特別インタビュー 階段を一歩上るとき

前園真聖「原点に戻り向き合う」

2012.06.10 SUN


アトランタ五輪日本代表のキャプテンとして28年ぶりのオリンピック出場に貢献、強豪ブラジルに奇跡の勝利を挙げるなど、20代前半から世界を舞台に活躍してきた前園真聖さん。その後、ブラジル、日本、韓国とプロサッカーリーグを渡り歩き、現在もサッカー解説、少年サッカー指導、ビーチサッカーと、前園さんらしいチャレンジを続けている。前園さんがサッカー人生の中で獲得してきた行動哲学とは?

兄貴がやってるのを見て、追いかけるように始めたサッカーに夢中になったのは小学生の頃。サッカーショップのおじさんに貸してもらったビデオで、ボールが足に吸い付くようなマラドーナ選手のドリブルに衝撃を受け、毎日繰り返し見ては彼をイメージして、少しでも近づこうと練習に励んでました。

高校進学の際には、地元でサッカーが強かった鹿児島実業に行きました。鹿児島実業は、サッカー部員だけで100人以上もいる大所帯。毎日へとへとになるまで猛練習して、2年でやっとレギュラーに。その頃、日本でのプロサッカーリーグ設立が正式決定したこともあり、漠然と「海外に行ってサッカーをやろう」と思っていたのが、「Jリーグの選手になる」という明確な目標に変わりました。 その後、2年の冬の全国大会では国立競技場でプレーでき、準優勝。3年では全国ベスト8で破れましたけど、高校選抜メンバーにも選ばれ、もう、その頃の僕は「怖い者なし」。「すぐにでもレギュラー獲ってやる」くらいの勢いで、Jリーグの横浜フリューゲルスに入団したんです。

ところが、世の中、そう甘くはないですよね。丸1年もトップチーム(1軍)には登録されませんでした。認められずにふてくされる一方で、鹿児島の田舎から都会に出てきた僕にとっては、遊ぶところも誘惑もいっぱいですから、サッカーに集中してない部分もあって。さすがに1年経って「このままじゃダメだ」と思っていたとき、留学の話をいただきました。「今、行くしかない」というタイミングで、尊敬するマラドーナのいるアルゼンチンに行くことができました。

わずか3カ月間の留学でしたが、僕にとって大きな転機になりました。サッカーが大好きだった自分の原点を思い起こさせられたというか。アルゼンチンの子どもたちは、コンクリートでもストリートでも、どこでもサッカーボールを追いかけている。それも目をキラキラ輝かせながら。

決して裕福じゃないけど、プロを目指して夢を持つ子どもたちや、僕と同年代のプロ選手もわずかな報酬とバイトで食いつなぎながら頑張っている。そういう姿を見て、すごく反省させられたんです。生ぬるい環境でプロとして満足していた自分が情けない、サッカーに対してこんな気持ちじゃダメだ、と。

帰国後は、サッカーに向かう姿勢や取り組み方が、がらっと変わりました。短い練習時間でも集中するようになりました。例えばシュートの反復練習だったら、「今日は左隅を狙って何本決める」とか、練習試合でも「今日はパスもドリブルも一つもミスをしない」とか、その都度、自分なりの課題や目的意識を持って臨むようになりましたね。監督もそうした姿勢を評価してくれたのか、試合で使ってもらえるようになりました。

21歳のとき、アトランタオリンピックを目指すU-21日本代表に選出されました。しかも、西野監督から「キャプテンをやれ」と言われたんです。僕は「チームをまとめるタイプではないから」って断ったんですが、監督に「どうしてもやれ」と言われ、渋々引き受けましたが、正直、大変でしたし、色々工夫しましたね(笑)。個性的で「自分」を持ってるメンバーばかりなので、その場で言いたいことは全部言い合って、わだかまりを残さないようにする。一方で、僕も自分のプレーを出せるときには出し、メンバーを自分のプレーで鼓舞する。そうやって自然と仲間意識の強い良いチームになりました。今では、キャプテンをやってよかったと思ってます。監督も最初からそうなることを狙ってたんでしょうけどね。

アトランタオリンピックでは、1-0で強豪ブラジル相手にまさかの勝ち星。「マイアミの奇跡」と言うやつです。もちろん、僕たちは世界トップレベルのチームを相手に勝つために相手を分析しながら、少ないチャンスをどう活かすかの練習もしていましたし、それがうまくいったという「運」もあったと思います。でも、試合には勝ったけど、内容的には完敗。試合直後の僕は、逆に「これが世界レベルか、かなわないな」と世界との差を実感しました。

