「最初はマットを、そして相手を、最後に観客を」

蝶野正洋

2008.11.13 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
人としてレスラーとして視野を広げた海外遠征

蝶野正洋が入門したのは1984年、20歳の春。同期には武藤敬司と橋本真也がおり、後に“闘魂三銃士”と呼ばれることになる。

せっかくメジャーとして選んだ新日本プロレスだったが、この年、前田日明、高田伸彦(現・延彦)、藤原喜明、佐山聡らが退団してUWFを設立。長州 力もジャパンプロレスを立ち上げた。

「トップに(アントニオ)猪木さん、坂口征二さん、次いで藤波辰爾さんがいて、あとは間がズーッと空いて自分たち若手でした。だから俺も、なんにもできないのに、半年後には武藤さんとデビュー戦をやったんです」

何もできなかったという。

「最初は、極端な話、マットしか見えていません。とにかくリングに上がって、その試合に向けて練習してきたことがどれだけ出せるか。テストみたいなもんです。それが慣れてくると、相手が見える。そして少し目線が上がると、今度は相手の後ろにいるお客さんが見えるようになるんです。これね、一般の方の仕事と同じですよね。最初は自分の業務だけやっていればいい。少し立場が上になると、全体での自分の位置を知る。7試合あるうちの第4試合ならば、それなりの役割があるんです。第3試合や第5試合とは違うものを見せなきゃならないから。それがわかると、自分自身の見せ方を気にするようになる。同じ第4試合で闘っていても“俺が一番声援をとってやる”と考えるようになるわけですよね」

デビュー半年後からはアントニオ猪木の付き人を経験。上の人々がごっそりいないので、待遇は普通の新人より少しはよかった。そして迎えた87年。

蝶野は『ヤングライオン杯』という新人の大会で優勝。ヨーロッパからアメリカに至る海外修業に飛び出した。

「団体の経営もよくなかったから、片道切符を渡されて放り出されたみたいなもの(笑)。オーストリアのグラーツっていう街に入って、途中“ドイツ”って書いてあったから“お、ブンデスリーガ観られるかな”とか思ってたらいいなって思ってたぐらいで」

海外遠征中、選手は団体に身分を保障してもらうことはない。ヨーロッパでは半年間の契約。

「当時の俺はまだ“マットしか見られない”選手でした。リングでも何もできない。リングを下りて街に出ても言葉はわからないし、誰も俺のことを気にしない。空気みたいな存在でした。プロレスに入ってなかったら、自分がこんなにも力がないことを思い知らされることもなかったって気づいたんです。それで、日本にいる坂口征二さんに手紙を書いたんです」

海外に出してくれなければ、自分の無力さ、未熟さに気づきませんでした。ありがとうございました、と。

そしてアメリカ大陸に渡る。ここはヨーロッパに輪をかけて過酷だった。

「名前がないので、全部行ってからトライアウト。若い選手と試合をしてみてプロモーターに気に入られたら使ってくれる。最初はモーテル住まいで、それじゃ高いから安いアパートを探して。試合のスケジュールをもらったら、次の会場まで…聞いたこともない街とかにね、4~5時間もかけて地図見ながら行って、宿泊先も自分で見つけて」

半年間のカンザスシティでのシリーズは、最後の試合にお客が4人。ほとんど無給のままクローズ。同僚だったボブ・ブラウンの紹介でカナダに転戦。そこからもトライアウトは続いた。

「でもね、カンザスでもカナダでも、ちっちゃい会場だけど、ベルト獲ってトップにはなるんです。すると下の選手たちが敬語になるんですよね。“yes sir”“all right boss”って(笑)。でも、おれ自身、TVのインタビューでアクションしてなかった。“次のチャンピオンシップもがんばります!”とかかしこまって言うんです。この“ボス”がメインを張って動員が減ると、目に見えて下のヤツらの態度が悪くなるんです。お客を集めてこそのチャンピオンだから。それが身にしみてわかりました。そういう“ビジネス”のやり方を、覚えてきた時代だったんですね」

何度か帰国して新日のマットにもスポット参戦。徐々に“闘魂三銃士”の熱は盛り上がりつつあった。結局、蝶野が帰国したのは2年半後だった。

黒く、悪くなった裏側。ずっと危機感はあった

91年、蝶野は、新日本プロレス最強の選手を決定するG1クライマックスの初代王者となる。

「日本ではリングの上だけで仕事を全うすればよかった。バスに乗ればホテルまで連れてってくれるし、会場に入ったら練習して試合するだけ。チャンピオンになると、プレスが取り上げてくれるから自分の名前をキープする努力は不要だ…って勘違いしてました」

