特別インタビュー 階段を一歩上るとき

米村でんじろう「流れに逆らわず」

2012.06.10 SUN


三浪の末の大学合格、29歳で高校教諭、そして40歳でサイエンスプロデューサーとして独立。常に遅咲き人生を歩んできた米村でんじろうさんだが、今や科学の楽しさを伝える伝道師として大人気、確固たる地位を築いている。そんな、“でんじろう先生”の仕事哲学とは?

少年時代を過ごした昭和30年代、僕が生まれ育った千葉県・市原市は、何もない山奥の町でした。今では道路が舗装され、ゴルフ場も増えましたけど、当時は未舗装の道路ばかりで、自宅は藁ぶき屋根。まだまだ戦前の農村、山村のような雰囲気でした。でも、子どもの遊び場になるような小川や、森林が周りにたくさんあって、そんな環境の中で、魚とりをしたり、虫とりをしたり、秋には山菜とりをしたり。明かりが少ないから夜空もすごくきれいでしたね。手先は割と器用なほうでしたから、遊び道具も自分で作りました。最初は木の枝にゴムを張ったパチンコ程度だったのが、次第にエスカレートして、ついには火縄銃になったり(笑)。

そうやって自然に親しむ中で、星や植物、生き物など、自然科学にどんどん興味がわいていった。それらについて教えてくれるのが、学校の理科の授業とNHKの実験番組でした。小学校の理科の時間は、簡単な工作や実験が大好きで、本当に楽しくてワクワクしていましたよ。成績は、理科だけは5段階評価で5とか4なのですが、ほかの教科は3か2ばかりだったなあ(笑)。学校の勉強が嫌いになってきたのは、中学2年生くらいでしょうか。理科の時間も実験が少なくなって、高校受験対策の授業が多くなっていきました。テストでいい点をとることにまったく興味がわかなくて、やりたくない。僕は素朴な子どもでしたから、面白いと思えば一生懸命やるけど、そうじゃないものはやらない。宿題もほとんどほったらかしで、やっていかない。よく居残りさせられました。

僕が15歳の頃に大阪万博が開催されました。宇宙旅行が実現するとか、ロボットと生活するようになるとか、当時は科学に対して「明るい未来をつくる」ものというプラスのイメージがかなり強かった。僕自身も科学は人類の夢を広げてくれる素晴らしいものと考えていましたし、将来は科学者や技術者になれたらいいなあと、漠然とした憧れを抱いていました。

そんな中、普通科の高校に進学。当時の日本は高度経済成長の波に乗り、大学進学率が急上昇していました。普通科の高校に行ったら「やっぱり大学には行きたい」と思うし、両親からも「国立なら」と言われて。理科が好きで理工系志望でしたけど、一期校の旧帝大系はまったく太刀打ちできず・・・。結果三浪することになって、最終的には二期校だった東京学芸大学の理科教育科へ。教師になるなんてこれっぽっちも思っていないのに、入れそうだからと思って受けて、何とか潜り込んだんです(笑)。

三浪していた3年間はめちゃくちゃつらかった。ほとんど引きこもり状態で、屈折しまくりの世捨て人みたいになっていました。毎日、毎日、「俺はこれからどうなっちゃうんだろう」って。だから、三浪後に大学に合格した時は、それまでのプレッシャーから解き放たれて、すごく楽になりました。

大学2年までの教養課程は何とかついていけました。ところが、僕が専攻していた物理学は、3年以降は相対性理論や量子学など複雑で専門的に。得意だったはずの物理が全然分からなくて、どんどん落ちこぼれていきました。当時はそのことでコンプレックスの塊でしたね。それである時、「こんなものは特別に頭のいい人か、教授になる人がやるもんだ。自分は彼らとは人種が違うから無理」、そう諦めたんです。するととても気が楽になったんですが、まったく努力しなくなって、単位をボロボロ落としました(笑)。でも、卒業はしたいので研究室に何とか入れてもらって、そこで、80年代初頭にやっと研究機関に入り始めたパソコンにはまるんです。

お金もないし、彼女もいない。時間だけはあるから、毎日毎日、夏休みもずっと、朝から晩までコツコツと研究室のパソコンをいじっていました。そうすると当然研究室の誰よりも使えるようになって、物理現象のシミュレーションをするプログラムを作ったりするように。次第に先生たちからも「これをプログラミングしてほしい」と頼まれるようになって、そこでようやく、「自分もまんざらでもない、やればできるんだ」と思えました。落ちこぼれだった自分が自信を取り戻せたという意味で、パソコンとの出会いは大きかったですね。

その後、大学院へ進学しました。動機の半分以上が社会に出るのが嫌だというモラトリアムでしたね。もうちょっと勉強したいという気持ちも多少はありましたが・・・(笑)。そして2年かけて大学院を修了した後は、研究者を目指してドクターコースのある大学院を受けては落ち、受けては落ちで、すぐに3年の歳月が流れました。

