようになりましたね。コマ割りしてセリフを入れたネームを、本番の原稿用紙に写す。そうやって作品を仕上げていくということを毎週やる。カラダで覚えていったわけです」

1年半のアシスタント生活を経て、ジャンプで賞を受賞。82年、『鉄のドンキホーテ』で連載デビューを果たす。

挫折とリベンジ。3年間の全力疾走

連載2週目にして打ち切り決定。ブームになりつつあったモトクロスに着目した堀江の企画で、コミック調にアレンジした絵がマイナスに作用した。描きたい世界でもなかった。しかし。

「天狗になってたんです。自信があったんですよ。ポーンとデビューしたし、ジャンプのマンガってみんな絵が下手だって思ってた。ナメてたんです。“オレは絵がウマイからちょっと抜いて描こう”とすら思ってた(笑)。でも全然通用しなかった…」

じゃあ次だ、と堀江が持ってきたアイデアが“ツボ”。相手のツボを押し合って戦うという設定。この地味な話が、『北斗の拳』の原型だった。

「堀江さんが(原作者の)武論尊先生と打ち合わせをして、話の叩き台を作るんです。それを堀江さんが身ぶり手ぶりで演じて説明してくれる。セリフを言いながら。それを見て、イメージを膨らませてコマ割りを始める。ぼくが担当してたのはキャラクターとアクションの部分。原作には全然なかったんで。全部僕らで考えてました」

原哲夫の奔放な想像力は特異な世界観を生み出した。“あべし”“ひでぶ”“うわらば”などの断末魔。

「描いてるとキャラクターが見えてくる。本当の声が聞こえてくるんです。普通だと“ガツッ”とか“バキッ”なんですが、リアルに世紀末の戦いの世界に入り込んでいくと、そこで語られてるのはまったく違う言葉なんです」

そして巨体の拳法家をひと踏みで潰す馬・黒王号、手だけで1mはあるハート様など、あまりにもデカイ敵たち。

「190cmの人に会うとデカイでしょ。でも並んで写真に撮ると意外とアゴの下ぐらいに頭が来てたりする。実際見たときの“デケエ!”っていう気持ちを絵にして伝えたかった。心の目で見た大きさだから、縮尺は考えてません」

幼いころからの〈強い男への憧れ〉、ジーパン刑事の殉職シーンを再現した〈イメージの世界に没入する力〉、現場で鍛えられた〈プロのスキル〉が融合した。そして最大の燃料―リベンジ。

「前の作品で自信を喪失してるわけです。恐怖心がすごくて、不安だからついつい描き込んでしまうんですよ、“これでもかこれでもか”って。また終わらされたらかなわないから。始めるとき、堀江さんは3年をメドにした連載だって言ったんですが、まず10週突破しなくちゃ話にならないわけですよ。で、それが突破できたら今度は20週。本当に1回1回が勝負でした」

3年目まで異様な緊迫感のまま突っ走り、ケンシロウとラオウの戦いが決着しても連載は続いた。終了は88年。

「『北斗の拳』はぼくの青春の思い出で、命がけで描いて、すべてを犠牲にしたものでした。マンガ以外の何もなくてスゲエ孤独だったけど、描くことは楽しくて認められてることがうれしくて。どんどん波に乗って描けました。乗って乗って、描いてて楽しかったのはそのときだけです(笑)。もう北斗以外は描きたいものがなかったほど」

すべてを捧げたものだから簡単に消し去りはしない

「北斗のあと『CYBERブルー』で失敗して、“花慶”(『花の慶次―雲のかなたに―』)で苦労して。ずっとそういう状態が続いていた」という。そして95年の『猛き龍星』を最後に、週刊連載から離れる。いわばリセットだ。

「枯渇してました。十何年間描き続けたから何も蓄積がなかった。インプットに回ろうと思ったんです。完全に送る側になっちゃってた。それでいろんなものを観るようにしたんです。ショーとか芝居とか映画とか、人が作ったものを。で、見てると不満が出てくる。オレにやらせたらこうするのにな、もっとこう変えるのにっていう、“やりたい”部分が出てきたんです」

同時に「会社を作りたい」という思いが燃え上がってきていた。

「北斗が消えることが耐えられなかった。全力を傾けた作品だから、永遠に残していきたかった。オレたちも自分でやんなきゃしょうがないだろうって。作品や自分を守ってアップさせるシステムが必要だと思ったんです」

そして、堀江らとともに『ノース・スターズ・ピクチャーズ』を立ち上げたのは04年のことである。

いまお台場では『北斗の拳』史上最大のイベント『北斗の拳 英雄伝~台場の章~』が開催されている。準備期間中から原哲夫は、3Dモーションキャプチャー映像の監修に、黒王号にまたがるラオウやケンシロウの等身大フィギュアのチェックに精力的に動いた。

「自分たちの作品をできるだけきちんと人に伝える作業です。どうせやるなら、後悔のない形で実現したいですから。僕らの仕事は遊びみたいなもの、だからこそ納得して真剣に楽しくやんなきゃなんない。イヤイヤだったら仕上がりに出てしまうんです。その点、今回のケンシロウ、イイ顔だと思いました。いま40代になって考えるのは、やれることをやっておこうってこと。3Dモーションキャプチャーなんて、相当ぼくの夢に近い。もちろんもっとお金かけてスゴイ3D映像も作りたいと思ってるんですけどね」

『北斗の拳』は決して死なないのだ。

1961年9月2日東京都生まれ。小学校高学年からマンガに目覚め、高橋よしひろのアシスタントを経て、21歳でデビュー。『週刊少年ジャンプ』に連載されたデビュー作はモトクロスをテーマにした『鉄のドンキホーテ』。連載10回で終了後、83年より手がけたのが『北斗の拳』。翌年にはアニメ化もされ、日本コミック史上に残る名作のひとつとなる。90年には『花の慶次-雲のかなたに-』で時代劇のジャンルにも進出、好評を博す。98年には『公権力横領捜査官 中坊林太郎』。現在コミックバンチにて『蒼天の拳』を連載中。『北斗の拳 英雄伝~台場の章~』は8月31日まで、お台場シンボルプロムナード公園一角の北斗ミュージアムで開催中。

■編集後記

連載デビューには失敗したものの、2作目『北斗の拳』が大ヒット。ここから週刊連載地獄が…。「21ぐらいから毎週描いてたんですよ。1週間のうちに2回徹夜しないとできなかったんですから大変ですよ」。その回の構成をするときと原稿を上げるとき。「で、休みは週に半日。外に出るのは、週に1回喫茶店に打ち合わせに行くときぐらい。そのときにがく然としました。足腰が弱っててフラフラになっていた。そもそも健康を気遣うという発想自体がなかったんです」

原 哲夫

関連キーワード

注目記事ピックアップ

 

編集部ピックアップPR

ブレイクフォト