「団結すれば、成功できる」

ジョン・ウー

2009.04.09 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA サコカメラ=写真 photography SACO CAMERA
“禍福はあざなえる縄”を地でいく20代の日々

監督、香港の貧民街で育った。小さいころから映画館に入り浸り、いつしかその道を志すようになっていた。

「20代の私はヒッピーな格好をしていました(笑)。髪が長くて、反戦デモにもよく参加して。基本的には文学青年で、実存主義の本をよく読んだし、フランソワ・トリュフォー監督や石井輝男監督、黒澤 明監督の映画もたくさん観ていましたね」

香港の映画会社ショウ・ブラザーズに入社し、師と仰ぐ張徹(チャン・チュ)監督の助監督を務めるのは24歳のとき。ほどなく自ら監督を目指し、彼の元を離れ、独立系の映画会社に身を寄せる。非常に無謀な選択だったらしい。

「みんな不可能だって言いましたね。だって当時の香港では、少なくとも20年は下積みしないと監督させてもらえなかったから。みんなデビュー作が45歳とかでしたよ(笑)。私はとりあえず監督作の構想を練っていたんですが、まあとにかく貧乏でした。家がなくて、ある小さな会社のオフィスで寝泊まりしていました。昼間は社員の人が働きに来るので街に出てブラブラして、仕事が終わってみんなが家に帰ったらオフィスに戻ってソファーで寝る(笑)」

何の確信もなく続けていた生活だったにもかかわらず、わずか下積み2年でデビュー決定。26歳のときだ。

「25歳の年末に、私と同じように助監督をしていた友だちから声がかかったんです。彼の友だちが株で儲けて、映画を撮りたいと。なんでも株で儲けたその人は、ある女優に惚れ込んでいて、彼女を主演させたいからって。で、私の友だちが監督するよう頼まれたんですが、自信がなくて私を誘ったんです。共同監督として引き受けたんですけど、実質的には私がひとりで作りました」

それが73年の『カラテ愚連隊』。ここまでは非常に幸運。でも、すぐ上映禁止という不運に見舞われる。

「あまりにもヴァイオレンスが過激で(笑)。結構新聞にも叩かれました。『彼は若すぎて、いい作品が撮れない』って。確かに私は若かったし、助監督経験も2年ぐらいでしたからね。でも…」

重要なのは73年だった、ということ。この年の7月、ブルース・リーが死ぬのである。『ドラゴン危機一発』『燃えよドラゴン』などでヒットを飛ばした映画会社「ゴールデン・ハーベスト」は危機に陥るのである。

「彼らはちょうど若手の監督を必要としていて『カラテ愚連隊』を観たんです。共同監督の名義だったんですが、彼らが気に入ったのは全部私が撮ったシーンでした。私が学生時代に撮った実験映画や、モンタージュの手法など、自分のやりたいことをふんだんに取り入れて作ったところを評価してくれたんですね。そこから監督として3年間の契約を結んだんです」

最初の作品から持ち続けてきた“ウー節”が炸裂するのが、86年の『男たちの挽歌』。警官となった弟・キットのために足を洗おうとする香港マフィアのホーと、かつての暴力事件での負傷で完全に社会の負け組と化した親友・マーク。逃れきれないしがらみと、放っておけない友情のために再び銃をとり闘う男たちの物語。

これぞブレイクスルーポイント…。

「いえ、というよりは…」

ええと…そう、違うのである。

映画でポジティブなメッセージを伝えたい

「私にとって最初の大きな転機になったのは、77年に撮った『マネー・クレイジー』です。コメディーとアクションを融合させた作品で、香港だけでなくシンガポールでも大ブレイクして、私はその後、10年間、コメディー監督として名声を得ました。私には10年ごとにブレイクスルーポイントがあるんですよ(笑)。そして、おっしゃるように『男たちの挽歌』は最大の転機…」

これ以降、香港映画界に“香港ノワール”と呼ばれる新たなジャンルが生まれた。ギャングの抗争や男同士の友情を血しぶきとハードな銃撃戦で描く、ジョン・ウーのみならず香港映画界…いや、「影響を受けた」と公言するクエンティン・タランティーノやウォシャウスキー兄弟を考えると、映画界全体のある種の転換期だったのかもしれない。

「それから96~97年に撮った『フェイス/オフ』、07年、08年は『レッドクリフ』…ほら、10年ごとでしょう(笑)」

オリジナルの映像表現を芸術の域まで押し上げ、ハリウッドでも押しも押されもせぬ監督となった。そしてハリウッドの強力なVFXチームと凱旋し、作り上げた悲願の三国志演義…。

10年ごとに着実にブレイクスルーしてきたわけだが、こと『レッドクリフ』に関しては、着想から18年以上を経ている。実に“2ブレイクスルー”分の期間、ずっと取り組んできた企画なのである。しかも制作費100億円のうち、10億円が私財。もはや自己表現だとか、ビジネスではくくれない。

