欧州留学ができなくても自分にやれることはある

日本にいながら世界的評価!作曲家・山中千佳子の決意

2016.04.22 FRI

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「私の中には“応援”“分析”“見守る”という、三つの役割を持った自分が存在していて、必要に応じてそれぞれが力を発揮してくれるんです」と山中さん/撮影:森カズシゲ
日本にとどまらず世界に向けて活躍を始めた作曲家の山中千佳子さん。2013年12月にスイスで開催された「ジュネーブ国際音楽コンクール」の作曲部門で2つの特別賞を獲得して注目されるが、結果を出すまでには様々な壁を乗り越えてきた。

1年間の浪人生活を経て、東京藝術大学合格を果たした山中さん。100人編成のオーケストラなど、難易度の高い曲も徐々に書けるようになるにつれて、やはり作曲家になりたいという気持ちが固まっていった。卒業後は、大学院へ進学することを希望。大学受験での反省を生かし、気を緩めずに細部にわたって納得のいくまで作曲に取り組み、首席での学部卒業&大学院への合格を決めた。

「アーティストにとって、20代にどんなことを考えて、どういう作品を書いたかはすごく大事になってくると思っていたので、2年間またしっかり“インプット”ができるよう、大学院に進みたかったんです。でも親には、『もう浪人はさせられない。大学院に落ちたら就職しなさい』と言われていたので、確実に合格するために、死に物狂いでがんばりました(苦笑)」

■大学院で人生2度目の壁


音大卒業後や、大学院の音楽研究科に入学後は、ほどなくしてヨーロッパに留学する学生も多い。世界的に大成するためには、一度はクラシックの本場に身を置くことが必要だと考えられているからだ。山中さんも、「行かせてほしい」と両親に相談したが、経済的な援助は難しいと言われたので、文部科学省の奨学金留学生制度に応募してみたが、他大学の学生に決まってしまった。

「海外の先生に師事することで、様々なチャンスや後ろ盾も得られる。そうして足がかりを作っていくのが、クラシック界の風潮になっているので、『これで作曲家への道も閉ざされてしまうんだ…』と思うと、ショックは大きかったですね。でも15歳で実家を離れて以来、親にはたくさん負担をかけてきましたから、これ以上は仕方ないと思いました」

一時はひどく落ち込んだ山中さんだったが、しばらくして気持ちを切り替えた。留学ができないことで、夢を諦めたくはない。そこで活路を見出したのが、国際コンクールへの挑戦だった。自分自身は海外に行けなくても、楽譜が海を渡って世界で認めてもらうことができれば…。その決意から、大学院卒業後は、音楽教室などで教える仕事をしながら、一人で曲を書き進める日々を送った。そして2010年「武満徹作曲賞」第3位、2013年「ヴィトルト・ルトスワフスキ生誕100周年記念国際作曲コンクール」佳作、同年「ジュネーブ国際音楽コンクール」で特別賞を受賞。世界的な作曲家が審査する著名なコンクールで、次々と入賞を果たしていった。

「国際コンクールは、私に残された最後の手段でした。何のコネクションもなく日本から直接曲を送ったところで、到底通るはずがないという声も耳にしました。でも、やってみないことにはわからないだろうと、必死でした。ただ、仕事との並行で作曲の時間を作ることにも苦悶しながら、何の保証もないまま一人ぼっちで曲を書いていく日々は、心底、苦しかった。ですから、受賞を知ったときは『本当にこんなことがあるんだ!』と、信じられないほどうれしかったんです。初挑戦の『武満徹作曲賞』は日本開催だったのですが、次の『ヴィトルト・ルトスワフスキ~』はポーランドで行われ、年齢制限なしの世界37カ国・160作品の中から選ばれたこともあって、とても自信と勇気をもらいました」

■世界屈指の指揮者からオファーが


こうして世界的作曲家の仲間入りを果たした山中さんに、コンクールから1年半後、特大のご褒美が待っていた。あの小沢征爾氏も認めた新進気鋭の指揮者として今、最も注目と期待を集めている山田和樹氏(37歳)から、直々に作曲のオファーを受けたのだ。山田氏も山中さんと同じように、海外留学することなく日本国内で研鑽を積みながら、2009年に世界タイトルをつかんでいる。お互い通じるものがあったのだろう。

「山田さんは、オーケストラと合唱の両方のタクトが振れる非常に希少な素晴らしい指揮者でいらっしゃって。特に私の合唱曲を評価してくださったことで、作詞・作曲を手がけた新譜を『全音楽譜出版社』から出版していただけることになりました。今年の8月には、地元・岡山県の倉敷でオーケストラと合唱のための新曲も初演していただく予定です」

これまでいろいろと壁にぶつかったことが、結果的に思考を深めた。留学できなかったことでむしろ、「日本人である自分が、世界に向けて何を書くか」という問いを生み、海外の環境や自分自身の音楽を様々な視点から見つめて、フラットな状態で勉強と作曲に取り組むことができたのだ。その一つの答えが、ジュネーブでの『Uminari』という作品となって結実した。

「本当に、これまで支えてきてくれた沢山の方々に感謝しています。これからも、より多くの方々に聞いていただけるように精進を続けて、後世にも残るような曲を作っていきたいと思っています」


(菅原悦子) 世界が認めた瞬間
(C) Anne-Laure Lechat.
世界が認めた瞬間
1939年から開催されている「ジュネーブ国際音楽コンクール」。ピアノやフルート、チェロ、声楽など約10部門があるが、作曲部門での入賞は日本人初だった
こだわり仕事道具
知人からもらったドイツ土産の「LAMY」の0.7mmシャープペンは、手によく馴染んで使いやすい。分厚くて上質な「ECHO」の五線紙ともども作曲時の必需品だ

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