「ずっと異物だったんだ、僕は」

森本レオ

2009.11.19 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
リアルにとって大切なこと。志高き者たちの梁山泊

森本レオが本格的に俳優活動を始めたのは24歳、地元の名古屋で。日本大学藝術学部を卒業し、電通でコピーライターになるはずだったが、父上が病に倒れ、帰郷することになったのだ。地元にコピーの仕事はなく、ふと出会った旧知のNHKディレクターから紹介されたのがきっかけ。『高校生時代』という青春ドラマの不良役であった。

東京で4年間を過ごした彼の目には、名古屋の演劇事情は古臭く映った。「“リアル”というのが、一つの段取りパターンに見えたんです。『高校生時代』はディレクターも若くてその辺を理解してくれた。たとえば台本にあるセリフがあって、ト書きには“腹を抱えて笑い転げる”って書いてある。セリフは面白くも何ともない。“セリフ?笑い転げる方?どっちが大切?”って聞くと、後者だと。それでセリフを変える。出演者の内輪ネタとかね。面白けりゃいいじゃんって」

ほどなく、森本レオの住む長屋は、名古屋の一部の若い俳優や演出家たちの梁山泊みたいな場所になった。“パンジャ荘”という名前もついた。

「楽しかったなあ。“リアルってなんだ、その向こう側には何がある”“歌舞伎と新劇、新しいのはどっちか”なんて話した。そのうちピカソが言ってた“すべての芸術は音楽に憧れる”という言葉に出会うんです。それで“これからは音楽だ!”と。演じるのではなく、言葉とストーリーを演奏する演劇。上手い演技者ではなく、心に届くフレーズになりたい。時には不気味な音楽も不協和音もあっていいじゃん、って。スタニスラフスキーやブレヒトの、昔の演議論では絶対にたどり着けないミューズを探そうとしていましたね。演出やるヤツも3人いて、手持ちの役者を考え、使いたい音楽を話し合い、そこから内容を逆算したり。一種の工房みたいになってました。そこから何かが生まれてくるのが楽しかった」

『高校生時代』でのアドリブが買われ、翌年には深夜ラジオ『ミッドナイト東海』のパーソナリティに進出。ささやくような、独自のメリハリあるトークで、地元での絶大な人気を得た。

もともと演劇をやっていたわけではない。大学浪人時代、エキストラのバイトを始め、人数合わせに演劇の教習所に呼ばれただけ。ここで基礎を学んだが、同時に“異物感”を強く持った。

朗読のレッスンのときのことだ。彼の口調は朗読の基本を逸脱していた。

「本当は“音をすべて粒立てて”、アナウンサーのようにしゃべるんです。そこにいたのは、名古屋の高校の演劇部の部長クラスがほとんどで、部外者は僕と先輩のイイダくん。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』をみんなはきちっと読めたんです。僕だけは背中を丸めて“あるひー、おしゃかさまがはすいけのふちをおあるきになってるとー”(レオ調をご想像ください)。みんながひっくり返った。女の子たちは肘突っつき合ってひそひそ笑ってるし…」

映画は子どものころから大好きだったし、自分なりの演技に対するこだわりもあった。ジョン・ウェインがヒーローで「彼は絶対にアナウンサーみたいなしゃべり方はしない」と思った。みじめなので、辞めようとしたら、主宰するNHKの鈴木基治さんに慰留された。“君は、実はすごいことをやろうとしているのかもしれん、もう少しいなさい”と。あと、女生徒のミホさんには “ワタシ、森本くんの読み方、好き”、と。

後に分析すると、読み方のルーツは、エルヴィス・プレスリーと母上だった。

「エルヴィスはどこかケルトの哀しさがあって、入り方に8分の1ぐらいのズレがあるんです。それに音程、ミとシの音ぐらいが、6分の1音ほど微妙に下がって震えてるんですね。これ、母の子守歌と一緒だったんです。祈りに似たメロディーは、母の出身地の香川のものでした。その和風な音階を母が僕に伝えてくれて、プレスリーがゆらぎを教えてくれました」

