「僕は音楽が一番好きだったんでしょうね」

坂本龍一

2009.07.02 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA サコカメラ=写真 photography SACO CAMERA
目を開き己の現状を見よ。夢も感動も、ふざけるな

幼稚園時代に初めて作曲をし、音楽は大好きで、東京藝術大学で音楽を学びながらも結婚。家計のために肉体労働をするけれどもクビになり、酒場でピアノを弾けば簡単に儲かった。でも、大切な音楽で安易に金を稼いだことがトラウマになる。大学院に通う傍らでスタジオミュージシャンやら他人のバックバンドやら…という“音楽フリーター”状態を続けてきて「ナントカしなきゃな」と思ったのが26歳。ソロアルバムと、細野晴臣からの誘いで参加したイエロー・マジック・オーケストラでのデビュー…自伝『音楽は自由にする』では、そんな日々のことが読める。

音楽の道で食っていくつもりはなかったらしい。というよりそもそも、「何かになるとかどこかに所属するということがよくわからなかった」と言う。

なんとなくそうなったのだ。

「25歳とか、もっと若い人に聞いてほしいところなんですけど、だいたい僕も含めて、あるジャンルで一人前になってる人たちのなかで、なりたくてなった人はほとんどいないんですよ。いまよくTVなんかで“夢を持って”とか“夢に向かって”とかいう言説がはびこってるでしょ。ふざけるなって言いたい(笑)。夢はあってもいいけどさ、人生ってそんなもんじゃないと思う」

自身のラジオ番組にゲスト出演した、あるヘアサロンの経営者の話をする。「なぜいまの仕事に就いたのか」という、番組お決まりの質問があった。

「そいつはね『女に触りたかった』んだって。で、それができる仕事を考えてヘアをやるようになったって。で、あるとき北野 武さんとさ、スタジオで一緒に撮影を待ってたら、武さんが言うんだ。『坂本っちゃんさあ、オレたち、いままでの人生のなかで8割ぐらいは女のことしか考えてないよね』って。まさにそのとおりでさ。『あと1割ぐらい仕事のことを考えてたら、もうちょっとましなことができたかもしれねえよな』って。だけどそこは調節できるもんじゃないから、“ああ、女性のことばっかり考えてるオレはダメだ!”って自省してもうまくはいかない(笑)」

夢を持つ、ということを否定しているわけではない。夢を持つ、ということが絶対であるかのように言いくるめようとする、いまのニッポン社会に対して憤っているのである。そしてチープな“感動”をウリにする風潮にも。

「なんていうのかなあ…つまらない三流のストーリーで人を泣かせようとするなと。それは音楽にも言えることです。僕、ニューヨークに住んでいて、1年間に数カ月しか日本にいないのに気になるんだから。日々僕たちはそういうのにさらされてるんですよ」

というかむしろ、そうしたツーリスト的な立場だから一層、いまのニッポンの“夢と感動原理主義”ぶりがはっきりと目に見えるようなのである。

そんな息苦しい社会に対しては「引きこもるかアウトローになるか、外国に出るか」が有効な手段だと考える。

「“空気を読め”みたいな暗黙のルールがある息苦しい社会だけど、若いサラリーマンには、一方で上司が飲みに誘っても帰っちゃうようなところがあるわけでしょ。そっちは息苦しくないじゃない。どっちがホントなのかなあ」

厳しいことからスッと身をかわし、夢とかにとらわれなくてもいいのだ。

でも教授、なんとなくなった音楽家にもかかわらず、そこについてはデビュー以来31年、つねに「新しいチャレンジを続けてきた」と言うのだ。

「僕の音楽に対する姿勢は、青いね」

なぜ音楽が仕事になったか。なぜ仕事にして平気なのか

「一番最初にソロアルバムを作ったときに、いろんな知り合いに聴かせたら、あるヤツに言われたよ。『坂本、これじゃモテねえよ』って(笑)。それを聞いて軽いショックを受けましたね。あ、モテたいために音楽作る人がいるんだって。僕のなかでは“モテる”とか、もっと言うと“金がほしい”ということと音楽が結びついていなかった」

その後、坂本龍一の音楽に“モテ思想”が導入されたかというと…。

「いや、してたらもうちょっと売れる気がする…あ、そうか、オレにはそれが足りないのかな。いいこと聞いたなあ(笑)。でもさ、聞かないとわかんないけど、武さんもモテたくて漫才やってたわけじゃないんじゃない。そこはもっと純粋なものだと思うよ。武さんの漫才とか映画、僕にとっての音楽…」

