「歌は、だいたいが愚痴に近い感じというか」

斉藤和義

2008.11.20 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA 市川…
新鮮さが生み出したもの。それを乗り越える本筋

「人の曲をカバーすることはあったけど、詞曲は自作して自演するのが基本で、人の歌詞を歌うというのは、本当に悪だと思っていたぐらいなんです」

つい2年ほど前までは。その掟のようなものを破ったきっかけは、今回の“おつかれさま”と同じ一倉 宏が詞を書いた「ウエディング・ソング」。これは結婚情報誌のCMのために作られ、一倉の「ぜひ斉藤和義に」という熱望を受ける形で実現した。

「タイミング的に面白いと思ったんです。せっかく指名していただいたし、詞もよかったし。結婚式の歌なのに、“結婚おめでと~よかったね~”だけではなく、すでにマリッジブルーが入っている感じですごくリアルで。依頼を受けてやってみたら、新鮮だったんです。“こんなふうにも曲は作れるのか”って」

いつもは、ギターやピアノで音を出しながら固めていく。だがこのときは歌詞を眺めながら鼻歌でいきなりICレコーダーにメロディを吹き込んだ。最初はサビだけだったが「あまりにもパッとできたんでどうせなら」と1曲に。

「自分で作るときはなんとなくパーッと曲ができて、詞をつけることが多いんですけど、先にお題があって、それも自分から出てきたものじゃない。こういうやり方って、感覚としては“歌手っぽい”なと。そもそも自分はギタリストになりたくて音楽始めたし、歌手という意識がないので」

折も折、レコード会社からの「カバーアルバムやりませんか」コールに応えて、この年『紅盤』というアルバムを作った。作家の伊坂幸太郎とのコラボや森 雪之丞、そして一倉 宏らの詞に、カバーを8曲配して男女の出会いから結婚までのストーリーを歌ったコンセプトアルバムだった。デビュー14年目、カバーも好きではないし、他人の詞なんてまっぴらだった斉藤和義に訪れた変革。人生は驚きに満ちているのである。

「…いや、そんな大げさな話ではないです(笑)。世の中的にどうかは知らないけど、自分のなかでは新しいと思えることをアルバムのたびにやってきたつもりなんで。このとき、もうひとつ大きなモチベーションになったのは、その後作るオリジナルアルバムに対していいプレッシャーになるだろうなということ。“カバーのがいいじゃん”って言われちゃったら悔しいので。ここで徹底的にがんばって作って、次へのハードルを上げちゃいました(笑)」

次に出た…いまのところ最新のアルバムのタイトルは『I Love Me』。いつもの自分の方法論に戻って、「俺は俺が好きだ」という剛速球を放る。

このときのタイトル曲は「誰も知らないラジオ局に、たまたま俺だけがチューニングを合わせることができて、いきなり聞こえてきた感じでできた」。

なんだかとてもマイペースに見える。

落胆と本当のデビュー。“歌うたい”とはなんだ

小6でガットギターを手にし、中2でエレキをゲットして以降、ミュージシャンになることにした。高校時代はヘビメタバンドでギターを弾き、大学も、音楽を続けるための選択肢だった。そこで歌の方へ行くのである。

「今でも“ギター弾いて歌う”というのがワンセットだと思っているところがあるので、レコーディングのときも弾かなくても提げて弾くフリしたり…ギターの重みなり感触があって初めてちゃんと声が出るようになってる」

その“癖”に気づいたのは27歳。初めてレコーディングをしたときのこと。

「それまで弾き語りでライブをやったりしていて、手ぶらでブースに入ってみると“げ、歌えない”と。歌だけ入れるのも何小節かごとに録り直したりするのに慣れなかったし、クリック(=メトロノーム)がカチカチ鳴ってて、普段は全然ギターも弾けるのに、それに合わせて弾くというのができない…“こういうやり方は無理なんですけど”って思ったりして。まあそれも勉強にはなったんですけどね」

