「世界のいろんな人たちを宇宙に送り出す乗り物を」

若田光一

2011.06.16 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
日本人初のコマンダー、
ニコニコ笑う!

「いやーホントすみませんねー」

シャツの胸のあたりに手をやってニコニコ笑っている。袖をまくった普通のボタンダウンシャツ。すみませんねー、とはそのせいだ。

いつも訓練時に着用し、取材対応のスタイルでもあるブルースーツと呼ばれるつなぎがある。これをつい洗濯してしまったらしい。

埼玉生まれの47歳。こうして見ていると“とっても愛想のいい”普通のオジサンだ。が、しかし、キャリア19年の宇宙飛行士。96年にスペースシャトル・エンデバーに搭乗したのを皮切りに、過去3度宇宙へのミッションに参加した。09年には、国際宇宙ステーション(ISS)に日本人として初めて長期滞在。

そして、2013年末からのISSへの約6カ月にわたる長期滞在ミッションに参加、日本人初の“コマンダー”を任命されたのだ。

コマンダーとは“船長”とか“司令官”と邦訳されているが…。

「要はとりまとめ役ですね。国際宇宙ステーションは世界15カ国の協力で運営され、常に6人の宇宙飛行士が滞在して実験や研究を行っています。その6人のチームをまとめるわけです。宇宙ステーションというすばらしい実験研究施設を最大限に利用するための作業計画を地上のチームと一緒に検討しながら作っていく仕事です」

ただ、“船長”という響きほど、カッコいいことばかりではない。

「これから2年半をかけて6人のメンバーたちと訓練をするんですが、全員が無理なく最大限の実力を発揮できるような訓練カリキュラムを組みます。6カ月の間にどういう船外活動をするのか、どんな実験を行うか、誰が担当するかも、私がリーダーとして会議に出席して決めるんです。宇宙飛行士というと、実験や宇宙船の操縦訓練に明けくれているイメージがあると思いますが…コマンダーの場合は会議に出席してチームの考えを代弁するのも大きな役割ですね」

ある意味雑用だ、と笑う。

「私たちがミッション中にTVに映るのは、宇宙船を操縦しているような、まさに宇宙飛行士然としたシーンばっかりですけど、陰では、課長さんみたいな役回り」

だが念願だった。なぜ、こんな煩雑な業務を目指したのだろうか…。

「私たちの日本は技術立国です。技術で国が繁栄し、世界に貢献していかねばならない…そういう使命を持った国だと思うんです。これはどこの国にでもできることではありません。そうした点での日本の存在感は高まってきています」

15カ国が参加するISSにおいて日本は、実験施設『きぼう』を作り、無人補給船『こうのとり』による物資輸送のミッションも2度にわたって完璧にこなした。だが、アメリカ・ロシア・ヨーロッパ諸国・カナダとともにISSの中核をなしながら、日本だけがコマンダーを出してこなかったのだ。

「ものづくりにおいては、すばらしい貢献をしてきました。92年に毛利(衛)さんがエンデバー号で行き、スペースシャトルですばらしい実験を行いました。そして先輩たちがすばらしい仕事で続いた。私も一歩一歩やってきました。日本の宇宙飛行士として、日本の有人宇宙活動の領域を広げるうえで、やはりこれからは、リーダーシップをとれるような人的貢献が必要なのではないかと、ずっと思っていたんです…。いやーそれは宇宙に限ったことではないでしょうね。今後の日本の課題とでもいいますか」

若田さん自身、そもそも技術の世界に生きていた。それがいつしかリーダーを目指すようになった。

目標を叶えて、さらにまた、
新たな夢を追い求めて

前職は日本航空のフライトエンジニア。5歳のころにアポロ11号の月面着陸を見て、宇宙にあこがれを抱くが「アレは手の届かない世界」と、同じように好きだった航空機関係の仕事を夢見る…いや、夢というより、もっとリアルに「飛行機の仕事に就くこと」を目標とした。中学・高校・大学時代もそれにのっとって過ごし、ついに達成したのだ。

当時、日本人宇宙飛行士はいずれも科学系の学者出身だった。だがNASAがミッションスペシャリスト(=技術搭乗者)の採用に乗り出した。門戸が開かれたのである。

「私が受かったのは、宝くじに当たったようなものです。単に“どうやって宇宙飛行士って選抜されるんだろう”という興味だけで受験してみたんです。技術搭乗者って日本にとっては非常に新しい部分でもありましたし」

