サッカー「ロシアW杯アジア地区最終予選」インタビュー特集

松木安太郎「諦めず続ければ未来につながる」

2016.08.31 WED

ロングインタビュー

松木安太郎(まつき・やすたろう)
1957年東京都出身。小学校時代からサッカーを始め、中学校入学と同時に読売サッカークラブに加入。暁星高校から堀越高校へ転校し、クラブチームの練習に専念。その後、日本体育大学へ進学も、3年時に中退し、クラブの活動へ専念。1976年に日本サッカーリーグデビュー。日本リーグ時代は、リーグ優勝3回、天皇杯優勝3回JSLカップ優勝1回を誇る。日本代表としては、国際Aマッチに12試合出場。1990年に現役引退。その後、Jリーグ開幕直前に、ヴェルディ川崎の監督に就任。三浦知良やラモス瑠偉らを擁し、チームを開幕から2年連続の王者に導く。その後は、テレビ朝日などでサッカー解説者を務め、日本代表戦の中継に欠かせない存在になっている。
9月1日(木)からいよいよスタートするサッカー「ロシアW杯アジア地区最終予選」(テレビ朝日系列で地上波生中継)。数々のドラマが生まれたW杯最終予選を、当事者たちと振り返る。今回は、初心者でも楽しくなる解説で人気の松木安太郎さんだ。


実況席からの応援、20年前は淡泊だった。


フジテレビの中継で長坂哲夫アナウンサーが「こぼれている、どうか!?」と絶叫し、解説の清水秀彦が実況より先に「やったーーーっ」と声を上げた。その瞬間を、NHKでは、山本浩アナウンサーが「こぼれ球、岡野~」「日本、フランスへーーー」と比較的静かに伝えた。解説として山本さんの隣にいたのが、松木さん。

1998年フランスワールドカップアジア最終予選。第3代表を決めるイラン戦の延長後半13分、中田英寿のシュートのこぼれ球を岡野雅行がゴールに押し込んだ。歴史に残る日本のワールドカップ初出場決定の瞬間、松木さんは短く「よしっ!」と言った。すぐに拍手しながら「行った。行った」と繰り返した。一切叫んでもいなければテンションはさほどアゲアゲではない。でも何か、噛みしめるようなしみじみとした声。たぶん拍手は思わず出たのだろう。

「選手のプレーの質ってキャリアとともに変わるじゃないですか、僕の解説もそれと同じだと思います。しゃべりの質はまあ変わってるでしょうね。でも、スタンスはまったく変わっていません。“マイナーな競技”をいかに一般の人たちに楽しんでもらって、いかにメジャーな競技に変えていけるかとずっと思ってやってきました。山本浩さんにテレビへの映り方みたいなことを教えていただきながら、どれだけサッカーをわかりやすく噛み砕いて伝えるか、ということが僕にとってのひとつのテーマだったんです」

松木さんは当時、39歳。ヴェルディ川崎の監督を退任し、NHKの解説者となって2年目だった。1993年に日本サッカーリーグがJリーグとしてプロ化した際、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ1969)の監督を任じられ、開幕から2シーズン連続で年間王者を獲得していた。

「クビですよね。僕、たぶんJリーグでいちばん初めにクビになった監督だったんじゃないかな(笑)。他のチームの監督さんは、監督を解任されても別のポジションでチームに残るケースがほとんどでしたからね。今みたいに、このチームの監督を降りたら次は別のチームで監督、みたいな道筋も土台もなかった時代でしたから。正直、僕も別のポストを提案されたんですけど、一度チームのトップに立った監督が居座るのは僕の生き方ではなかったので。うまくいかなければ1回離れるべきだと思っていて。残るのはポリシーに反するし、わがままだとは思ったんですけどチームを離れました」

94年のシーズン終了後、おおよそ半年ほどは完全に無職。先のビジョンも食べていく自信もツテも何もなかったという。この時期に成し遂げたことは、まだ小さかった娘さんを伴っての公園デビュー。松木さんによると、この時代、プロサッカーリーグ関係者が辞めてすぐテレビで仕事をするという前例もなかったという。翌年になってポツリポツリとテレビの仕事が始まった時も「むしろ、サッカー界から何してきてるんだって、悪のように見られてたぐらい」と笑う。