結局、僕は29歳になって、三浪していた時のように「これからどうなっちゃうんだろう」という強迫観念に苛まれました。一般の会社に就職するには年をとりすぎているし、研究者の道はまったく見えてこない。そんな中で、「科学の楽しさを生徒に伝える理科の先生になるのも悪くないんじゃないか」と思い直すようになったんです。それで教員採用試験を受けて、都立高校の物理の新人教師に。29歳でやっと社会人です(笑)。

配属されたのは、東京郊外の少し荒れている高校でした。無断の遅刻や早退は当たり前といったタイプの生徒が割合と多くいるわけです。僕は新人教師とはいえ29歳でしたが、見た目が若かったので、生徒たちになめられて、授業なんてとても聞いてもらえる状態ではありませんでした。

そこでどうやって授業に興味を持ってもらうか考え、とりあえず面白いことをやって生徒の興味を引くことにしました。みんなに手をつながせて静電気で軽く感電させてみたり、自然観察で外に連れ出して、野山の草花や椎の実をビーカーで茹でて食べさせてみたり。物理も自然科学ですからね。まずは身近な自然に興味を持ってもらいたいという気持ちで、とにかく思いつくことからやってみました。最初は全然話を聞いていなかった生徒が感電して面白がったり、摘んできた野草が食べられるのか真剣に調べたり、考えた授業に対して反応があると、やっぱりやりがいがありました。

その高校で8年、その後、別の進学校に異動して3年。最初は一生懸命教師を続けてきたわけですが、学校の先生は部活や修学旅行、生活指導など教科を教える以外の仕事も多くて、次第に違和感を覚え始めました。11年もやっていると、自分はいい教師にはなれないということが分かって、行き詰まりを感じたんです。そもそも自分も勉強が好きなわけではなかったですしね(笑)。

実は、最初の高校に勤め始めた頃から、学外の授業研究会に所属していました。その縁でNHKの実験番組の助手をしたり、アドバイザーとして企画に協力させてもらったり、科学館の手伝いをしたりしていたんです。そうやって外の世界も見えていたので、「教師以外で科学にかかわる仕事ができないものか」という転職願望がどんどん膨らんでいきました。40歳の節目を迎えるにあたって、これから50歳、60歳まで、本当に教師を続けられるのかと考えたら、適正的にも能力的にも無理だと思い、39歳の終業式の直後に、思い切って校長先生に「辞めます」と伝えたんです。そしたら、「いいんじゃないですか。東京都は今、教師が余っていますから。辞めてくれたら万々歳です」くらいの調子で言われちゃって。僕にとっては一大決心でしたが、引き留められもせず、とてもあっさりと辞められました(笑)。それで1996年、公務員という安定した地位を捨てて、40歳でフリーランスに。食べていける見通しなんて、まったくありませんでした。

「辞めたい」「○△がしたい」と頭で考えていた頃は何も変わりませんでしたが、実際に教師を辞めたら自分の周囲が動き出して、色々な人や仕事との出会いがありました。

「ユニークな授業をする教師がいる」と、あるドキュメンタリー番組が僕のことを取り上げてくれて、それがびっくりするくらい話題になって、いろんな問い合わせが殺到したんです。それで、結果的にテレビ番組に出演したり、サイエンスショーの舞台に立ったり、講演を行ったり、人前に出ることが多くなりました。

僕の肩書きは「サイエンスプロデューサー」というんですけど、これは、人前に出るよりも、子ども向けの科学教育本の企画や番組制作の協力、科学館のリニューアルや演出など、裏方の役割がしたいという思いでつけた造語なんです。

正直言って人前に出て何かを演じることは今でも向いていないと思っています。ただ、フリーランスは仕事を断るのがすごく怖いんですよ。来月も仕事があるかどうか、まったくわかりませんから。やりたいこととは違う方向性の仕事の話が来ても、断らずにやってみたらそれがまた次の仕事、次の仕事につながっていった。流れに逆らわず、素直に身を任せ続けてきました。住宅展示場や競馬場での野外実験など想定外の仕事も多かったけれど、なんでもやってみたら肥やしになるんです。

人生の道は1本だけではない。それは今になってつくづく実感しています。踏み出したから道が開けて今の自分につながったけど、きっと独立を思いとどまっても別の道があったんでしょう。

思い悩んでいる時は、いろいろシミュレーションするんですが、実際にはその通りにはならないものです。これは僕の経験値でしかないですが、人生の方向性をあまり一途に決め付けないほうがいいんじゃないかな。もしも僕が信念の強すぎる人間だったら、独立後にいろんな仕事を断ってしまって、今の自分にはなれなかった。

ただ、強い信念を持ってやってきたわけではないけど、子ども時代の自然科学への興味、教師時代に生徒に興味を持たせようといろいろ試したこと、実験番組作りの企画など、科学の実験をエンターテイメント化するという分野では人には負けないという自信はありました。だから、この分野で続けて来られたんです。

独立して14年、何も予定していなかったけど、振り返ってみると、自分の強みを活かしてきたことで科学を純粋に楽しんでくれる人が増えて、世の中に新しいニーズを作りだすことはできたんじゃないかなと思っています。

※この記事は2009年10月29日にリクルートエージェント内に掲載されたものです

※この記事は2011年03月に取材・掲載した記事です

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