2次試験で50人に絞られたとき、上司の推薦状を求められた。

「まさに自分の目指してきた整備の仕事をさせてもらっていたので、課長にどう言おうかなと迷いました。会社のことを真面目に考えてないと思われたら困るなと。そしたら当時の課長の小林 忍さんは“キミは受からないだろうから、試験でいろんなことを吸収して戻ってきてみんなに報告してくれ”と推薦状を書いてくださったんです。エンジンの仕組みを学ぶために部下をボーイング社に何年も研修に出してくれるような、長期的な展望を持った上司でしたね。いざ私が選抜されたら“僕の推薦状のおかげだね”っていわれましたけど(笑)」

すばらしいリーダーたちに出会ってきた。1回目と2回目のシャトルの船長、NASAのブライアン・ダフィーさん。彼のことを若田さんは「透明感のあるリーダー」と賞する。

「彼の下で仕事をすると、気づいたときには難しいことでもできているんです。そして仲間と一緒の目的に向かってがんばれている。意志が通じ合ってるんだな、ということを実感させてくれたんです」

そこで若田さん、その働きやすさのヒミツを分析したという。

「“コミュニケーション”なんですよ。普段の会話の中に、ふと“こういう事態になったらどうする?”なんて、ある緊急事態への対応の仕方なんかを織り込んでくるんです。しかも非常に自然に。そしてこちらの考えを普通の会話からくみ取ってくれる。部下である私にも、そこで自然と学びがある。それで模擬訓練のときに、ダフィーさんと会話の中で想定したような状況になっても、スムーズに対応ができるんです」

ISSのコマンダーだったロシア連邦宇宙局のゲナディ・パダルカさんは「機関車のようにパワフルな人」だという。

「日曜日も猛進するような人でした。前回私が参加したミッションでは、最初3人でISSにいたんですが、『きぼう』で仕事していると、誰とも顔を合わせない日もあるんですね。パダルカさんは“少なくとも食事のときは一緒に過ごそう”と。仕事のことも話しましたが、食文化とか歴史とか戦争のことも話して。コミュニケーションの時間の大切さを痛感しました。チーム一丸となって何カ月もの長丁場を過ごせたのは、そのおかげだと思っています」

こうして学んできたことを咀嚼し、自分なりのやり方でリーダーシップを発揮していきたいという。

なるほど“とても愛想のいいオジサン”ぶりも、思えば非常に心地よいコミュニケーションのあり方だ。

取材前日、大船渡・気仙沼の人々と会ってきたと言う。洗濯したブルースーツはそのときに着用した。

「今回の震災で改めて、地球の内部に対する知識を深めることの大切さを私たちは知りました。これは内なるフロンティア。今後も学んでいかねばなりません。人体内部を知る医学も同様に内なるフロンティア。宇宙も同じフロンティアなんです。宇宙を知ることは、長期的に見れば、人類が生き続けていくための危機管理という意味があると思います」

そして、さらなる未来―。

「有人宇宙技術を高めていく努力をしたいと思っています。それは何かというと安全性を確立できるシステム。人間を打ち上げる能力があるロケットと、衛星しか打ち上げられないロケットがあるなら、衛星を打ち上げたいだけの人でも前者を選ぶでしょう。人間を打ち上げる能力を持つということは、そのロケットの信頼性を世界にアピールするために非常に重要な要素だと思うんです。世界のいろんな人たちを宇宙に送り出す乗り物を作って、有人宇宙活動に貢献するのが、今の私の夢です。実はね、そのためにも、地球とISSのような低軌道との往復って重要なんですよ。これがあって、月にも火星にも行けるし、宇宙旅行も実現するという…」

1963年、埼玉県生まれ。89年、日本航空に入社。92年4月、旧NASDAによりミッションスペシャリスト候補に選出。96年1月日本人初のMSとして、スペースシャトル・エンデバー号に搭乗。ロボットアームの操作に熟達し、00年10月にはスペースシャトル・ディスカバリーで国際宇宙ステーション組立ミッションに参加。09年には、日本人宇宙飛行士として初のISS長期滞在ミッションを敢行。10年からのNASAのISS運用部長を経て、今年2月、第38次/第39次ISS長期滞在ミッションへの参加が発表

武田篤典(steam)=文
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稲田 平=写真
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