「30年来の夢のアルバム」

久石 譲

2009.09.17 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
ポップスのフィールドへ。クラシックへの回帰を

「20代のときには、いわゆる芸術家をやってたわけですよ(笑)。“音楽ってなんなんだ”って絶えず問い続けていて ― 。論理的な構成に基づいて音楽を作っていきたいという気持ちがずっとあった。今もそうなんです」

現代音楽は、西洋クラシック音楽の流れを汲むものだ。ベートーヴェンやモーツァルトなど、いわゆるクラシックの作曲家たちが、彼らの時代での新しいことを音楽で成し遂げようとしていたのと同様、現代音楽の作曲家たちも様々なやり方で、現代の作曲家としてなすべきことを追究していた。

久石 譲が実践していたのはミニマル・ミュージック。短いパターンをほんの少しずつ変化させながら反復することで曲を構成する。そのわずかな変化を劇的に感じさせる音楽である。

「そういう前衛的なところに身を置いていたから、曲を作ったときも、どんなコンセプトを作ったかが重要だった。つまり音楽より言葉で表現することの方が多くなるわけ。“こういう意図でナニナニで~時間軸に対するどうたら~”とかって(笑)。どんどん高じていくと、それは果たして本当に音楽をやっていることになるのだろうかと、疑問を持ち始めたんです」

音大でミニマルと出会い、20代は、作品づくりとその表現に費やした。

「あるとき、ふとポップスの世界に目を向けたら、イギリスではフィル・マンザネラとかブライアン・イーノが活躍しててね。こっちが現代音楽という枠に囚われて動けなくなってるのに、彼らはパターン的なものをポップスに取り入れて自由にやっていました」

イーノの『ミュージック・フォー・エアポーツ』(78年)は空港で流すことをコンセプトとしたアルバム。場内アナウンスを想定し、曲はどこで切れてもいいように作られ、人間の会話を邪魔しない周波数で構成されていた。

「すばらしい作品でしたね。そういうのを見ると、自分もこのままではダメだ、そろそろなんとかしなければと」

そしてポップスの音楽家に。82年にワンダーシティ・オーケストラ名義で『INFORMATION』をリリース。これが実質的なソロデビュー作。

「ポップスのフィールドっていうのは、そもそも論理的ではないから何をやってもいいんですね。売れたら正義、つまり観客がいて初めて正義になるわけだから、理屈だけでやってた世界とは決別したということでしたね」

『INFORMATION』をきっかけに宮崎 駿監督と出会い、84年には『風の谷のナウシカ』で、初めての映画音楽を手がけている。

「ナウシカも聴いてもらうとわかるんですが、ほとんどワンコード。映画のなかの音楽は、オープニングからテリー・ライリー(ミニマルの創始者)のようなオルガンだけ。あんまり器用じゃないということもありますが、実は自分のスタンスはあんまり変えてなかったんですけどね(笑)」

でもそこには大きな差があった。

「クラシックのフィールドに立つと、“作品”を書かなくてはならない。それ自体が音楽として成立するような作品を絶えず書き続ける必要があります。でもポップスに身を移してからは、作品を一切書かなくなりました。もちろん、折々にアプローチはしてきました。ポップスのフィールドにありながらギリギリ許せる範囲でミニマルに寄った曲を作ってきました。でもそれはクラシック的な意味あいでの“作品を作る”ことではなかった」

おおよそ27年が過ぎ、この夏、『ミニマリズム』が生まれた。その最も重要な背景は「自分のなかのクラシックを見つめ直すこと」。

「このごろ、よくクラシックの指揮をします。僕は大学時代、ほとんどいわゆる“クラシック”を勉強してこなかったんです。やりたい現代音楽に夢中だった。たとえばベートーヴェンの『運命』なんてのは、当然アナリーゼ(楽曲分析)の授業でやりましたけど、“ああ、クラシックね、はいはい”っていう意識しかなくて(笑)。でもいざ自分で振るとなるとまったく別なんですね。ひとつのシンフォニーを指揮するには、3カ月は譜読みをします。同じ曲なのに、大学時代とは違うものが見えます。 ある仕掛けが生み出す効果や、“なるほど”と思うことが非常に多くて。それで、僕は自分のなかのクラシックをもう一度見てみたいと思うようになったんです」

20代で煮詰まり、見えなかったものが50代も終わりにさしかかり、見えるようになるのではないか、と。

「だから今回は、今までの立ち位置ではなく、もう一度完全にクラシックに自分を戻して書いたんです。そういう意味では、これは僕の“作家宣言”といっていいでしょうね」

20代へのメッセージ、満面の笑みの意味

「基本的に感性は信用しない」という。新しい恋や、刺激的な体験によって内面から音楽がわき上がるのならば、逆にいうと、そういうものがない限り新しい音楽はつくれないことになる。

