特別インタビュー 階段を一歩上るとき

佐藤琢磨「待つだけでは始まらない」

2012.06.10 SUN


史上7人目の日本人F1フルタイムドライバーとして世界の大舞台で活躍し、常に注目を集めてきた佐藤琢磨さん。華やかなF1GP(フォーミュラ1グランプリ)へのチャンスをつかみ、海外で移籍しながら、チームと仕事に取り組んできた佐藤さんの仕事哲学とは?

F1ドライバーは子どものころからレーシングカートに乗ってきた人がほとんどですが、僕はそうではありませんでした。スタートは19歳と遅かったんです。

物心ついたころから乗り物は大好きで、僕が10歳のときに父が鈴鹿サーキットの日本GPに連れて行ってくれました。エンジン音が全身に響く中、目の前でアイルトン・セナのクルマが走り抜ける。ものすごい衝撃でした。その日からF1への強い憧れがずっと胸の中にありました。でも、子どもが自由に乗り回せるものといえば自転車くらい。僕も「今日はあのコーナーを少し早く抜けたぞ」なんて、自転車をクルマに見立てては、夢中で走らせていました。

本格的に自転車競技を始めたのは高校に上がる頃。スポーツ用自転車を取り扱う地元のプロショップでクラブ員になり、そこで大人たちに混ざって練習をしたりレースに出場したりするうち、同年代の中で自分の実力を試してみたくなりました。でも、自分の高校には自転車部がなく、インターハイに出場するには学校の高体連加盟が必要でした。そのとき3年生だった僕にはラストチャンスで、担任の先生に顧問をお願いして、二人三脚で自転車部を立ち上げたんです。先生は自転車のことは全く知らなかったけど、大会に出場するための環境を一生懸命に整えてくれました。僕は夏の全国大会を目指して猛練習に励むいっぽう、出場権のないジュニアオリンピックでは観客席でビデオカメラを回し、インターハイで争う選手たちの走りを分析。「自分にできることをすべてやり尽くす」。時間も経験もない僕にとっては、それが勝つために当然のことでした。そして、インターハイで悲願を達成してからは、自転車競技でオリンピックを目指したいと本気で思い始めました。

大学進学後は自転車部で寮生活を始め、練習漬けの毎日を過ごしていましたが、F1への情熱が冷めたわけではありませんでした。むしろ、雑誌で同年代の子がレースデビューしていく記事を見て、すごくうらやましかった。大学の講義を受けながら「自分はここに座って何をしているんだろう? 僕が心の底からやりたいのはF1じゃないか」などと考えてしまう。そんなとき、記事のなかでSRS-F(鈴鹿サーキットレーシングスクール・フォーミュラ)の存在を知ったんです。瞬時に「これだ!」と思いました。僕の気持ちは既に一直線。気がついたらカートショップに飛び込んでいましたね。

F1 ドライバーのほとんどは、幼少期からレーシングカートで英才教育を受けていますが、誰もがそんな環境に恵まれているわけではありません。僕にとって SRS-Fが魅力的だったのは、1年間フォーミュラカーの訓練を受けられるだけでなく、成績トップで卒業すれば、スカラシップ(奨学生)として上級カテゴリーのレースに参戦できるから。モータースポーツ未経験の自分には「これしかチャンスはない」と思うと同時に、「スクールに入るのが最大の難関」とも感じていました。というのも、SRS-Fは10倍以上の倍率でカートの実績を持つ選手たちが入校を希望するので、圧倒的に僕は不利。しかも実質の年齢制限は 20歳。当時19歳だった僕には、翌年の入校が最初で最後のチャンスでした。 このSRS-Fに何としても合格するため、僕はなりふり構わず、猛烈にアタックしました。まず、何度も電話で問い合わせ、SRS-Fの担当者を紹介してもらい、直接会って自分のF1に対する思いを綴った手紙を渡しました。説明会当日は最後に書類審査のみの選考と聞いて、「このままでは絶対に落ちる」と思い、「面接のチャンスをください!」とその場で直談判。1人1人と面接をするという異例の選考会にさせてしまったんですが、「経験がないからこそ、自分にはこのスクールが必要」「オリンピックを目指していた自転車競技も大学もすべて捨て、最後のチャンスに賭けてここにきた」という自分の本気度を、精一杯伝えることができたんです。

