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「移民の国」ドイツ、住民8人に1人は外国生まれ

2016.10.05 WED

「EU(欧州連合)は今、非常に脆弱な状態にあります」。今年4月にそう語ったのは、ドイツの欧州担当国務大臣ミヒャエル・ロートだ。難民が急増するなか、ドイツは率先して寛大な受け入れ策をとったが、ほかの国々が後に続くことはなく、EUの結束は大きく揺らいだ。

 英国がEU離脱を選び、ほかの国々でも移民に対する排斥感情が高まるなかで、ドイツの選択はますます重みをもつ。ドイツ人は過去の歴史を乗り越えて、難民を温かく迎えられるだろうか。

「暮らしに不満はありません。良くしてもらっています」。2年前にシリアを脱出した16人家族の家長、88歳のアベド・ムハンマド・アル・ハデルはそう言いつつ、それでも祖国に帰りたいと打ち明ける。一家は2016年2月にベルリンに着き、1500人の難民とともに体育館に収容された。
「暮らしに不満はありません。良くしてもらっています」。2年前にシリアを脱出した16人家族の家長、88歳のアベド・ムハンマド・アル・ハデルはそう言いつつ、それでも祖国に帰りたいと打ち明ける。一家は2016年2月にベルリンに着き、1500人の難民とともに体育館に収容された。
(ROBIN HAMMOND/National Geographic)

ドイツの住民の8人に1人は外国生まれ


 戦後、ドイツはおよそ5000万人の移民を受け入れてきた。今ではドイツの住民の8人に1人は外国生まれだ。それでも2015年6月1日、メルケル首相がドイツは移民の国であると公の場で発言すると、有力紙フランクフルター・アルゲマイネは「歴史的」な声明だと報じた。メルケル率いる与党・キリスト教民主同盟(CDU)は何十年もこの表現を避けてきたからだ。

 初期の移民は、外国にいたドイツ系の人々だった。その数およそ1200万人。戦後、東欧を追われた彼らは、焦土と化した父祖の地に戻った。ドイツ系であっても、新参者は戦後の貧しいドイツでしばしば冷遇された。CDUの連邦議員エーリカ・シュタインバッハは母親と幼い妹とともに現在のポーランドから逃れ、ドイツ北部の農場にたどり着いた。「母が妹に与える牛乳を分けてほしいと頼むと、『おまえらはゴキブリより始末が悪い』と言われました。人の温かさに触れた記憶はあまりありません」

トルコから流入した労働者たち


 トルコ人はさらに冷たくあしらわれた。1950~60年代に旧西ドイツの経済は急成長し、労働力が必要になった。当初はイタリア、次いでギリシャとスペインから労働者を呼び寄せたが、トルコからの流入はそれを上回った。たいていは男性が単身で来て、簡易宿舎や寮に寝泊まりし、工場や建設現場で働いた。彼らはガストアルバイター(出稼ぎ労働者)と呼ばれ、1、2年で入れ替わると考えられていた。

 しかし、現実は違った。雇用側は仕事を覚えた労働者を手放したがらなかったし、労働者は家族を呼び寄せたがった。出稼ぎ労働者の誘致策は石油危機で景気が後退した1973年に打ち切られたが、今でもドイツには300万人近いトルコ系住民がいる。ドイツ国籍を取得しているのは半数にすぎない。緑の党の共同党首ジェム・オズデミルなど、ドイツ社会で活躍する人もいるが、一般のトルコ系住民の話を聞いて強く感じるのは、彼らがドイツに愛憎相半ばする感情を抱いていることだ。

 トルコ系住民が多いベルリンのクロイツベルク地区のソーシャルワーカー、アイシェ・クーセ・キュチュクに話を聞いた。彼女は11歳でベルリンに移住し、以来36年間暮らしてきたが、今でもよそ者扱いされるという。子どもたちもそうだ。「トルコ人だと言って育てたわけではなかったのに、4年生になる頃には自分たちはトルコ人だと言いだしました。仲間外れにされたからです。心が痛みました」。それでも彼女にとって、クロイツベルク地区はいとしいふるさとだ。

「労働者としては社会に受け入れられましたが、地域の一員とは見なされていません」と、44歳のアフメト・スーゼンは言う。彼はベルリン生まれだが、父親が属していない社会に完全に溶け込むことはできないと話す。一方、ベブラでは、住民はみな互いに顔見知りだ。トルコ系住民が毎年、町の広場で伝統的な祭りを催すなど、地域にうまく溶け込んでいるとエブレンは話す。それでも、父祖の地への思いは断ち難い。エブレンはドイツ人の友人も多いが、死んだらトルコに埋葬されたいと言う。

(ナショナル ジオグラフィック2016年10月号特集「欧州の新しい顔」より)

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