川崎も、ダルビッシュも…ルーキーイヤーは大変だった!

デビューは散々だった野球選手列伝

2015.04.09 THU


たとえ甲子園を沸かせたスターといえど、プロの世界で成功するのは至難の業… 画像提供:ま~ぼう/Imasia(イメージア)
今年も新人たちが様々な業界で、社会人としての第一歩を踏み出した。即戦力として活躍しよう!と肩に力の入った新人も多いだろう。だが、現実は厳しく、最初から活躍できる人ばかりではない。初仕事で大失敗してしまい、心が折れそうになる人もいるだろう。

だが、失敗が許されるのは新人の特権。たとえばプロ野球界でも、散々なデビューの後、その失敗をバネに這い上がってスター選手に上り詰めた例も多い。そんな「逆境デビューを乗り越えた男たち」を4人ご紹介しよう。

●1)「天文学的防御率」と揶揄されたルーキー
今シーズン、1991年以来、24年ぶりの優勝を目指す広島東洋カープ。そんな1991年に最優秀救援投手に輝き、優勝に貢献したのが大野豊だ。伝説の左腕もプロ初登板はアウトひとつしか取れず、5安打2四球5失点の大乱調。翌日の新聞が「天文学的数字」と報じる135.00という防御率を叩き出してしまう。

コーチが「間違っても自殺はするなよ」と心配するほど屈辱的なデビューをした大野の転機となったのは、翌年、大投手・江夏豊が広島に移籍してきたこと。同じ左腕、同じ名前、共に母子家庭という境遇から江夏の指導を受けることになり、キャッチボールのフォームから徹底して見直した結果、球団史に残る左腕へと成長を遂げたのだ。

●2)1億円の期待に応えられなかったルーキー
昨季のパ・リーグ首位打者、オリックス・バファローズの糸井嘉男も散々なルーキー時代を過ごしている。近畿大のエースだった糸井は契約金1億円という大きな期待を背負い、投手として2003年ドラフトで北海道日本ハムファイターズに入団。当然、即戦力として期待されたが、一軍で投げるどころか二軍でも4勝5敗1セーブとパッとせず。ある試合では1イニングだけで4本の本塁打を打たれ、1試合10失点という滅多打ちを経験した。

結局、2年目も芽が出なかった糸井が打者に転向したのはプロ3年目の春。「1年後に一軍入りできなければクビ」と宣告された糸井は、毎日1000スイングの素振りを重ねる。すると天性の身体能力も手伝って、翌年、見事に開幕一軍入り。打者転向4年目の2009年にはリーグのベストナインに選出されている。

●3)母のビンタで目が覚めたルーキー
今年もメジャー挑戦を続ける川崎宗則。言葉の壁を超越する明るいキャラクターが売りの川崎をして、新人時代は「地獄のような毎日」だったと言わしめるほど、鳴かず飛ばずの日々。高卒新人として福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)に入団したもののプロの練習についていけず、ホームシックにもなって実家に「もう辞める」と電話で弱音を吐いてしまう。

そのメッセージを聞いて鹿児島の実家から駆けつけたのが母・絹代さん。「死にたい」とまで弱気になっていた息子にビンタ3発浴びせて目を覚まさせた。結局この年、一軍入りは果たせなかったものの、二軍で地力をつけた川崎。翌年には一軍デビューを飾り、球界を代表するショートになるまでそれほど時間はかからなかった。

●4)パチンコ&喫煙で謹慎処分を受けたルーキー

10年に一人の逸材、と騒がれて北海道日本ハムファイターズに入団したダルビッシュ有。その前評判通り、松坂大輔以来となる高卒新人投手の「プロ初登板初先発勝利」を達成した……これだけ聞くと順風満帆なデビューに感じるが、ダルビッシュの場合はその舞台に立つまでが大変だった。自主トレ中に右ヒザを痛めてキャンプは二軍スタート。さらに未成年にもかかわらずパチンコ店での喫煙が発覚して球団からは謹慎処分、高校からは停学処分を受け、卒業式にも出られなかった。

だが、この謹慎期間中にプロとしての体力作りに努めたからこそ、デビュー戦の結果につながった。後にメジャー挑戦する際、「初登板で温かく迎えてもらえたのがその後の頑張りにつながりました。皆さんがいなければ僕はここにいなかった」とファンや関係者へ感謝の言葉を述べている。

失敗しても挽回できるのが若さの特権。すぐに結果は出なくとも、地道な努力を積み重ねることこそ“成功への近道”ということだろう。
(オグマナオト)

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