「ちょっと時系列があやふやなんですけど、最初にやったテレビの仕事ってテレビ東京とNHKの早朝だったような記憶があります。朝4時から5分間(笑)、サッカーについてしゃべるんですよ。“なんで監督までやったやつが3時起きで、5分しゃべるためにテレビ局に行ってんだ!”ってよくバカにされました。他にはプロ野球ニュースのサッカーコーナーで呼ばれたり」
 
サッカー解説という仕事が確立されていなかったし、マスコミにも独立したサッカー担当者があまりいなかったという。だから「初心者にもわかりやすい解説」というポリシーは、最初はなかった。

「スタジオに行くと野球のコーナーは20分あるんですよ。でもサッカーは3分とか5分。そもそも野球はみなさんよくご存じですよね? でもサッカーは知られていない…ということを考えると、野球が20分で伝えることを、サッカーを5分でわかってもらわなくちゃいけない。だから相当スリムにしようと心がけました。ひとことでうまく伝えて、短い時間のなかで自分を表現する。実際にテレビに出ながら、やり方は少しずつ確立してきましたね」

生き残るために必死にやってきたのだ。実は松木さん、16歳からそういう世界を生きてきた。

知らず知らずのうちに植え付けられたプロ意識。


1957年東京に生まれ、暁星小学校時代からサッカーを始めた。6年生で全国大会に出場すると、中学進学と共に読売サッカークラブ入り。16歳でトップチームに昇格し、クラブの練習があって日中は学校に通いにくいことから、堀越学園の芸能コースに編入している。まさにサッカー中心の生活、というか当時の読売クラブは、アマチュアを原則としていた日本サッカーリーグにおいて、いち早くプロのような運営方針を導入していた。トップチームに上がると、その年の成績次第で翌年以降の身の振り方が決まる。だから、Jリーグの発足は日本サッカー界にとっては大事件だったけれど、読売クラブの選手たちにとっては、実際、何か具体的で劇的な変化が訪れたわけではなかったと、松木さんは言う。

「確かに周りは変わりましたね。多くのチームの選手やスタッフは会社員でしたからね。みなさん騒然としていた。でも僕らはJリーグの前からずっとプロ的な、来年うまくいかなきゃクビを切られるというような状況でやってきたので、プロ化したなかでも実力を発揮できたんじゃないかと思っています。背景はそういう部分にあったかもしれませんね」

松木さんは33歳で現役を退き、2年のコーチ修業の後、Jリーグ発足とともにヴェルディの監督になった。当時35歳。指導者としてはリーグ最年少だった。根っからプロ意識の備わった集団を、選手とあまり年の差のないものが率いる…あの陽性の松木さんのことだから、きっと楽しんでいたのではないかと思うのだが…。

「いやいや、誰か助けてくれないかなって思ってました(笑)。誰に聞いても、そんなの引き受けんのバカじゃないのって言われて。今考えると、あの若さだからできたんだと思います。今やれって言われたら絶対断る(笑)。だから、その若さがあるからこそできるってことがあるんですよね。若い時は、無謀に見えても、チャレンジはできるだけやっておいたほうがいいって言いますよ、僕」

ちなみに暁星時代の同級生には、堀越に編入した時「オマエ、サッカーのためにそんなことして大丈夫か?」ってみんなに言われたらしい。

「それがリーマンショックとかいろいろあって、当時の同級生に会うと、“お前よかったなあ、サッカーやってて”って(笑)。僕には先輩とか後輩とかしがらみなんてものがなくて、レールを外れても誰にも何も言われないんです。サッカーを選んだ時も、Jリーグになった時も、僕は変わってないんだけど周りが動いてきた。そんな時代背景の中で生きてきたなあって思ってます」

■インタビュー後編はこちらから
■R25「サッカー日本代表」特別インタビュー特集はこちらから

武田篤典(steam)=取材・文/稲田 平=撮影

■サッカー「ロシアW杯アジア地区最終予選」(テレビ朝日)
10月6日(木)日本vs.イラク
10月11日(火)オーストラリアvs.日本

川平慈英&中山雅史がW杯アジア地区最終予選の思い出の名シーンとリンクするスペシャル映像も要チェック。

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