「文句を言うことは、もはやない」

仲村トオル

2008.12.11 THU

ロングインタビュー


兵藤育子=文 text IKUKO HYODO 森山雅智(vacans.inc)=写真 photography MASATOMO MORI…
周りは褒めてくれるけど、そう甘くないと思っていた

特に役者になりたいわけではなかった。しかし打ち込むべきものもほかになかった。学生時代、たまたま雑誌で見つけて応募したオーディションが、当時一世を風靡したヤンキー漫画『ビー・バップ・ハイスクール』の実写化だった。このときちょうど20歳。

「自分の演技に対して、ワンカットごとに監督がOKと言ってくれるのが嬉しかったんですよね。それまで誰かにOKと言われる経験なんてほとんどなかったから。大勢の大人が自分のやったことを認めてくれて、次のカットへ進むっていうやり取りが、単純に楽しかった。当時はちゃんと自覚していませんでしたけど、幸いなことに最初に主役をやらせてもらって、大切にしてもらえたと思うんですよね」

小中学生のころは、プロ野球選手を目指していた。その夢をあきらめてからは、無意識のうちに夢中になれる何か、周りから認めてもらえる何かを求めていたのかもしれない。

「今までやったことのなかで、役者は一番楽しいと思いましたね。できることなら続けていきたかったけど、続けることは相当難しいだろうなと何となく感じてはいました」

デビュー作はヒットし、続編、続々編が作られる。一方、86年にはテレビドラマ『あぶない刑事』の放送がスタート。こちらもあまりの人気で当初予定していたクールが延長されるほど。絶好調以外の何物でもなかった。

「うまくいっていたからこその不安がありました。俳優になるために苦節何年やってきました、みたいな経験があったわけではなかった。演じることの勉強とか、俳優になるための努力をまるでやってこないまま始まってしまったから。周りの大人たちは褒めてくれるけれど、世のなかそんなに甘くないでしょ、というようなことを思っていた気がします」

漠然とした不安を吹き飛ばす勢いのあるうちはまだよかった。初めて壁にぶつかったのはデビューから4、5年経ったころ。謙虚な心を忘れかけていた。

「25歳くらいのころは、過信とかうぬぼれの類を持ち始めて、“俺は相当いろんなことがわかってきた”と思っていました。でも一方で結果が伴わないこともあって。どんなことでも一生懸命やれば報われると思っていたのに、報われないことがあると知った。“ヒットした映画と同じくらい頑張ったのに、おかしいな”そう感じ始めた時期でした」

行き詰まりを打破すべく、さらなるステップアップとして狙いを定めたのが、映画の都・ハリウッドだった。

「当時同じ事務所にいた松田優作さんが出ている『ブラック・レイン』を観たのが決定的でした。クレジットに“マイケル・ダグラス、ケン・タカクラ、アンディ・ガルシア、ユウサク・マツダ”と出るのを観て、うわあ、これだ!と思った。突破口になりそうなものがそこに見えた気がしたんです」

そして実際に海外で仕事をするチャンスを得た。

「優作さん亡き後、優作さんや僕がずっと一緒に仕事をしていたプロデューサーの方が、アメリカやオーストラリアと日本のコラボレーション作品を何本か企画されたんです。僕もニューヨークやロサンゼルスで仕事をさせてもらったけれども、太平洋の向こう側から見ていた“山”はとてつもなく高いことを、麓に行って気がついた。東洋人の役すら少ないのに、現地で生まれ育った日系、中国系、韓国系のアメリカ人と僕とでは、スタート地点からして違う。行き詰まっているときは突破口に見えたけど、実はもっともっと難易度の高いチャレンジをしようとしているんだなあって。移住してオーディションを受けまくる生活が自分にできるのかな、でも日本でやりたい役もあるし…という葛藤がしばらく続いていましたね」

突破口は太平洋の向こう側などという遠い場所にではなく、実は意外と近いところにあった。

「映画が最初の仕事だった僕としては、当時トレンディドラマと呼ばれていた作品を敵だと思っていたんです。だけど『29歳のクリスマス』というドラマに29歳で出演して、“ここにも真剣にものを作っている人たちがいるんだ”って。それまでは映画こそが自分の本業であって、その最高峰がハリウッドの大作だと思い込んでいたのが、日本のテレビドラマにも面白い現場があるし、いい作品を作るスタッフがいることにようやく気がついたんです」

