「守るは守り、攻めるは攻める」

中村勘三郎

2007.11.08 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA サコカメラ=写真 photography SACO CAMERA …
邦画のプチバブルの喉元に、

「映画ってさ、“組”っていうでしょ。今回の場合は平山組。平山(秀幸)さんを頂点として、みんなが共通の認識を持って作る感じ。一人一人がそれぞれの仕事をきちんとやって、一人でも欠けたら成立しないという空気が強かったですね。舞台はね、おこがましい言い方をすると役者のものなんですよ。演出家が何をいくら言ったって、実際に舞台上でやり始めたら途中で止められないでしょ。だから勝手なことがやれる、その代わり役者が責任を全部負う、それが舞台というもの。でも映画でそれをやったら破滅ですよね。組のみんなで船に乗ってその作品に向かって行く感覚がとても新鮮でしたね」

この映画は8年前に下北沢で生まれた。中村勘三郎と柄本明、監督の平山秀幸の飲み屋でのトークが発端。日本映画の現状を憂い、昔、日本に数多くあった「人間味あふれて笑える映画を作りたい」という話になった。“今どき、珍しい”のはもともとの志なのだ。そして弥次喜多の構想は最初から。

「長かったですよ。それこそ宮藤(官九郎)さんが先にやって、うちの息子が出ちゃったり(『真夜中の弥次さん喜多さん』)。“ウソッ! やられた!”って(笑)。そんなのばっかり。そうこうしてるうち…」

2005年、十八代中村勘三郎襲名。前後合わせて3年間は、その儀にかかりっきりになっていた。

しかし、難航しつつも完成したことには大いに意味があった。骨太でクラシックな日本の喜劇映画は、邦画のプチ・バブル状態に、静かに物申す。そして中村勘三郎自身も、少し目覚めた。

「お声がかからなかっただけの話なんですけどね。これからは映画出ますよ、だって好きなんだもん(笑)」

主演はなんと46年ぶり。前作『アッちゃんのベビーギャング』のとき、中村勘三郎は中村勘九郎で、6歳だった。

間違っていなかった―

中村勘三郎は、十七代中村勘三郎の長男として、55年、東京に生まれた。父方の祖父は三代目中村歌六、母方の祖父は六代目尾上菊五郎という名門だ。2歳から日本舞踊を始め、4歳のとき、『昔噺桃太郎』の桃太郎役で初舞台を踏む。05年に十八代中村勘三郎を襲名。

このときに残したのが「守るは守り、攻めるは攻める」というコメント…。

「映画は守りではないですね。歌舞伎座でこの間やった、『裏表先代萩』の三役なんてのは、ぼくにとっての守り」

足利家を舞台に、お家を奪うため幼い主君の毒殺を企てる仁木、主君を守る政岡、下男の小悪党・小助の三役。この演目でのこうした趣向は39年前の先代勘三郎による四役、12年前の尾上菊五郎の三役だけ。

「攻めって、ニューヨークに行って英語で公演したり、舞台の音楽で椎名林檎さんのギターを使おうとかっていうのがそうかな。両方をバランスよくやっていきたいなって思ってきました」

攻めに関しては、歌舞伎ファンならずともよく知るところだろう。96年、渋谷の『シアターコクーン』で歌舞伎界の外の演出家・串田和美とともに『コクーン歌舞伎』をスタートさせ、00年からは江戸時代の芝居小屋を再現した『平成中村座』で独自の演目を上演。4年後にはニューヨーク・リンカーンセンターに芝居小屋を建てて『夏祭浪花鑑』を上演、クライマックスにはパトカーとNY市警が登場するというギミックを放った。今年もニューヨークで、『法界坊』を英語で公演している。

2歳から稽古を始め、それが反射のようになるまで繰り返し積み重ねてきた者にとって、意識しない限りは“守り”しかないだろう。攻めたい、と思うに至ったきっかけを尋ねた。即答。

「22歳のときです。唐十郎さんの『蛇姫様』という演劇に仰天しました。テントを張って、芝生の上に座って観る。この世にあるとは思えなかったような世界。だんだん興奮してきて“何、この人たち! 傾寄いてるよ!”って。いまだに目をつぶると出てくる。強烈でしたよ。それから沸々とわき出てきたんです、“何かやりたい!”って」

