「畳がすり減るまで素振り」「日本刀でスウィング」etc.

王貞治、「一本足打法」の誕生まで

2012.06.28 THU


1977年、鏡の前で1本足打法のフォームを確認する王。記録更新を目指し、本塁打を重ねていたころ。この年の9月に、通算本塁打の世界記録を更新する 画像提供/Sports Illustrated/Getty Images
7月1日は、王貞治がその代名詞である「一本足打法」を初めて試合で披露した日だといわれている。その伝説が始まるまでの紆余曲折を紹介しよう。

才能を評価されていた王は、高卒新人であるのにもかかわらず、1年目から試合出場のチャンスを与えられた。実際、キャンプ中に王の打撃を見た先輩選手たちは、王の才能に非凡なものを感じていたという。しかし、なかなかそれが大きな成果に結びつかない。1年目は94試合に出場。193打数31安打で打率.161、本塁打7という成績だった。この成績は、普通の高卒新人打者であれば十分な数字だろう。しかし、元甲子園のスター、打者としても大きな期待をかけられていた王にとっては、周囲も、そして本人も満足のいく成績ではなかった。ヒットが出ない打席が続くと、王はファンに「オー、オー、三振王!」(王貞治・中央公論社『野球にときめいて』より)とヤジられたという。

2年目は130試合に出場して打率こそ.270をマークしたが本塁打は17。3年目は127試合出場で打率.253、本塁打13。決して悪い数字ではないが、才能の開花に期待して起用を続けた首脳陣、そしてファンにとっては物足りない内容だった。

そして運命の4年目。当時、巨人の監督に就任して2年目の川上哲治が、打撃コーチに荒川博を招聘する。荒川には野球ファンの間では伝説となっている打撃技術の持ち主・榎本喜八(元毎日ほか)を育てた実績があった。川上は荒川に王の才能の開花を託したのである。

荒川は、結果が出ない憂さ晴らしか、夜遊びも好きだった王に意識改革を求め、マンツーマンに近い状態で熱心な指導を始めた。王の打撃フォームを「無駄が多く、バラバラ」と一刀両断。筋肉の動きを見極めるという目的でパンツ1枚でのスイングを指示したり、歌舞伎役者からは「間」、合気道の達人からは「気」の重要性を学ばせるなど、多方面から王を指導していった。そのなかのひとつに、後に王の代名詞となる「一本足打法」があった。特訓の成果もむなしく結果が出ず、特に内角球のさばきに課題にあった王に、ある日の試合前、荒川が足を上げて打つことを勧めたのである。ぶっつけ本番で臨んだその試合、王は本塁打を含む5打数3安打。1962年7月1日の対大洋戦ダブルヘッダー第1試合、「一本足打法」の伝説が始まった。

この日を境に王の打棒は爆発する。最初は注目していなかったマスコミも「王が変な打ち方で本塁打を量産するようになった」と騒ぎ始める。この年、王は38本塁打をマークし、本塁打王に輝いた。

だが、そもそも半分ダメもとで始めた一本足打法である。荒川も王も、まさにこれから本番、本当の特訓が必要と、二人三脚での練習をやめなかった。「素振りをした部屋の畳がすり減った」「集中力を養う日本刀を使ったスイング」といった伝説の練習は、これ以降のものである。

こうして王貞治は、甲子園の元スターから球界の大スターへの道へ歩み始める。たゆまぬ努力で生まれた本塁打は、15年後、通算本塁打の世界記録更新へと到達する。「一本足打法」と王貞治の伝説。それは一本足打法を生み出したことよりも、結果が出た後、慢心せずつかんだ感覚を手放さないよう努力をやめず、いや、いっそうの努力をしたことにつきることこそが真髄である。
(長谷川一秀)

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