邪魔な荷物を捨てて、グニャグニャになった

20代、30代から大きく変化したのは、こだわりを捨てたことだと言う。

「こだわりは持たなければいけないものだと思っていた。今思えば、哲学や美学のような自分ならではのものがないといけないという思い込みであわてて作った、中身が空っぽのハリボテみたいなこだわりだったのだけど」

自分の価値観がすべてであり、自分で発想したものに最も意味があると信じて疑わなかった。衣装合わせでは、各シーンで自分が着る衣装のイメージを絵に描いて現場に持参した。スタイリストの意見などおかまいなしに。

「今は持ってこられた衣装をほとんど黙って着るんですけど。何か言うとしたら、サイズが合わないときだけ(笑)。まあ、衣装に限らず、文句を言うようなことは、もはやほとんどないな」

どうだろう、この見事な変貌ぶり。やろうと思っても、なかなかすぐにできることではないはずだ。

「最初に海外で仕事をしたときにアメリカ人監督が言ったんです。自分のヴィジョンやイメージも大切だけど、人からいっぱいもらったほうが、キャパシティを超えるものが作れると。そのあと僕自身も香港や韓国、中国の映画に出演して、常識と思っていたことが通用しない場合が多々あって、20代から大切にしていたものは邪魔な荷物だと気づいたんです。いろんな武器を持つよりも、柔軟な心と身体を持っていたほうが戦えるんじゃないかなって」

そして、身軽になった今、俳優・仲村トオルはどこへ行こうとしているのか。

「今の僕は“どっちでもいいんじゃないの?”って思うことが多いんです。それこそ昔だったら、監督に“相手がセリフを言ったときに、右を向いて”と言われたら、“俺に右を向けって言うよりも、俺に右を向かせるような芝居をさせるのが演出家としての仕事じゃないですか”っていうノリだったと思うんですよ。でも今だったら、“右を向く理由は自分で見つけます”もしくは、“理由がなくても人は右を向くときがあるよね”っていう解釈。よく言えば柔軟、もしかすると芯がないような状態だけど、そのなかからこれだと思うやり方を見つける日がくるといいなという理想もありつつ、大ベテランと呼ばれるようになっても、このグニャグニャした柔軟性で行きたい気持ちも両方あって。グニャグニャなまま、行きそうな気はしてるんですけど(笑)」

思いがけない力の抜け具合。見ていてなんとも気持ちいい。

「僕は新しい役をやるとき、こういう人だと決めてかからないんです。前は台本にいっぱい書き込んでいたけど、今は恥ずかしいほどきれい。“読んでないんじゃないの?”って言われたらどうしようっていうくらいに」

1965年東京都生まれ。大学在学中の85年、映画『ビー・バップ・ハイスクール』で俳優デビューし、日本アカデミー賞をはじめとする数々の新人賞を受賞。86年、TVドラマ『あぶない刑事』に出演。02年、韓国映画『ロスト・メモリーズ』では、“韓国のアカデミー賞”と称される大鐘賞映画祭男優助演賞を外国人として初受賞。03年、チャン・ツィイーと共演した中国映画『パープル・バタフライ』は、カンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式出品された。公開待機作品に『劒岳 点の記』(2009年6月公開予定)など。最新作『K-20 怪人二十面相・伝』が12月20日より全国東宝系で公開。

■編集後記

25歳前後は、役者として初めて壁にぶつかった時期。「ある写真家に撮影をしてもらったとき、『手の平のなかに一番大切なものがあるとイメージしてみて』と言われて『大切なものは手の平になんかないから、イメージできない』って答えたんです。そのころはすでになくしてしまったものか、絶対に手に入らないくらいの高いところ、遠いところにあるものにしか価値を感じられなかった。結構苦しい思いもしましたけど、そんな時期を経験したのも、今思えばまあ悪くなかったかなって思います」。

兵藤育子=文
text IKUKO HYODO
森山雅智(vacans.inc)=写真
photography MASATOMO MORIYAMA
中川原 寛(CaNN)=スタイリング
styling KAN NAKAGAWARA
宮本盛満(FOR KOHGENDO)=ヘア&メイク
hair & make-up MORIMITSU MIYAMOTO
スチーム=編集
editorial steam

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