もちろん、生来の“自分が何かの仕事をする人になることへの意識の薄さ”はあったろう。でも一方で、“音楽の好きさ”も大きかったに違いない。純粋に好きなあまり、仕事にはなり得なかったのだ、きっと。そんなわけで…。

「つねに新しいチャレンジをしている。自分で面白いと思える音楽を作ることが、僕にとってのチャレンジ。一度やってしまったものは、すでに知っていて新鮮ではないわけ。いつも自分にとって楽しいことをやりたい。こうして長くやってればやってるほど知らないこととかやってないことは狭まってくるから、むずかしくなるよね。知ってることの再生産は簡単なんだけどさ、飽きてしまう。僕は自分が自分にとって飽きない存在でいたいんだよ」

悪戯っぽく笑って「…いいじゃない、これ(笑)」と付け加える。

ただ“音楽フリーター”から“アーティスト”になって即、いまみたいな意識になったわけではない。

「おこがましい話だけど、他のこともできると思ってたの。映画監督とか小説家とかもね。書いたり撮ったりしさえすれば、そっちの道でもいけるだろうと根拠なく思ってた。それが、YMOの2枚目の出た28歳ぐらいのときに、“いろんなものになれると思ってたけど、そんなに甘くないかも”って感じになったんです(笑)それで“音楽でいいかも”って思うようになった」

音楽チョー大好き、これが俺の道とか思ったわけではない。テンション的には“まあ、音楽かな”という程度。

「最初に言ったのと反対のこと言ってるかもしれないけど、情熱がないと続かないって。僕は音楽が一番好きだったんでしょうね。映画も小説も、結局やってないし。さっきの武さんの話とは正反対のことを村上 龍が言っていて、 “どんな好きな女性と温泉に行っても2日以上はいられない”って。でも“小説は温泉で1カ月ぐらい書いていられる”と。“結果的にはオレは小説の方が好きなんだと思う”と。それに僕もホントにアグリーするね」

それを“夢”として掲げてやってきても、もちろん構わない。

「でも」と、教授、ある話を思い出した。これで、インタビューはおしまい。

「風俗店でアルバイトした学生さんがいるんです。3年ぐらい働いて、お店に来るお客を観察してマメにメモした。どのタイプの人間がどんな女性を好むか。メモをとり続けて、パターンが見えたんだって。で、自分でお店を出して大成功した。風俗店に行ったのはたまたまだけど、そこで情熱を傾けられることに出合った。そのほうが、僕は夢があると思うんです。彼みたいな人間はたくましくて、どこでも生きていけそうじゃない…いやあ、これはまたいい話だねえ(笑)」

1952年、東京生まれ。3歳のとき初めてピアノに触れ、本格的に作曲を始めたのは10歳から。都立新宿高校をへて、東京藝術大学大学院修了。78年、ソロアーティストとしてデビュー。同じ年、細野晴臣、高橋幸宏らとYMOを結成。翌年リリースのセカンドアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』が大ヒット。ワールドツアーを敢行し、世界的名声を得る。83年“散開”。大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』(83年)には俳優として出演し、映画音楽も手がける。ベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストエンペラー』(87年)ではアカデミー賞作曲賞受賞。今年、5年ぶりのソロアルバム『out of noise』を発表した。8月9日に夢の島公園陸上競技場で開催される『WORLD HAPPINESS 2009』にYMOとしての出演が決定。

■編集後記

ゴハンを食べることの不安はなかった。貧乏はずいぶんしたけれど、いやいやでも酒場でピアノを弾けば一晩5000円ほどのギャラ。「ホントにお金に困ればやったなあ。でもなるべくガマンしようと思ってた。学生時代は吉祥寺に住んでたんだけど、吉祥寺駅北口の商店街のなかで一番安いラーメン屋を見つけて、それが1杯50円だったかな。たぶん1日120円ぐらいで暮らしてたね。あと、夜は『ぐわらん堂』の猫まんま食ってさ(笑)」。それは吉祥寺伝説のライブハウス。70年代の青春模様。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
サコカメラ=写真
photography SACO CAMERA

関連キーワード

注目記事ピックアップ

 

編集部ピックアップPR

ブレイクフォト