「ある日、札幌で天気がカーンといい日に、“それでもいいのかな”と思った」

小西康陽

2009.06.25 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
200枚のCDの意味。ディスクガイドではない

パラパラめくると、赤とモノクロの美しい2色刷で、ジャケット写真だとかジャケット写真から切り抜いた人物写真だとか、フォトエージェンシーのクレジットの入ったアーティスト写真だとかが見える。1ページ大であったり、トリミングされていたり、ジャケットそのものに小西あてのサインが入っていたり。中にはアフロのヅラをかぶった小西本人の撮り下ろし写真も。

「あれはね、ジミ・ヘンドリックスのアルバムの表4(裏表紙)写真を使おうと思ったんですよ。そしたらレコード会社からNGが来て使えないと。かわりに公式のアーティスト写真をいただいたんですが、その写真が自分の使いたいものではなくて。どうしようとやけになって、ギターとアフロのかつらがちょうどデザイナーの家にあったので…(笑)」

文章も自在。必ずしも「どんなアルバムなのか」は説明されない。「いま自分がやっているバンド」や「そのアルバムを手に入れたフランスのレコード店」や「ウソぴょーん」な話…。自伝であり、理想の女性への求愛の書であり、ソロアルバムの企画書なのだ。

そもそも小西康陽の好きなレコードとは、自分がそういうものをいずれ作りたくなるような1枚のことである。

「大人になってからも変わらない人いると思うんですけど、子どものときって、使わないのにやたらノートブック買いませんでした? 僕ね、小学4年生のときにプラモデルにはまって、ひとつ完成したらうれしくて。タミヤの結構良いプラモをいっぱい買ってました。箱さえ開けずに“いつか作る”って、たくさん持ってたんですよ。いまレコードを買うの、それと変わんないような。いつか自分もこういうのを作るぞっていう希望を買う感じかな」

仕事の資料として聴くものはレンタルや配信で十分。まさしく正しい“趣味”との向き合い方だ。で、年を経るにしたがって、音楽に対する好みの幅はどんどん広がってきているらしい。

「僕、昔は作曲オタクみたいな感じで、音楽で作曲家とアレンジャーのことしか聴いてなかったんですよ。でもいまは“人間って面白いな”って思う部分が増えてきた。歌ってる人がいてこその音楽だと思うし、いいなと思えるボーカリストのレコードを聴くと、曲自体は自分では絶対書かないであろうタイプなのに、好きになったりして…」

基本的に小西康陽はレコードで音楽を聴く。便宜上CDで紹介しているが、この本の音源のほとんどはアナログ盤で持っている。それだけ“作りたいレコード”が存在するのだ。

「この本の第1章は、“お前はただの現在に過ぎない”っていうタイトルです。もともと自分のノートには“いまつくりたいレコード”っていう、具体的なタイトルを書いていました。そしてラストに自分の作ったものを並べたんです。本の体裁は何となく見えていて、そうなったとき、最後に“私はこういう人間です”というのを出したほうがいいだろうと思ったんですよね」

最終章のタイトルは「あとがきの替わりに作ったアルバム。」だ。

あとでそれとわかった3つの転機のこと

10歳で洋楽に出会い、アイドルに曲を書く人になりたいと思い、いろんな曲の仕組みや成り立ちに夢中になり、音楽家になることだけを考えてきた。大学を卒業するときも、その思いはさめやらず、まっとうに就職活動をしなかった。大学を出て年間300本ほどの映画を観、たまに家庭教師のアルバイトをし、毎日のように中古盤屋に通う日々。

成功を目指すバンドには、街頭での演奏やコンテストへの挑戦などのストラグルがあるが…。

「いやいや、ありましたよ。心の中でストラグルしてました。でもどれもできなかった。バンドも組めなかったし、楽器の演奏もヘタクソだったし。コンテスト出るにも何もないし曲も作ってないし。音楽の会社の就職活動も、ダメだろうと思ってやらなかった。のほほんと生きてたように見えて、心の中では苦しんでましたね」

だが人生は本人の意図とは必ずしも関係なく、動くときは動くのだ。

「2~3年は悩みに悩んでました。当時、僕はお金がなくなると札幌の実家に戻ってたんですが…ある日、札幌で天気がカーンといい日に、ふと“別にこのまま就職しないで、ずっと遊んでられたらそれでもいいのかな”と思ったんです。そしたら気が楽になった」

心機一転とか、いうことでは何もない。単に「これでもいいか」と思っただけ。

「その後すぐに東京に戻ったら、高浪慶太郎(現・敬太郎)くんって人とバンドを組むことになって。デモテープ録って。何人かの人からコンタクトが来て」

白金の『杉の木屋』というスーパーの上階にあった小西の部屋を、同じ白金在住の細野晴臣が訪れた。ただ残念ながら、デモテープのせいではない。

「僕が札幌で高校生だったとき、仲良くしてもらっていた和田博巳さんが細野さんのマネジャーになって。就任2日めに細野さんを家に送るときに『ここに小西くんっていう面白い人がいて、レコードいっぱい持ってて、いま音楽作ってるんですよ』って紹介してくれて、うちまで連れてきたんです」

