東日本大震災、被災地のR25世代/12回

「自然って怖いけど、悲しいほど美しい」多賀城・矢口雪子

2011.11.01 TUE


津波と火災に見舞われた母校・門脇小学校を案内する矢口さん。写真左は、慰問に訪れた紙芝居作家のやべみつのりさん
矢口雪子さん(35)は、多賀城市の社会福祉課で生活保護のケースワーカーを担当している。社会人経験枠で2010年4月に採用され、2年目を迎える直前で東日本大震災が発生。職員の多くが担当の避難所運営へ向かうなか、矢口さんは混乱する庁舎での対応に追われた。

「最初の1週間ぐらいは避難所の役割も兼ねているような状態で、入り口にも廊下にも待合室にも市民のみなさんが寝泊まりされていました。その横では自衛隊や警察の方も次々と出入りしていて、異様な空間でした」

石巻で被災した両親と祖母のことが気がかりで、業務に集中できる精神状態ではなかった。それでも、いまにも飛んでいきたい思いを抑え、避難者への食事を用意したり、次々と運び込まれる支援物資の振り分けをしたり。庁舎内で寝泊まりしながら、その場その場で求められる仕事をこなした。

ようやく半日の休みが取れたのは、震災発生から3日後。すぐに仙台で暮らす従兄とともに石巻へ向かった。行き慣れたはずの道は凄惨で、車が半分水に浸からないと進めない場所もあった。進むのも命がけ、しかも情報は錯綜していた。

「親戚から、両親と祖母が石巻中学校に避難しているという連絡をもらっていました。でも、あちこち通行止めになっているし、その避難所の方面が炎上しているという話を地元の人に聞いて、ほかの場所を当たり始めたんです」

4カ所を回っても見つからず焦りが募るなか、最終的に向かった石巻中学校でようやく見つけることができた。「あとから冷静になって考えると、最初からここに来ればよかったんだなと思いました。私たちも混乱していたんでしょうね」と矢口さんは苦笑する。

家族が石巻市で被災。実家は津波と火災で跡形もなくなってしまった。勤め先の多賀城市も大きな被害を受け、職場では炊き出しや支援物資の整理・配布・広報などの業務に追われる日々。たまの休みは石巻に帰って物資を届けたり、介護が必要な祖母の面倒を見たりと、慌ただしい毎日が続いた。ようやく落ち着いてきたと思ったのは、先の予定を手帳に書き込めた時だったという。

「でも、当たり前に予定が組めるようになると、今度はその幸せにだんだん慣れてくるんです。私自身も普段の生活の中で震災を意識する気持ちが薄れていっているように思うし、特に身近で亡くなった人や大きな被害がなかった人は、いち早く日常に戻っていきますよね。しょうがないことですけど、悲しく思うこともあります」

さらに悲しいのは、地元の共同体が失われてしまったことだ。

「実家があった地域の町内会では70人ほどが亡くなったと聞きました。その地域はいずれ公園化され、町内会は解散してしまうかもしれないそうです。県外に出ていた幼なじみたちとも、門脇町の実家に帰ってくれば会えたのに、みんな離ればなれになってしまう。会わなくても同じ地元だというつながりの感覚が、次第になくなっていくのかな…」

4月。何もなくなった町で、桜をバックに家族と記念写真を撮った。

「ガレキの中に桜が咲いていたんです。自然って強いし怖いけど、悲しいほど美しいと思いました。建物がなくなって、これほど海に近い場所で暮らしていたんだって、あらためて気づかされました。やっぱり人は、自然と共存しながら生きてきたんですね」

現在、矢口さんは宮城野区のまちづくり事業で震災の記録を後世に残す活動に参加。東北のまちづくりの団体にも加わり、地元のために何か活動ができればと考えている。

「でも…幼いころに過ごした町がなくなっているのを見ると、そのたび呆然としちゃって。餅つきや運動会や廃品回収、近所の子たちと遊んだこと、いろんな思い出がよみがえってきて、それでいっぱいになっちゃう。何かできたらいいのになってずっと思いながらも、時だけが流れているような感じなんです。それでも、できることから一歩ずつ進んでいくしかないですね」

(菊地正宏/仙台経済新聞)

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