僕のドリブルも通用しなかった。その現実を受け入れたとき、もっと世界の舞台に出ていかなければ日本のサッカーも僕自身も伸びないという思いが強くなりました。そんなときにスペインリーグのセビージャから移籍のオファーがあり、飛びつきました。でも、当時は今のように海外移籍する日本のサッカー選手もいなければ、チーム間の交渉を行ってくれるエージェント(代理人)もいない。当時は「生意気だ」とバッシングされ、マスコミやチームへの不信感で落ち込みました。僕はただ、海外でサッカーをやりたいという一心だったんですが。

結局、もめた末に移籍したのは、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)でした。そこでの期間が僕のサッカー人生の中でも一番のスランプ、どん底の時期でした。自分のプレースタイルをすっかり見失っていましたね。得意のドリブルも通用しないし、フランスワールドカップの代表にも落選。サッカーに対してやる気をなくしかけていました。

そんな僕が、「やっぱりサッカーは楽しい!」と思えるようになったのは、25歳でブラジルのサントスFCに移籍した時。19歳でのアルゼンチン留学の時にも思ったのですが、決して恵まれているとは言えない環境でも、みんな目を輝やかせているし、練習にも必死で取り組んでいる。ブラジルの中ではビッグクラブなのにもかかわらず、クラブハウスは工事現場の掘っ立て小屋のような造りで、シャワーなんて溜めた雨水を利用している。でも僕はそういう所が好きなのか、そういう環境に身を置いたことで、俄然、サッカーに対するやる気が出てきました(笑)。

日本にいるときと違い、周囲の雑音もなければ誰かに気を遣う必要もなかったことは大きかったですね。サッカーだけに集中できました。あと、少しタフになりましたね。ブラジルの選手って、たとえ自分がミスしても、めげずに同じことを何度もやるんですよ。周りの選手が「こっちに出せよ」と言ってもおかまいなし。自分を貫く強い精神力があるんです。 日本人って、チームのために上手い選手にボールを回していくのが当たり前だし、協調性がありますよね。僕も日本では1度ドリブルを失敗したら、やはり次は慎重になって、パスして逃げていたこともあった。けれど、それでは自信は取り戻せない。ブラジルで、ブラジル人がどん欲にチャレンジしていく姿をみて、自分も4回、5回とトライするようになった。もちろん全部がうまくいく訳じゃないけど、1回でも抜ければ自分の自信が取り戻せることもわかった。そんなふうに、何度もトライしてチャンスにつなげて行けばいいんだ、と考え方を切り替えてから、再び自分のプレーができるようになったんです。

サントスFCを離れた後はいくつか海外のクラブをまわっていたのですが、27歳のとき、ベルマーレの監督になった加藤久さんに声をかけてもらい、日本に復帰しました。その前の半年はブラジルで移籍先が決まらず、試合からすっかり離れていました。海外でサッカーを続けたかったけれど、自分を必要としてくれるなら、改めて頑張ってみようと思い、帰国することを決めました。 翌年ベルマーレからヴェルディに戻った後、試合中に初めて骨折してしまいましたが、約1年間の地道なリハビリの後、韓国のKリーグにも挑戦しました。

韓国ではそれなりに存在感も残せたと思うんですが、徐々に一番いい自分のプレーができなくなっていくのがわかりました。自分の中では「それならばプロとしてやる意味がない」と引退しようと思いながら、練習に行くと楽しくて「まだ良いプレーができる」と自分の可能性に期待する日もあれば、どうやってもイメージ通りにできない日もある。そんな日々をずっと繰り返してたんです。悩んだ末、32歳で引退を決めました。

今でも気持ちは「現役」。スポーツ番組の解説をやっても選手目線で見てしまうし、少年サッカーの指導やビーチサッカーをしていても、常に現役の気分です。「監督をやりたい」って心から思えたら監督をやるかもしれないですけれど、まだ先のことはわかりません。今は日本の子どもたちにサッカーの楽しさを広めたいと思って全国を回っています。

僕はこれまで何度も壁にぶち当たりながら、自分が納得できるまで、何とか乗り越えようと努力して生きてきました。だからこそ、自分が本当にやりたいことが見えてきて、前に進んでいけたと思っています。失敗を恐れずにぶつかり、チャレンジしていく。そうやっていく方が身になることが多いと信じています。

結局、僕の原点にあるのは、「サッカーが大好きだ」という思いなんです。そこを見失いそうになったら、環境を変えてリセットして、自分自身の心と向かい合って取り戻してきた。どんなに悩んでも、自分の中に答えはきっとあります。原点に戻ることさえできれば、誰でも、何度でもやり直しはできるし、自分の信念を見つけ、貫くこともできるはずです。

※この記事は2010年6月17日にリクルートエージェント内に掲載されたものです

※この記事は2011年03月に取材・掲載した記事です

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