「自らの手で叩きつぶして終わる」

清春

2009.01.29 THU

ロングインタビュー


平山雄一=文 text YUICHI HIRAYAMA 稲田 平=写真 photography PEY INADA スチーム=編…
流行歌手からギタリストへ。とにかく長髪じゃないと!

「男3人兄弟の長男。おじいちゃんの代からの建築業で、父がそれを継いだ。家の中に工場があったせいもあって、いつもおばあちゃんの背中に背負われていた記憶がありますね。隣が床屋で、目の前がお菓子屋さん。その隣が釣具屋さん。用もないのに床屋さんに行って椅子に座らせてもらったり、近所でよく遊んでた。情緒あふれる町だった。父は無口で、いつも工場にいてステンレスの板をハンマーでカンカン大きな音で叩いてたから、子ども心に怖かった。無口だったのは、きっと仕事で疲れていたんでしょうね。今、自分も父親になってみて、それがよく分かる」

長髪からのぞく憂いを帯びた視線は今も清春のチャームポイント。相変わらず日本人離れしたクールなルックスだが、語り口は驚くほど穏やかである。

「歌謡番組をよく観てた。テレビに出てくるアイドルは長髪が普通で、違和感なく見てた。最初に買ったレコードは、西城秀樹さんの『ブーメラン(ストリート)』か『傷だらけのローラ』。秀樹さんがかっこよくて、海外の子どもたち感覚でいうとエアロスミスのボーカルのスティーブン・タイラーみたいに見えてたんだと思う。次に憧れたのがジュリー、沢田研二さん。1曲ごとにコンセプトを変えて、パラシュートを着けて出てきたり、帽子を投げたり。そういうのが好きでしたね」

岐阜の多治見市で、清春はマイペースの青春像を描いていく。

「工業高校のデザイン科に進んだ。理由は、なにしろ長髪がオーケーだったから(笑)。高2で初めて名古屋にロックイベントを見に行った。当時はBOΦWY、バービーボーイズ、聖飢魔IIが一緒に出ていて、なかでも僕はストリート・スライダーズ派だった。当時のスライダーズファンって、異様な雰囲気だった。蘭丸(ギタリスト土屋公平のニックネーム)さんの格好をしたオネーサンが、人気絶頂のBOΦWYを冷ややかに見てるのに憧れた」

清春のカリスマ性には、独特のアンダーグラウンド感がある。メジャーにはない“絶妙の不良性”とでも言えばいいのか。彼はそれを80年代ロックのマニアックなヒーロー、スライダーズから受け継いだ。

「そのころの僕は、簡単に言えば蘭丸さんになりたかった。派手なシャツに、タイトな黒のジーンズ、少し尖った白い靴。スライダーズの写真集はバイブルだった。ただ、雑誌で彼らが着てる服は“古着”って書いてあるんだけど、古着っていうのが何だか分からなくて。クラスのスライダーズファンの女の子に『ああいう服ってどこで売ってるの?』って聞いて。名古屋の 『地球屋』っていう店に初めて行ったときの衝撃は忘れられない。僕の最初のステージ衣装はそこで買った紫のペイズリー模様のジャケットだった」

自分だけのスターを見つけて、いよいよ清春は音楽の道に踏み込む。

「高2のとき、初めてメイクしてステージに立った。母のメイク道具を借りて、足りない服は母のものを借りたり。初めて照明に当たった時の視界を、今でもはっきり覚えてる。まぶしい光の向こうに、客がこっちを見てるのがうっすらと見える。楽屋でも男たちがみんなタバコを吸いながら、メイクしてたり。そういう雰囲気が大好きだった」

高校を出て、またしても長髪オーケーという理由から階段の手すりを作る工場に就職。実家を離れて2年間、働きながらバンドをやった後、実家に戻って1年働き、そこで黒夢につながるバンドを始める。もう23 歳だった。

自分たちで大きくした名前、それを今度は自らの手で…

「それまでは先輩とバンドをやってたのが、初めて年下のメンバーと組んだ。責任感っていうようなものじゃないけど、思うところはありましたね。名古屋でライブをやったり、ちょくちょく東京にも出てくるようになって。当時、“化粧系”にはいろんなバンドがいた。BUCK - TICK、ルナシーと来て、次は僕たちかなと勝手に思ってた。東京のレーベルからインディーズ盤を出すことになったのはよかったんだけど、ジャケットやアーティスト写真がイマイチだったから、正直『これでいいのか?』とも思ってた」

チャンスに浮かれながらも、少しの違和感も見逃さない。このあたりから清春の本領が現れてくる。今で言えば“DIY”のスピリットで、彼はその独特のカリスマ性を成長させていった。

「まわりのバンドが英語の名前ばかりだったんで、僕らは漢字にしようと思ってた。それも実際にはない言葉。黒が好きだし、夢もたくさんあるし、で、黒夢。先輩から大反対されて『なるほど、そうですね』ってうなづきながら、『でも絶対、僕らは黒夢です』…って話を全然聞いてない(笑)。バンド名は“黒夢”でシングルのタイトルが『中絶』、ボーカルの名前が“清春”。漢字を大々的に使ったことの反応は大きかったですよ。どんなバンドだろうってライブを観に来てくれる人も増えた」