結果は合格。本当に嬉しかったですね。自分の力以外のところで決められてしまってはどうしようもありませんが、まずは最初の難関を突破できたわけですから。ここから先は自分次第。この時点で既にスカラシップも確実に自分のものにできると信じていました。若さ故の自信かもしれませんが、この先いくつもの階段を駆け上がらねばならないのに、ここで負けていてはF1なんか目指せるわけがないと、本気で思っていましたからね。

SRS-Fで予定通りにスカラシップを獲得してから、21歳で渡英しました。イギリス行きはモータースポーツを始めた頃から、いつか必ず通るべき道だと考えていたんです。歴史的背景を見ても、イギリスF3からF1へのステップアップがもっとも確実で最短のルートだと信じていたし、自分には英語を習得する必要がありました。ただし、イギリスF3は注目度も高く、F1に繋がる重要なカテゴリー。確実に結果を出してシーズンを戦わねばなりません。僕は語学学校で英語を学びながら、F3より格下のカテゴリーに参戦するという1年半の準備期間を取りました。イギリスの文化を知り、イギリスのモータースポーツを知る。僕にとっては不可欠な時間だったし、ジュニア・フォーミュラを戦うなかで彼らに認められ、好条件でF3にステップアップする必要がありました。そうして参戦したイギリスF3では、とにかくスピードを見せつけて注目されようと挑んだ結果、予選をトップ通過して優勝するか、勢い余る派手なレースでリタイアかのどちらかでしたね。かなり目立ちました(笑)。でも、そのスピードがF1チームの目に留まり、オフシーズンにはF1テストにも繋がった。そして2年目のイギリスF3でシリーズタイトルを勝ち取り、F1も遂にレギュラードライバーの座を獲得。夢がかなったという喜びと同時に「ここからがスタートだ!」という気持ちでした。

しかし、F1デビュー1年目はいきなりの苦戦だったんです。所属チームのジョーダン・ホンダは、資金不足からシーズン中のテストがどんどんカットされ、ルーキーの僕は経験を十分に積むことなく実戦を戦わねばなりませんでした。その中でドライバーとして全力を傾けながらも、なんとか少しでもいいマシンにしようと、エンジニアたちと繰り返しデータに向かい合っていきましたが、なかなか満足な結果を残せないままシーズンは最終戦の鈴鹿を迎えました。それでも、チームのみんなは僕の初の母国グランプリをなんとか成功させようと、髪を金髪にして、頭のてっぺんだけ赤く染めた“日の丸ヘアスタイル”でサポートしてくれたんです。そんなチームの後押しが、すごく嬉しかった。5位入賞を果たしたこの鈴鹿は、忘れられないベストレースのひとつですね。

2 年目はさらに厳しくなったジョーダンチームの資金問題から、好結果を生まないと判断して一線を退き、BARホンダのテスト兼リザーブドライバーになるという選択をしました。僕の仕事はグランプリとグランプリの間に行われるテストでクルマの開発走行を担当し、レースでは正ドライバーの控えとして待機すること。もちろん、ここでの経験を活かしてレギュラーに復帰するが最大の目標ですが、自分の出場しないレース現場に足を運ぶことがこれほど辛いとは、想像を絶するものがありました。

そんな中でも、自分自身がチームに貢献できることは何かを考え、それを徹底させることでモチベーションを保っていました。例えば、納得が行かなければ、意見をはっきり言ってエンジニアと本気で喧嘩もする。それは、中途半端な状態で走行して間違った評価を下したくないのと、自分の意見が「速いクルマ」を作るために必要で、チームにとってプラスになると信じていたからです。

