東日本大震災、被災地のR25世代/第4回

「放射能から逃げても人生からは逃げない」仙台・鈴木宏平

2011.09.06 TUE


仙台・岡田地区で200年以上続いてきた農家・鈴木家。津波で母屋の中はすべて流されたが、基礎は残った。必ず建て直してみせると意気込む鈴木さん。写真左は母
3.11で人生を大きく揺さぶられたのは、甚大な被害を受けた地域に住んでいる人だけではない。仙台・岡田地区に数百年続く農家の四男として生まれ、東京でデザイナーとして活動していた鈴木宏平さん(27)はその一人だ。東京と実家を行き来しながら、米の品質向上からパッケージ、さらには流通までをデザインする「鈴木米」プロジェクトを立ち上げ、東京デザイナーズウィークにも出展。販路の広がりや消費者の声に手応えを感じ、実家に拠点を移して本格始動する準備を進めていたのだが…。

「大きな構想としては、農業をやって、有機米に変えていって、ゆくゆくは物販や飲食店をやりたかったんです。仙台と東京は近いから、デザインの仕事も問題なく続けられるという感触もありました。実家の一部を事務所に改装し、上の子の小学校入学合わせて3月中に家族で仙台へ戻ろうと考えていたんです」

そんな矢先に震災が発生。実家の被害は想像を超えていた。

「津波で、田も畑もヘドロだらけ。ショックでがく然としました。でも、ここであきらめたら負けだと思った。塩害で5年間耕作できないといわれても、逆に考えれば5年経ったら作り直せるはず。時間はかかるかもしれないけれど絶対復活させてやるぜ! と早い段階から意識を切り替えました」

しかし、予想外の事態に彼の計画は大きく狂う。原発事故による放射能の問題だ。鈴木さんは妻と何度も話し合いを重ね、たまたまTwitterでシェアを募集していた岡山の一軒家へ家族で移り住むことを決めた。

「米作り復活の思いが強かっただけに、岡山への移住は本当に悩みました。東京からさらに西に行くのは実家を捨てることじゃないのかと自問自答したり、妻と何度も口論したり。それでも最終的に決めたのは、やはり二人の子どもを一番に考えたからです」

仙台に戻る計画をストップし、とりあえず東京に留まる選択肢もあった。だが、近所の公園から高濃度に汚染された土が検出され、どうしても安全だとは思えなかった。

「子どもに『外に出て遊んでこい』とは言えないし、かといって家の中に引き籠もるような子どもであってほしくない。そういうピリピリした状態を続けていくこと自体、子どもにはよくないなと」

妻からの一言も大きかった。

「『仮に20年後、何の健康被害もなかったとしたら、その時は笑って子どもに謝ろう』と言われたんです。でも、このまま東京に留まって、自分の子どもがもし甲状腺がんになってしまったら? 『なんでその時逃げなかったの』と子どもたちに言われてしまったら? 本当に返す言葉がないと思いました」

ただ、孫と一緒に暮らせるのを楽しみにしていた両親に伝えるのは心が痛んだという鈴木さん。「できれば言いたくなかったですね。夜逃げのように行くわけにもいかないので言いましたけど…」

もう二度と仙台に戻ってこないわけではない。安全が保障されるなら、すぐにでも戻って理想の農業に挑戦したい。その気持ちはいまも変わらない。

「ずっと仙台で暮らそうと思っていたし、岡山に行ってもその気持ちはまったく変わらないのに、『仙台から逃げていくお前が仙台のことを語るなよ』って言われることもあって…すごく悲しいですね。だけど、最近はそれも乗り越えられたというか、どこに行っても自分の考え方次第だなって。行くと決めたなら、前を向こうと決めました」

人口1500人ほどの小さな村で始まる新たな生活。移住によって、デザインの仕事は減少するのではないか。そんな不安はないというのは嘘になるが、意気込みが勝る。

「西日本には縁がなかったので、向こうの企業の方とお会いするのが楽しみですし、お手伝いできる仕事があればやっていきたい。それに、引っ越し先の周りにも畑があって、手が足りなくて困っているような田んぼもあるようなので、デザインの仕事を続けながら農業の修業を積もうと思うんです。仙台に帰ってくるその日のために」

迷いを振り切るようにして、鈴木さんは言葉を続ける。

「放射能からは逃げます。でも、人生から逃げるわけじゃない。自分で選んだ道なので、胸を張って行ってきます」

(菊地正宏/仙台経済新聞)

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