この時代の蝶野は、白のタイツを履いたベビーフェイスだった。が、94年に3度目のG1王者となったとき、突如として悪役へと転向する。

わだかまっていたことがあったのだ。

ひとつには、アメリカの大手プロレス団体WCWでのリングで「つまらない、恥ずかしい試合」をしてしまったこと。最初のG1のとき、新日と提携していたこの団体のタイトルマッチに出場したのだ。極貧の時代を過ごしたアメリカでの、全国ネットのリングだったが、首の故障が災いした。

そしてもうひとつ。

「日本は居心地よかった。でも不安でした。毎年同じ場所に行って試合して、終わったらメシ食って寝てバス乗ってまた別のホテル入って会場入って練習して…。選手はたぶん40歳ぐらいまでで、30歳はその折り返し地点だと思ってたんです。少し前に戻ってきて日本の心地いい生活に慣れ始めていて。あと10年間続くって考えたときに“俺はこんなことしてていいのか”って。それで会社に相談しました。 “この輪から1度出てみたい”って。“付き人も何もいらないからカバンひとつでアメリカみたいな形でやらせてくれ”って。でもダメだって言われたので、俺はどこかで旗挙げるしかなかったんだよね」

それが94年のG1優勝のとき。

蝶野にはずっと危機感があったはずだ。思えば入門当初から新日は傾き始めていたのだ。でもどうすることもできなかった。蝶野自身は「何も考えてなかったね。足下だけ見て歩いてたもん」と笑うが、今につながる経験の日々だった。

「武藤選手にも、橋本選手にも共通した意識はあったと思います。“なんかやんなきゃいけないよな”ってよく話してました。たぶん役割的には、俺は会社から飛び出すことになるだろうと思っていて。“でも3人のうち誰かが残ってりゃ、俺が外で培ってきたものを持ち帰ってきて膨らませることもできるだろう”って…結局残っちゃったのは俺だったんですけどね(笑)」

危機感は新日単体ではなくプロレス界全体へ。蝶野は、プロモーションを中心としたリングの裏方の仕事の大切さを強調する。「興行さえやれば、お客さんが付いてきてくれると考えるのは甘い」と。視野はグイグイと果てしなく広がっているのだ。だが…。

02年5月2日、東京ドーム。三沢光晴と闘う蝶野正洋の映像を観た。映像だ。声援と手拍子と踏みならす足。異様な興奮が画面に充満していた。

「東京ドームって、空間が違うんですよ。あらゆる演出で盛り上げるけど、最後はやっぱりお客さんの空気。3万人がいち選手を応援している。その場でしか生み出せない、体感できないものがありますからね。で、俺はといえば、相手の…三沢選手のことしか見ていない」

凄腕のプロ同士の場合、観客はいやがうえにも闘いに注目する。プロたちは、相手を倒すことだけ考えればよいのだ。

「でも、最後の最後には相手のことすらどうでもよくなって、考えるのはもう自分だけという…最初の段階に戻ってしまうんだよね。不思議なんだけど」

来年1月4日、東京ドームに蝶野正洋は見参する。きっと、魂を揺さぶるすごい試合を見せてくれることだろう。

1963年9月17日、アメリカ・シアトル生まれ、東京都三鷹市育ち。84年、新日本プロレスに入団。アントニオ猪木の付き人を経て、87年、ヨーロッパへ武者修行に旅立つ。89年に帰国。91年には第1回G1クライマックス王者に。続く92年、94年を制し、ヒールへと転向。95年ごろより“黒”を打ち出し、96年にはWCWに参戦、ハルク・ホーガン率いるnWoに加入。98年、IWGPヘビー級チャンピオンに。02年、G1優勝。07年より新イベント『蝶野王国』を開催。08年には『PREMIUM』を、自身をGMとしてスタート。プロレス界の未来を見つめる。

■編集後記

取材は蝶野のブランド〈アリストトリスト〉のショップで行われた。デザインは妻のマルティーナさん。彼女とはヨーロッパ修業中にドイツで出会い、アメリカに渡ったときアラバマで一緒に暮らしていた。「会社から帰国命令が出て、ちょっと日本に帰って戻ってきたら、ワーキングビザの関係で『入国したら強制送還』って。マルティーナを待たせてるし、アパートも借りてたし、クルマもあったのに…」。帰国準備に与えられた期限は4日間。クルマはとうとう処分できず「空港に置きっぱなし(笑)」。

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