「荒波があれば必ず凪が来る」

加山雄三

2010.06.03 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
趣味は趣味、仕事は仕事。そこに光明が見えたとき

8歳で親戚のおねえさんの弾くピアノに心打たれ、初めて曲を作ったのは14歳。72歳で作った「ハーモニー」まで、作品は508曲におよぶ。ちなみに最初の曲は「夜空の星」と題されて、28歳のとき「君といつまでも」とのカップリングでリリースされている。

日本初の多重録音を、単なる個人の工夫で実現したり、大学時代にはカントリーバンドで活動したり。ロック黎明期にいち早くチェックしていたエルヴィス・プレスリーも、コピーするのはB面限定(『だって、ロカビリーの連中がみんなやってんだぜ! そうなるとバカバカしくって』という理由)…音楽への姿勢は、ずっと情熱的でマニアックだった。

でも「音楽は趣味」と言い切る。

「そういう気持ちで行った方がいいんだよ。責任を感じて“やらなきゃ”になってしまうと、追い詰められちゃうからさ(笑)。音楽はホントに好き。この“好き”を学生時代のまんま持続できたらどんなに幸せだろう、と」

だから、頼まれても曲は作らない。作りたいタイミングと合えば作る。

「海が時化と凪を繰り返すのと同じだよね。風が吹くときヨットはよく走るし、ないときには碇を下ろしてのんびり止まってる。今回は、うまい具合にピタッと波が合ったよね。合ってなけりゃ、50周年でもたぶんやんない(笑)」

初めての船を造ったのも14歳のとき。茅ヶ崎に暮らし、その後もボートを造り続けた。18歳のときには、5カ月かけてモーターボートも自作した。上原 謙という世紀の二枚目スターの家に生まれたが「普通に育てよ」という方針。公立中学から受験で高校は慶應に入り、仲間のサイフの厚みに腰を抜かした。大学の最終学年まで船関係の仕事を意識し続けるが、結局、商社と酒造メーカーの資料を取り寄せる。普通の就職先である…。

「でもバンドリーダーのミネギシに言われたんだよ。『サラリーマンって柄じゃねえよ』って。『オマエには資産はねえけど暖簾があるじゃねえか。それで一稼ぎして、船は造れば』ってさ」

大学を卒業した年に俳優デビュー。翌年には映画『若大将』シリーズがスタート。だが俳優は、いずれ船を買うための金儲けの手段にすぎなかった。

「不純な動機だよね(笑)。黒澤 明監督に出会うまでは、ホントにどうやってやめようかとばかり考えてた」

25歳で『椿三十郎』に、28歳で『赤ひげ』『姿三四郎』に出演した。

「現実と映画のリアリズムとの違い。カメラの距離、位置、レンズの動き、天候、声の大きさ、トーン…全部ひっくるめて観客に心理を一体化させる、それが映画のリアリズムなんだ…って言われたんだよ。映画の中にいながら、全部をグローバルに見る視点を持ちつつ、客観性を失わずに一点を見つめることのできる心。こういう人がいるなら、映画って最高だなって思った。こういう本当に力のある人がいると、“よしこの人についていこう”って思うよね。会社でも同じだと思うけど。ドーンと来る出会いがあれば、それはひとつ“種を植えられた”ってことだよ」

このとき俳優は、単なる金儲けの手段ではなくなった。

「どんな人がどんな人に会ったって、“聞く耳”と“受け止める心”がなければ、通り過ぎるだけ。自分がその人を認めて変われるかどうかは、心のあり方ひとつ。自分がそれまでの自分のままで“これでいいんだ”って思ってるかぎりは、その道しかないよね。仮に少しでも“オレはこうしたい”って気持ちがあるなら、本気でそのビジョンを描くのさ。そこから姿勢はおのずと変わってくるよね。そのためには、つらい思いをしなくちゃダメだと思うよ。自分で背負って立つ悲劇があった方がイイね~、絶対に」

いろいろあったからこそポジティブでいられる

「悲劇」という口調がカジュアルだ。いいことも悪いこともあった。すべて快活に少しだけ楽しげに語られる。

受け止めねばならない、つらいことがいっぱいあった。

19歳のときに、“死んだ”。本当に。

「抗生物質に拒絶反応を起こして3分間心臓が止まったの。だんだん暗くなってきて、人の声が聞こえなくなってさ…死ぬんだ、と。細胞がひとつひとつ死滅していく恐ろしさを実感したよ。だからどんなに苦しくても、『自分で命断つ? 死はそんな甘っちょろいもんじゃねえぞ!』ってわかるんだ。何が何でも死にたくないと思う」