戦略は的中。爆発的なビジュアル系ブームの中、インディーズバンドの青田買いに奔走する業界人の注目が集まることになる。もっとも清春自身は、「自分たちがビジュアル系とは思っていなかった」と笑う。バンドなら何でも食いついた当時の音楽業界の流れを逆手に取る、クールなやり方だった。

「25歳のとき、東京で初めてライブをやった。インディーズで少しは売れてたから、レコード会社の人や有名なバンドのメンバーが観に来てくれた。噂はもっぱら『どこのレコード会社からデビューするんだろう』ってこと。僕らは名古屋にさえ憧れる岐阜の田舎者だったけど、音楽はもちろん、ジャケット作りもプロモビデオも、ツアーする車の運転もナビも、全部自分たちでやってきた自信があった。だからシンプルに、いちばん条件のいいところと契約しようと考えてた。でも、実際の契約のことは何も知らなかった。なので、いちばんビシッとスーツ着て、いちばん豪華なレストランに連れていってくれた社長のいるレコード会社と契約した(笑)。で、その社長にお願いしたのは、『CDをたくさん売るよりも、街を歩けないようにしてくれ』ってことだった。閉ざされた世界のヒーローじゃなくて、有名になりたかった。社長は約束を果たしてくれて、いずれ本当に街を歩けなくなった。ガススタンドにも寄れない。っていうか、どっちかって言うと女の子より男、黒夢はスタンドで働いてたり、夜の繁華街で呼び込みやってるような、ヤンキーに人気があった。弱者の男の共感を得た、唯一のビジュアル系バンドだったと思う」

弱者を肯定した物語『池袋ウエストゲートパーク』でのヒットもうなづける。考えてみれば清春自身、男性アイドルシンガーに憧れ、男がほれるロックバンドのファンだったのである。

「バンドのミュージシャンとしては珍しく、ファッション誌に呼ばれるようになった。すると、僕の着たものがよく売れる。僕は服を着ることには興味があるけど、作ることは何も分からない。でも、僕と同じ格好をしたい人の気持ちはよく分かる。だって僕も好きなミュージシャンと同じ格好がしたかったから。この仕事は、人がマネしたくなる奴じゃないとダメなんですよ」

清春が漂わせる不思議な親近感は、彼自身が素直なファン気質を持ったままスターになったことから生まれているのかもしれない。

一方、バンドとしての黒夢は、メジャーデビューしてからそれまでは雑誌でしか見たことのない憧れの人に会えたり、大規模なツアーが実現したりして、それだけで満足してしまう面もあった。そのあたりのすれ違いからメンバーが次々に欠けていき、ついには清春と人時のふたりになり、10年前、無期限活動停止に突入することになる。

なぜ今、黒夢は一夜限りの再結成ライブを行い、解散を発表するのだろう。

「正直、僕が言い出したことじゃない。有名になろうって一緒に東京に出てきたメンバーが、どうしてもやろうって言うから、もう一度やるだけ。“黒夢”って、学生時代のアダ名みたいなもの。『ああ、あなたって黒夢の人でしょ』みたいな。でも僕は今、本名でやってる。アダ名と本名は違う。もうその名前で呼ばないでくれっていう気持ちはずっとあった。だから今度の武道館のライブで、そのアダ名を自分の手で叩きつぶして終わる」

25歳から始まった清春の物語は、彼をカリスマに押し上げた。その途中であえて言い訳をしてこなかった清春だから、ずっと引きずってきた残像がある。それを自ら叩きつぶすという口調に、友情や切なさを超えたひとりの男の、自分とファンに対する“いたわり”を感じる。だからこそ清春は、弱者の男のカリスマたりうるのだ。

1968年、岐阜県多治見市生まれ。高校時代からライブ活動を展開、いくつかのバンドを経て91年、黒夢を結成。94年2月にメジャーデビュー。「BEAMS」「ピストル」「少年」「MARIA」などをヒットさせ、年間100本以上の豊富なライブを行う。99年に活動休止後、自ら「FULLFACE」レーベルを創設、sadsを結成。ドラマ『池袋ウエストゲートパーク』の主題歌に「忘却の空」がピックアップされたことで、コアな音楽ファン以外にも大きな認知を得る。03年よりソロプロジェクトを始動。「EMILY」「LAST SONG~最後の詞~」をはじめ、シングル16作、オリジナルアルバム5作をリリース。 09年1月29日に「清春 15th Anniversary Presents KUROYUME “the end” CORKSCREW A GO GO! FINAL」を日本武道館で行う。その前日、黒夢カバーアルバム『MEDLEY』をリリース。『Charm Cult』『Moonage Devilment』『Jubilee&Mayhem』などのファッションブランドも運営している。

■編集後記

メジャーデビューのチャンスをつかんだのが、25歳のときだった。同期のバンドたちは次々と大手のプロダクションと契約し、メジャーにアプローチしていく。が、黒夢はあくまで自分たちで契約先を選ぼうとしていた。レーベルを決めた後も、すぐさま自分たちで事務所を立ち上げ、レコード会社の近くにオフィスを構える。ポスター一枚まで自らの目を通すことで、黒夢は独特の美意識をもってメジャー展開を開始することになった。

平山雄一=文
text YUICHI HIRAYAMA
稲田 平=写真
photography PEY INADA
スチーム=編集
editorial steam

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