そして、チャンスは突如、日本GP に向かう新幹線の中でやってきました。当時のレギュラードライバーが不参戦という連絡が入り、急きょ、僕がスポット参戦することになったんです。エンジニアたちが「Welcome!」と、僕をガレージに迎え入れてくれて、それまでの辛かった気持ちが吹っ飛ぶくらい興奮しました。プレッシャーも大きかったけど、走れることが純粋に嬉しかった。そして6位入賞。翌2004年は、BARホンダのレギュラードライバーとして、フル参戦を実現しました。

僕は一人でここまでやれたわけではありません。自転車競技をやるにも、モータースポーツに移るときも、F1の世界でチーム一丸となって戦えたことも、すべては僕が「やりたい」ということに対して、サポートしてくれる人たちがいたからできたこと。自分の夢に向かって、自分を信じ、相手を信じて委ねることで、「あいつなら」と、本気になってくれるものだと思うんです。

2005年、自分のレース人生の中で一番のスランプが訪れました。僕はどんなにダメなときも、その場しのぎで忘れようとか、「まあいいか」と楽観的にならないようにしています。何でダメだったのかをひとつひとつ分析し、改善することで、次のステップに繋がるから。ただ、それをひたすら積み重ねても、予期せぬトラブルが続くことだってある。結局、この年のレースは何をしても裏目に出てしまい、悪夢のようなシーズンでした。BARホンダからは去ることになりましたが、一方で新しいF1チーム、スーパーアグリのプロジェクトが、急速にまとまっていったんです。

わずか4ヶ月足らずでグリッドにクルマを並べる。F1の世界を知っている人間であれば、誰もが耳を疑ったはずです。僕自身でさえ、最初にその話を聞いたときは、「ホントにできるの? 信じられない」と思いました。でも「絶対にやるんだ!」という気迫に満ちたメンバーが、一人何役もこなしながら毎日頑張る姿を見て、「これは僕も思いきりやるしかないな」と腹をくくりました。すぐに大きな結果は見込めなくても、自分を必要としてくれるチームがいて、その立ち上げから携わることができるのは、すごくエキサイティングなことだと感じたんです。この新しい挑戦に賭けてみたかった。とはいえ、あらゆる意味で時間がなかったので、見切り発進というか、契約成立前から、お互いの持っているものをオープンにして作業を進めました。ビジネス面での条件に妥協するつもりはありませんでしたが、そこはマネージャー任せにして、僕は必要とされているものを提供できるよう全力を尽くしました。

スーパーアグリは、残念ながら2008年シーズン途中のスペインGPを最後にF1から撤退。彼らと共に過ごした2年半は本当に素晴らしい時間で、いくつもの忘れられないレースがあり、さまざまな人間ドラマがありました。ゼロからのチームと共に成長することで、僕自身もドライバーとしてひとまわりもふたまわりも成長できたと思います。ただし、ドライバーとしての僕自身は不完全燃焼という思いを抱いているので、今はどうにかしてF1に復帰することしか考えていません。今こそ、自分の思い通りのレースができると自覚しているし、それを表現するための環境は何が何でも欲しいんです。これからもあきらめず、チャンスをつかむために、自分から挑戦を続けるのみです。

待っているだけでやってくるチャンスなんて、一生のうちに一度か二度しかない。それも正しいタイミングとは限らない。だから自分でつかみに行くんです。どんなことでも、実現したいと強く願うなら、必ずどこかに解決策がある。僕はそう信じて、いつも突破口を探しながら挑戦してきました。夢ってそうすることでかなえられていくものだと思うから。やりたいことがあれば、自分を信じて、怖れずにやってみればいい。「ノーアタック、ノーチャンス」。僕はこの言葉をいつも信条にしています。


※この記事は2009年8月27日にリクルートエージェントに掲載されたものです

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