30歳のとき、大島で大時化に遭った。まるで映画の1シーンだ。大波にあおられ、船は7mも上下した。船酔いでやられた乗組員たちが、そのつどピンボールのように船室の天井と床に激突。船長の加山雄三は彼らを布団でサンドイッチ状態に保護して…。

「ウェットスーツ着て水中メガネかけて外へ出てラット(舵輪)をつかんで。死ぬかと思った。ホントに足が震えるからね。波の間に入ると何も見えなくて、三崎の灯台を江ノ島の灯台と見誤って、危うく座礁しかけながら。普段1時間40分で帰れるところを8時間半かけて戻ってきて。最後、防波堤の先に江ノ島のグリーンの灯台が見えたときには、“やったあ!”って涙が出るほど感動してさ、寝てたみんなを叩き起こして明かり全開にして戻っていったさ」

32歳のときには経営していた会社が破たん。取締役に名を連ねていたことで23億円の借金を背負った。

「もうどうなってんだかわからないんだよ(笑)。でもそれほどの大波を喰らってもひっくり返らずにやってくることができた。もちろんオレ自身にナントカしようという気持ちもあった。けど、“命さえあればたぶん大丈夫さ”っていう気持ちを自分で強く持ってた…というか信じてた。だって殺されないかぎり、オレは絶対自分では死なないんだから! あらゆるところへ行ってどれだけ土下座をしたことか。“やめてください。どれだけ頭を地べたにこすりつけられても納得しませんよ”と言われるて“ごもっともです”って、それでももう1回土下座するわけさ」

と、それでもやはり、若大将らしく明るく上を向いて語る。会社更生法が適用され、後に会社は売れて、債権者には好条件で返済ができたという。

「そんなときでも、海の仲間ってややこしいこと言わないんだよ。“金がなけりゃ魚取って食えばいいよ。海藻だってあるしさ”って(笑)。仲間たちが“大丈夫大丈夫”って言ってくれて。下向いて思い詰めてたら死んじゃってたかもしれないね」

だからといって、その件を軽く見ているわけでは決してない。「つらいことから逃げないことさ。真っ正面から受け止めて『畜生!』と思いながら、一所懸命考えるんだ。守られすぎると自分で戦うことができなくなるさ。負け犬だとか吠えるだけの犬になっちゃうんだよな。オレは毎日毎日新しいスタートを切ってる気がしてるんだよ。今の時間っていうのはまさに“今”だけ。昨日からの続きじゃない。未来は先にあるんじゃない。過去も現在も未来も“今”の一点に集中していて、それが一瞬一瞬動いていってるのさ。荒波があれば必ず凪が来る。それは間違いないんだよ」

1937年横浜市生まれ、茅ヶ崎市育ち。慶應義塾大学卒業後の60年、映画『男対男』でデビュー。翌年には『大学の若大将』が公開、シリーズ化され、当たり役となる。同じ年、「夜の太陽」で歌手デビューも果たす。65年に映画『エレキの若大将』主題歌として発売された「君といつまでも」は350万枚の大ヒット。50周年記念シングルの作詞を手がけたさだまさしや山下達郎など、音楽家としての加山雄三をリスペクトするミュージシャンも多数。『赤ひげ』などの黒澤 明作品への出演をきっかけに俳優としても覚醒。また60歳を前にして始めた絵画も本格化。いまや年数回の個展もこなすプロフェッショナル…だが本人いわく「趣味」である。デビュー50周年記念アルバム『若大将50年!』は発売中。6月4日には日本武道館で熱いステージを展開し、6月12日には日本ガイシホールでコンサートも。 www.kayamayuzo.com/

■編集後記

黒澤組に参加したとき、まったく萎縮しなかった。「最初に黒澤さんに『オマエは白紙でいい』って言われたのが効いたね。“余計なこと考えなくていいんだ”って思った。芸能界の厳しさは知らなかったけど、海の厳しさは身に染みて知ってた。転覆したり座礁して何度も死に損なったから。人の思考の波を読むのも早いんだよ。“ここはヤバイ”ってところは命がけでやる。あとは何言われてもオレの時間。そういうやり方ですごくうまくいけたね」

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
稲田 平=写真
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