大学を辞めて21歳で上京、「25歳まで」という約束でコツコツとライブなどを行っていた。そしてまさしく25歳のとき、三宅裕司司会の深夜番組『天下御免ね!』のアマチュアミュージシャンのコーナーで5週勝ち抜き。翌年、事務所と契約する。

だが、めでたしめでたしではない。一人で、まあのびのびと音楽をやっていたのとは違うストレスを味わうのだ。

「それまで弾き語りでやっていたのを、スタジオミュージシャンの人を入れてバンドアレンジをして。自分の頭のなかにイメージはあっても、それをどう具体化したらいいのか、な~んにもわからなくて。思い通りに弾けないし歌えないし、(自分のアルバムのある)レコード屋さんに行くのも嫌でしたね」

さらには「歩いて帰ろう」。子ども番組『ポンキッキーズ』とのコラボで、認知度を上げる作品だったのだが…。

「もともとはブルース調なイメージだったんです。番組用ということもあり、スタッフが売れセンな感じのリズムを打ち出してきて。当時のバンドのメンバーもそっちがいいって言うし、孤立してましたね。で、曲ができて番組でかかって、その直後にヨドバシカメラのCMが入ってたんですよ。リズムもテンポもまったく一緒。曲が繋がってるように聞こえて(ホントです)、“だから言ったじゃん!”みたいな(笑)」

ライブは「爆音で歌えるから楽しかった!」けれど、量産される作品は「俺じゃない」と思った。だからイニシアティブを取るべく意識した。

「本当にデビューできた気がした」のは、デビュー4年目の97年。5枚目のアルバム『ジレンマ』と6枚目の『Because』をリリースしたとき。

「全部の楽器を自分でやりたいと思っていたことができたし、エンジニアはこの人でスタジオはここだけでっていうのも決めて。ジャケットのデザインにしても、カメラマンはこの人でこういう感じで撮りたいって。それまでレコーディングに全く関係ないデザイナーが最後に来て“こんなふうになりました”“えー、なんで!?”みたいなことばっかりだったんで。全部自分でやりたいと。そのかわり全部自分でケツを拭くつもりでやったんで、とてもスッキリしたのを覚えています」

なんとなくマイペースできたのではない。自ら動いて獲得したマイペースだったのだ。そして「歌うたいのバラッド」という曲が生まれたのもこの年。スッキリした末のマニフェスト――自分は「歌うたい」としてやっていくのだ、という――に思えてならない。

「俺はさっきも言ったように歌手のつもりはないし、歌は後から始めたことで、俺にはいわゆる歌手のような上手さはないと思っているので、だからそういうところから“歌うたい”というのは出てきたんだと思うんですけど…。いちばんイメージが近いのはブルースシンガーみたいな感じなんだろうなあ。ロバート・ジョンソンだとかああいう人を模したいわけじゃないんです。俺は黒人でもないし、あの人たちは奴隷制度なんかのなかから、ああいう歌を生み出してきたわけで。だからもちろん土壌は全然違うんです。でも、自分の気持ちだったり実際の生活だったり、そういうことを作った本人が歌うということが、ブルースだったりっていうことなんじゃないのって思っていて」

15年目を迎えて、周囲ではアニバーサリー的展開がどんどん始まっている。「十何年というのは別にいいんですけど、まあ曲が増えてよかったなと思ってます。デビュー前は10曲あるかないかでしたからね。それが今は200ぐらい。ライブでも10分の1しかできません。昔はやる曲が足りなかったのに。それを考えると“お、がんばったじゃん!”って思いますけど(笑)」

1966年栃木県生まれ。87年、大学を中退し上京。91年TV番組『天下御免ね!』で5週勝ち抜き、93年「僕の見たビートルズはTVの中」でデビュー。94年『ポンキッキーズ』に提供した「歩いて帰ろう」で注目を得る。ギターのみならずすべての楽器を自演。毎年のようにコンスタントに作品をリリースし、07年のデビュー15周年までにオリジナルアルバム12枚、シングル35枚を世に出している。最新シングル「おつかれさまの国」は12月3日発売。その翌日、zepp OSAKAを皮切りに『ライブツアー2008 “歌うたい 15

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