「感性があれば、強く心に残る」

川淵三郎

2009.10.01 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
ドイツでのインパクト、社会人としての将来

川淵青年を含む日本代表一行がやってきたのは、ドイツ西部の工業都市・デュースブルグ。スポーツシューレという、複合的なスポーツ施設だった。

「信じられないぐらい充実してるんだよ。ドイツだって日本と同じように戦争に負けた国なのにね」

見事に整備された芝生のグラウンドが何面もあり、体育館、トレーニングルーム、食堂や宿泊施設まで完備。

「僕の記憶では、当時すでに車イスで乗れるバスがあった気がする。体育館では彼らが車イスでバレーみたいなスポーツをやっていた。すごく衝撃的だった。当時の日本では、障害者すらあまり見たことがなかったからね。障害を持つ人はほとんど出歩かないのが当たり前だったから。そんな時代に、ドイツではスポーツまでしてるんだよ。スポーツを楽しみたいと思うすべての人にきちんと応える社会がある。僕は、100年という単位が好きなんだけど(笑)…100年たっても日本はこんな国に追いつかないなって思った」

だからといって、日本にそんな施設をつくりたいとも思わなかった。このときは普通の学生だったし、翌年には古河電工に入って社会人になるのだから。単純に、スポーツが好きな人間としてうらやましかっただけの話。

当時の日本サッカー界では、オリンピックへの出場が最大の目標。川淵さんも選手として、来るべき64年の東京五輪を目指し、練習に励んでいた。

一方で、仕事もきちんと。横浜電線製造所の業務部に配属され、納期の進行状況を現場と話し合いつつ作業する「面白い仕事」についた。本来なら新入社員は、業務と経理を1年ずつ担当してから本格的な配属が決まることになっていたが、遠征で不在になりがちな彼を、工場は総務部厚生安全課に異動させた。大いに憤慨したという。

結局、東京五輪は準々決勝まで進出。大会終了後に日本代表から外れた川淵さんは伸銅事業部第二販売課へ異動。火曜と木曜の午後以外はフルに働いた。

「僕は自分のいる場所にすごく愛着を持つタイプ。後に体験する出向は不本意だったけど、行ったら行ったで愛情を持って自分を溶け込ませることができる。軽く片足を突っ込んでいずれ帰ろうって思うのではなく、新しい場所にどっぷり浸かる。そういうやり方できたんだよ」

生かすときをもたらした不思議な赤い糸

この文章では『「J」の履歴書』という川淵さんの著書を参照している。青春、現役時代を経て、Jリーグ発足、ワールドカップ開催、現在までをきわめて正直に語った本だ。所属部署などの記述が詳細なのはそのせいでもある。

少し時代を進めてみよう。

65年に日本サッカーリーグ(JSL)発足。川淵さんは70年に33歳で現役引退、72~75年まで古河電工の監督を務め、77年には日本リーグの運営委員に。68年メキシコ五輪の銅メダルをピークに日本サッカーは低迷していったという。80年には、4年後のロサンゼルス五輪を視野に入れ、日本代表強化部長に就任する。そして大幅な若返り策をとる。25歳だった前田秀樹をキャプテンに据え、彼より年長の選手をすべて切り捨てたのだ。

「東南アジアの国にさえなかなか勝てなかった時代なんだよ。メキシコ五輪以来、ずっと五輪のアジア予選を突破できなかったんだからね。強化するために国際経験は不可欠。それで当時、年1回ぐらいだった海外遠征に、あまり伸びしろのない30歳前後の選手を入れたくなかった。前田を筆頭に線を引くことで、金田喜稔や風間八宏、戸塚哲也、木村和司なんかの技術力が高くて若い選手を中心に代表が組めた。彼らを鍛えていく方が投資対効果が高いと判断したんだ。この思い切りは、僕だからできたんだろうと思う。今考えると25歳以上の人にはずいぶん失礼なんだけど、日本をアジアで勝たせるためには、5年ぐらいのレンジでものを考える必要があったんだよ。まあ、僕はつねに先のことを考えるのが大好きなんだけどね(笑)」

だがすぐに結果は出ず、84年に辞任。変わろうとしない協会に業を煮やし、48歳にして、日本サッカー界とは二度と関わらないことを決意するのだった。

折しもこの2年前、名古屋支店金属営業部長に就任していた。サッカー界から離れて一層業務に身が入り、入社したときの夢もリアルなものになりつつあった。が、51歳のとき、東京の関連会社への出向を命じられる。年齢的にもおそらく本社への復帰はない。