「感性に頼って曲をつくるところには、自分に対する課題がないんですよ。自分をどうやって高めていくかを考えていない。音楽っていうのは、96%まで技術です。やりたいものがあってもそれをかたちにするには徹底した技術力が必要です。それは日々の努力で確実に身につく。技術を背景に、頭のなかで分析して作る。ギリギリまで理論で押し通し、最後の最後、曲が曲として完成するときには、“1+1=2”にならない部分が出てくるんです。だから、芸術なんですよね。そのときに“これしかない”と思えるものに出会って曲は完成するわけです。最後に出てくる要素がなんなのかがわかったら、ものすごく楽なんですけど、これは一生わからない(笑)。追究していくしかないんですよね」

最近上梓された対談本『耳で考える』に、「若いうちから理論でがんじがらめになってのたうち回るくせをつけろ」という一文があった。ときに理論は、自分の理想と違う方向の音を強要することがあるらしい。そこで葛藤が生まれる。

20代へのメッセージをもらった。「20代ってとくに“自分が特別だ”“社会のシステムの中に自分を置きたくない”って絶えず考えてますよね。僕は今でも、曲を作るときには葛藤します。単純な意味での自由なんて、どこまでいってもないんですよ。だから、そのことを早い段階で自覚した方がいい。そのうえで会社を利用し、たくましく自分なりの人生を組み立てていく方がいいと思うんです」

ただそれには自分を強く信じる必要がある。そしてそのためには、乗り越えるべき壁のような存在に、早いうちに出会っておくこと。

「その壁へのアンチテーゼから、人は自分の生き方を探し始めるわけだから。本来なら、父親がたぶん人生の一番最初の壁だったはずなんだが…何せ今、親が弱くなっちゃったから。乗り越えるべき壁ではない。お友だち感覚でしょ。会社も同様ですよね。上司もみんなお友だち状態でね(笑)」

日本の若者は、社会に対する怒りがないという。フランスではすぐにデモが起こる。若者が騒ぐのだが…。

「目的が見つからないし、みんな頭がよくなって、先のことがわかってるのかな。大学を出るころに55歳まで見えちゃってるのかもしれない(笑)」

久石 譲は、30年越しの夢のアルバムを完成させた。若かりし日には思いもよらなかったことだ。そしてコンサートで満面の笑み。

「音楽をしているときは一番楽しい。ただオーケストラには、自分や各パートの動揺は瞬時に伝わります。100人いるから、アクシデントや間違いは起きる。でも曲はその時点で終わりじゃない。瞬間瞬間が過去になるんです。“心配しないでいいよ、まだ先があるぜ”ってカラダで表現して、最後まで行かなきゃなんない。それと観客の反応。僕にはホールのテンションを最高ものにする役割もある。その日はオケを初めて聴く人がどのぐらいの割合なのか、どうすればあまり固くならずに聴いてもらうことができるかを瞬時に判断しながらやっていくんですよ。すごく燃えていながらも、これ以上ないほどクール。舞台での2時間半のあいだ、起こることにはすべて責任をとるつもりで振っています」

最高のカタルシス。でも冷徹にオノレを見つめる目はあるのである。

1950年長野県生まれ。国立音楽大学在学中よりミニマル・ミュージックに興味を持つ。81年 『MKWAJU』を発表。82年には『INFORMATION』でソロアーティストとして活動。『Piano Stories』をはじめ、多数のソロアルバムをリリース。一方で84年の 『風の谷のナウシカ』 以降、宮崎 駿監督9作品の音楽を担当。北野 武監督の諸作やアカデミー賞外国語映画賞受賞作『おくりびと』など、多数の映画音楽を手がける。09年1月にはクラシックの指揮者デビュー。そしてこの8月、ルーツに立ち返った新作『ミニマリズム』をリリース。さらにアグレッシブな活動を展開する。

■編集後記

若者たちの未来への目線に「ロマンがない」とダメ出ししつつ、彼自身も決してバラ色の未来を夢見ていたわけではなかった。ただ、覚悟だけはあった。「音大生っていうのは教職を取るんですよ。僕はとらなかった。ウチの父親は高校の先生で、僕も実は教えるの得意です(笑)。でもそういうの(教員免許)をもってれば、ホントに食えなくなったらどこかで教えようってなっちゃうから、退路を断つ意味もあって取らなかった。思い込みはすごく激しかった」

武田篤典(steam)=文
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稲田 平=写真
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