東京。さらなる異物感。そして、つきぬける

結局28歳のとき、後輩DJ・つボイノリオの舌禍事件の責任を取る形でラジオを辞め、名古屋を去る。演劇界を改造しようと試みていた梁山泊も、実は地元の老舗劇団には白眼視されていた。異物は異物だったのだ。

東京で活動するも開花せず。そんなとき、“本格的な大人のドラマ”として大河ドラマ以上のステイタスだった『木下惠介劇場』に直接出演交渉の機会を得る。本来この枠には、俳優座・文学座・民藝という有力劇団の俳優しか出演できなかった

「プロデューサーの鈴木利正さんがいい人でね。その時すでにキャストは決まってたのに、『地の果てまで』という新作の話を熱心にしてくれたんです」

感激した森本は、我を忘れて、つい言ってしまった。「利さんの言う友情が、年寄りのナルシズムにならないといいですね」と。マネージャーは蒼白になったが、なんと大逆転で主人公の友人役に大抜擢。

「徹底的に演技指導してくれました。お茶を飲む腕の形、お辞儀の35度という角度…後で聞いたら、すでに決まってた民藝のプリンスと入れかえるという大リスクを冒して下さったそうなんです。で、利正さんも命がけだったんです。でも僕にはそれが上手くできなくて。ですから、ここでもすごい異物感でしたよ。誰も話しかけてこない…」

1カ月後、1話がオンエアされたころには、森本レオ、ボロボロ。

さて、ここからは独白。まるで、何かの朗読を聞いているかのような…。クライマックスである。

「終わったと思いました。リアルの向こう側も何もない。ひたすらな敗北感に覆われてましたね。そのときリハーサル室の向こうから、利さんが僕の名前を呼びました。ああ、めちゃくちゃ怒ってる。こっちに走ってきて、僕の両腕をつかんでグーッと押すんですよ。もうこれクビだ、って思いながら、壁にドーンとたたきつけられて。そしたら利さんが“レオくん、すまなかった!”って言うんです。“昨日の夜、オンエアを見た惠介先生から電話があって、真っ先にキミのことを言ってた”。何だろうと思ったら、“アレは近来のクリーンヒットだから一切いじるなって言われたんだ。本当に悪かった。これからは君の好きなようにやってくれ。惠介先生がそう言ってたんだ“アイツの動きたいように動かせろって”。木下プロの重鎮が僕ごときに土下座せんばかりに謝るんですよ。その時初めて異物感が一息つきました。僕がいじられてることをTVだけで見破る木下監督のすごさ、そう言われて子供のように真剣に謝る利さんの優しさ。いつも鈴木さんに救われる。名古屋にいたとき、僕は仲間たちと“自然体で、生ものでいようね”って言い合いました。ときにくじけそうになったんですけど、その感覚は、折ることなく生きてこられた…ときどきは折りますけどね(笑)、ほぼ折ることなく生きてこられたのは、そのときへの感謝があればこそ。あのときこそ、僕のつきぬけた瞬間だったんだなあと思っています」

1943年名古屋市生まれ。日本大学藝術学部卒業後の67年、ドラマ『高校生時代』でデビュー。翌年から東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』をスタート。パーソナリティとして人気を得る。71年、ラジオの終了にともない、上京。翌年、木下惠介劇場『地の果てまで』で開花。74年には永島慎二の漫画『若者たち』を、市川森一の脚本で『黄色い涙』としてテレビドラマ化。以降もTV、映画、ナレーションを問わず、様々なジャンルで活躍。11月21日に『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』が公開されるほか、来年1月には山田洋次監督作品『おとうと』が待機している。http://black-genkai.asmik-ace.co.jp/

■編集後記

名古屋を、あまりにも古くて権威主義的だと考えていた。「リアルな芝居がパターンでしかない現状だから、ぶっ壊そうと盛り上がって。でも、当時名古屋には劇団が3つか4つあったんですけど、彼ら一丸となって“森本とは付き合うな”というおふれを出したんですね(笑)。それで呼び出されてすごく怒られた。“オレ達の名古屋を壊したいのか!”って(笑)。ハイって言いたかったんですけど(笑)。あのときもう少し大人だったら、いまも名古屋にいる気がするなあ」

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
稲田 平=写真
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