愛犬と住めるように見つけた北鎌倉の一軒家は傾き、カビだらけだった。

「すごい湿気。朝起きて布団をたたむと部屋が水色に見えるんだ。全部カビだよ。ネクタイにも生えていた。人生のどん底を味わったね。ゴロー…っていうのが犬の名前なんだけど、ゴローがいつも門のところから外を見下ろして、女房と2人で落ち込んでたね(笑)」

JSLの総務主事という仕事のオファーがあったのが同時期だった。リーグにプロとアマチュアのチームが混在していた時期で、プロリーグ発足に向けてのかじ取り役だった。

「出向を命じられたから、総務主事を受けたようなところはあるね。赤い糸で結ばれていたという感じの不思議なタイミングだった」

時代、社会背景など、あらゆることを鑑みると、あのタイミングを逃したら、Jリーグの成功はなかっただろう。

川淵さん自身も、イヤな仕事の穴埋めにサッカーを選んだわけではない。出向先でも「どっぷり浸かって仕事をしていた」うえでの選択だ。そして、サッカーのプロ化に関して強くイメージしたのは、28年前に体験した、ドイツ、デュースブルグのスポーツシューレ。

「日本に新しいプロスポーツを誕生させるには、プロ野球との差別化も必要だった。多くの人たちにその違いを明確に理解してもらう必要があったんだ。だからあらゆる場所で、スポーツシューレの話をした。新しいものを作るときに、漠然とした目標ではなく、はっきりした理想の姿を提示することができた。それを念頭にそれぞれのクラブが、十人十色で自分のクラブのありようを探していけばいいと思ったんだ」

93年の開幕に向けて全力でかじ取りをした。テレビの放映権、商品化権、ユニホームのデザインをリーグが掌握し、観客動員を実数で発表…。

「僕がかつて選手として感じた、ヨーロッパのクラブへの“うらやましいなあ”っていう気持ちがいろんな情報をインプットさせてくれたんだろうね。それが役に立ったのかもしれない。そのためにはやっぱり感性が必要だよ」

同じ物を見ても、価値を見いだせるかどうかは、そこにかかっている。

「車イスのバレーのことなんて覚えていないチームメイトもいたぐらいだから。何も感じなければ、何も残らないんだ。感性があれば強く心に残り、自分が力を発揮できるようになったとき、使うことができる。今いるのが、やりたいことができる場所じゃなかったとしたら、その場所をベストにする方法を考えればいい。係長のときは課長に、課長のときには部長に、コーチのときには監督になったらどうしようと思っていた。結構、上司を反面教師的に見ていたね。“俺ならこうはしない、違うやり方をする”ってことを考え続けることで次のステップにつながる。幸か不幸か反面教師は多いから(笑)。もちろん、いい教師もいるけどね」

川淵さんの“野望”は「日本中の小学校のグラウンドを芝生にすること」。

「そこに行けば誰でもどんなスポーツも楽しめるスポーツクラブ、コミュニティーの核となるような場所を日本中のあらゆる地域に。手っ取り早いのは小学校の校庭の芝生化だよね。Jリーグのスタート時にそういうことを言ってたんだけど、それが当たり前になるのが一番の夢だね」

23歳での、ドイツのインパクトは今も強烈に生きている。

1936年大阪府生まれ。元日本代表監督、Jリーグ初代チェアマン、日本サッカー協会前会長。現・日本サッカー協会名誉会長。三国丘高校から早稲田大学を経て、古河電工へ。日本代表として東京五輪に出場。アルゼンチン戦でゴールを挙げる。代表通算68試合、18得点を残し、70年に現役を引退。古河電工サッカー部コーチ、監督を経て、76年、日本サッカーリーグ常任運営委員に。80年にはロス五輪強化部長、その後日本代表監督に。88年、古河産業へ出向。同じ年、JSL総務主事に。日本サッカーのプロ化および発展に寄与し続ける。

■編集後記

23歳からずっと続く思いは、Jリーグ百年構想として、日本とスポーツの未来を見る。「今、子どもたちが外遊びをしなくなって、動物的な機能がどんどん落ちている。最初に体作りがなされていないと、集中して座っていることすらできないよ。全国で小中学校の校庭の芝生化が進んでいるけど、東京都では予算が組まれていて、僕も応援する立場にある。言い続けていると輪が広がっていくから。いい前例を作るのは大切だね」

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
稲田 平=写真
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