なぜ、映画を撮っているのか。

「私にとって映画は、自分の人生、考え方を反映させるものです。そしてつねに新しい作品で新しい境地を生み出したいと思っています。自己表現の手段でもあるのはもちろん、私がもっとも大事だと思っているのは、この映画が社会にもたらす意義。私が撮る映画で若い人たちに新しい経験を与えたり、ポジティブなメッセージを伝えたりしたい。それに、映画を作るプロセスは、私にとっては新しい友達と知り合っていくプロセスでもあるんですね。制作段階でのスタッフや俳優陣に関してもそうですし、日本で紹介されることで、いまもこうして新しい友達を得ることができているわけです(微笑)」

『レッドクリフ』は、国を超えて男たちが団結し、強敵に向かっていく物語である。ただ“団結”という単語は、普通に口にするとなんだか気恥ずかしい。むしろ“マン喫”でひとり過ごす方が気が楽なのである…という日本の若者事情を告げると、ウー監督こう言った。

「私も25歳ごろには詩を書いたり哲学書をむさぼり読んでいたので、孤独が大好きでした。でも、そうして部屋に閉じこもっていると孤独はより深まり、どんどん楽しくなくなってくるのです。そこで『これは良くない』と気づきました。他の人と付き合って、人を労ったり、気を遣わないとダメだと。仕事を通じていろんな人と協力してみんなが評価できる何かを作ることはとても大切だと。みんなのためであるのはもちろん、それによって自分がハッピーになれるから。私は『レッドクリフ』で人々を励ましたいと思います。団結すれば成功できるというポジティブなメッセージを伝えたい。同時に、戦争は悲惨であるということを」

団結や忠心をすごいパワーに変えて闘うキャラクターたちや、奇策をビジュアル化するところも見せ場だ。が、ことにこの“PARTII”は、戦争映画でもある。兵たちが普通に、死ぬ。

「戦争には勝つ者がいません。そのために尊い命や財産が失われていきます。私たちは、平和と愛と友情を、それがある限りもっともっと大事にすべきですし、享受していくべきなんです」

陳腐な言い方かもしれないが、平和を愛する男なのだ。それは決して“世界平和”という大きな話ではなく…。

「基本的に私の姿勢は、まず他人の立場に立って物事を考えるということ。ひとつの映画は人生の縮図です。様々な役割の人がいます。カメラマンもスタイリストも、もちろん俳優に関しても、それぞれ才能と魅力を持っています。それをいかに引き出して見せるか…私はつねに人の才能を引き出そうという立場から映画を撮ることを試みているんです。ですから、いろんな人それぞれの見せ場が映画のなかにある。そういう気持ちで取り組んでいます。ひとつの映画はみんなの才能の結晶です。私は監督ですが、映画を作るうえで偉い人だとは思っていません。『レッドクリフ』の撮影には数々の困難がありました。でもそれで誰かを責めたり愚痴をいうことなく乗り越えてきました。共存、共栄ということを大事にしているし、そうした気持ちで撮った作品は必ず観客にも共感されると信じています」

つねに平和を訴える彼は、映画そのものもつねに平和に撮るのである。穏やかに主張するコートの裾は、こころなしかはためいているように見えた。

椅子に座っていたけれど。

ショート丈だったけれど。

1946年、中国・広州市生まれ。23歳のときスクリプターとしてキャリアをスタート。71年、ショウ・ブラザーズで張徹監督の助監督を務め、73年『カラテ愚連隊』でデビュー。77年、『マネー・クレイジー』でコメディ映画監督としての地位を確固たるものにすると、86年『男たちの挽歌』で“香港ノワール”を世に問う。同時にチョウ・ユンファをスターダムに。90年代からハリウッドで活躍。『フェイス/オフ』で全米を席巻すると、00年にはトム・クルーズからの熱烈なオファーを受け、『ミッション:インポッシブル2』を手がける。『レッドクリフ』は18年前からの悲願。昨年PART1が公開され、大ヒット。現在DVD発売中。PARTIIは4月10日(金)TOHOシネマズ日劇ほか全国超拡大ロードショー

■編集後記

若かりし日のジョン・ウーは石井輝男の映画の世界や黒澤 明のアクション(『レッドクリフ』撮影の際も、『隠し砦の三悪人』を観直したらしい)、サム・ペキンパーのスローモーションなどに夢中になっていた。73年のブルース・リーの死が、当時の香港の若手フィルムメーカーたちにチャンスを与える形となったわけだが、ゴールデン・ハーベスト社はこのときジョン・ウー以外にもマイケル・ホイを発掘。『Mr.BOO!』シリーズで大ヒットを飛ばす。若きジョン・ウーとしては作品を作りやすい状況であったのだ

武田篤典(steam)=文
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