小西は、札幌でコーヒーショップを経営していた和田博巳に出会い、店で様々な音楽や人物に出会った。和田はもともと東京で、はちみつぱいというバンドで音楽活動をしていた。細野とはそのときの誼があったわけだ。

「細野さんは正直にいうと、決して僕たちの音楽を気に入ってはいなかった。ただ縁というのかな…細野さんはちょうど自分のレーベルを始めたところで、なんとなく、このバンドを出すべきなんだろうって思われたみたいですね」

それがピチカート・ファイヴ。デビューは1984年、25歳の小西康陽が、札幌のある晴れた日に「このままでもいいかな」と思ったのと同じ年の話。

「僕は25歳のときにバンドを組んだ。これが最初の転機。次は36歳。最初の奥さんと離婚して、いまの奥さんと結婚した。47歳が次の転機、それは病気して倒れた。その3つかな」

ピチカート・ファイヴは幾度かのメンバーチェンジの後、野宮真貴というボーカリストを得た。小西康陽が作った歌を歌う理想的な形となった。

「離婚していわゆる一文無しになって…まあ当然なんですけど。これからどうしようっていう感じになって。でもそのときに、音楽一所懸命やるしかないかっていう気持ちになったからかな。それからいっぱい大きい仕事が来てお金に苦労しなくなったかな。好きな仕事を好きなようにやって、ちょっとヒットが出ましたね(笑)」

47歳の病気は、くも膜下出血。DJにプロデュースにノリノリ状態での出来事。いまも頭にコイルが入っているらしい。もう、日常生活にも、音楽家としての生活にも支障はまったくない。酒を飲まなくなった。

「僕、ホントにからだが頑丈で。好きなだけお酒を飲んでたんですよ。だから、病気するまで夜ひとりでレコード聴く時間なんてなかった。病気のあと音楽の好みが変わったって言ってるんだけど、…というよりは、生活が変わったのかな(笑)。それまで“夜中にひとりで聴くためのレコード”なんて、聴くための時間がなかったんです」

生きる姿勢が変わると、聴くシチュエーションが変わる。自分の中で“アリ”なレコードがどんどん増えていく。

「最近よく奥さんと話してるんですけど、いまの日本の文化って、メディアで目立っているものだけかもしれないけど、若い人中心ですよね。でも違うよなって思うんです。歳とってからわかることとか、歳とってから楽しめることのほうが断然多いのに」

こと音楽に絞っても、少なくとも、若い日よりは小西康陽は楽しんでいる。

「思いもよらない人が、自分の昔作った曲を好きだって言ってくれることが、すごくうれしい。昔は“こんな音楽聴いてるヤツいないでしょ”って思いながら作ってたのに。バンドをやっててイヤなこともいっぱいあったけど、いいことは“ファンだった”って言ってくれる人に会えることですね。しかも僕のバンドは日本だけじゃなく、他の国でもレコード出してもらってたから、外国にもたまにそういう人がいて…」

許せるものが年々増えて、それだけ作りたいものが増えていくという幸せ。

「いま25歳とかで“楽しくない”って言ってる人がいるとするならば、それからのほうがもっと楽しみがありますよって言いたい…なんてね(笑)」

1959年札幌市生まれ。小学生時代を東京で、中高を札幌で過ごす。青山学院大学進学とともに上京。卒業後、25歳のときにピチカート・ファイヴとしてデビュー。01年の解散後も、映像作品のサウンドトラックや野本かりあなどのプロデュース、多数のリミックス、DJなどで活躍。現在は前園直樹グループの一員としても活動中。6月19日にはアナログ限定でデビューアルバムをリリース。また、11月よりオフ・ブロードウェイで上演予定の三谷幸喜演出・脚本、香取慎吾主演ミュージカルの作曲および音楽監督を担当。文筆家としても知られ、今回のディスクガイドのみならず『ぼくは散歩と雑学が好きだった。小西康陽のコラム1993-2008』(朝日新聞出版)など、軽妙なトイレ本も数冊。

■編集後記

こと“プレイヤー”ということに関して言うと、小西康陽、現在は前園直樹グループのいちメンバーで、ピアニストである。人間って面白いなと思った一環。だがかつては「その程度のピアノでピアニストを名乗るな!」と思っていたハードコアな側面も。中学から作曲家志望で、25歳のとき、ピチカート・ファイヴでデビューしてもなお、すぐに水谷麻里などの曲を作っていたわけだから。ボーカリストがいてバンドのメンバーという渋い立ち位置は、昔から一貫していると言えば一貫しているのだ。

武田篤典(steam)=文
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稲田 平=写真
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