“何か”が『コクーン歌舞伎』として結実するまで、約20年を要した。

「観てすぐうちの親父に“やりたい”って言ったら“100年早い”と。“まず稽古。鏡獅子なら鏡獅子100回やって、それからだよ”って。まあそうだろうな、と思った。もしあのときやってたら“形無し”になってたと思う。それはそのときからわかってたからね、ぼくもおとなしく親父にしたがった。 “形無し”は型がないですからね、型があってあえてそれを壊す“型破り”とは全然意味が違う。で、20年か…そのぐらいの期間がちょうどよかったんじゃないかなって思いますよ」

 破るにしても踏襲するにしても、みっちりと型を作っていくことができた。



「基礎工事をしっかりしてないのに建物を建てたら崩れちゃうでしょ。稽古して土台をしっかり作っておけば、どんなうちでも建てられるんじゃないかと。土台になるのが“守り”ですよ、歌舞伎のね。それがないなら、歌舞伎役者である必要はないんじゃないかな。今はもう、自分に対して迷いはない。じっくり積み重ねて実行してるからね。でもいまだに“何でそんなことすんの”って言われることもあります。それがね、面白いことに―」

今年のワシントン公演のとき、勘三郎さん、あるアメリカ人記者に言われた。“英語で歌舞伎をやったのは、あなたが初めてではない。明治時代にある役者がやってるんです”と。

「びっくり仰天です(笑)。誰だと思う? 調べたらちゃんとやってた。しかも歌舞伎座の正月興行で。その役者さんは福澤諭吉のところへ行って、慶應の学生さんにアクセントを1個ずつ教わって英語を勉強したんだって―私のひいおじいさんでした! 五代目尾上菊五郎! 面白いのはね、英語でやったら、全然わかんなくて不評だったって。そりゃそうだよ、お客さん全員、日本人なんだもん(笑)」

『風船乗評判高閣』。五代目尾上菊五郎演じるは、風船乗スペンサー。風船に乗ってどんどん遠ざかっていく描写を、人間を小さくすることで表現した。

「歌舞伎の神様みたいに言われてる五代目が、明治時代にそんなことやってんだから。今ぼくがやってることなんて“攻め”でもなんでもないんだよ。そもそも“何かをしてやろう”っていう、それこそが歌舞伎の精神。いまは守りが多くなっちゃったんだよね。ちなみにその、遠目の小さなスペンサーをやったのがうちのおじいさん、六代目菊五郎・当時7歳。ぼくの細胞のどこかでひいおじいさんたちが“やってみろ”って言ったのかもしれないね」

中村勘三郎の“攻め”は、歌舞伎の本質を突いたものだったのだ。今だから“攻め”と見られるだけ。だが、実現のタイミングは、今だからよかった。

「それは、時節というものがあるから。あせることはないんだよね。思い続けてりゃ、できる時が来るって。その代わり本気で思い続けてないと、消える。この間、松坂(大輔)くんと向こうで食事したんですよ。すごいなと思ったのは“夢がない”って言ったこと。あらゆることに対して“叶う・叶わない”じゃなくて“やりたい・やる”で対してるんだから。でも本当ですよ、それは。ずーっと、やりたいやりたいって思ってればできるようになる気がする。あとは、運。ぼくには今のところ運はありますね。これでないって言ったら、みなさんに失礼だよね」

1955年5月30日、十七代目中村勘三郎の長男として東京都に生まれる。2歳から日舞を始め、59年4月『昔噺桃太郎』で、五代目中村勘九郎として初舞台。25歳のとき中村芝翫の娘・好江と結婚。勘太郎、七之助の父となる。歌舞伎の舞台と並行して29歳で井上ひさしの『藪原検校』に主演。同じころ、琴平の金丸座を訪ね、再建に尽力する。35歳のときテレビ番組『今宵はKANKURO』のホストを務める。96年より串田和美と組んで『コクーン歌舞伎』スタート。江戸時代の芝居小屋を再現した平成中村座は00年~。04年、07年にはニューヨークでの公演も実現。05年に十八代目中村勘三郎を襲名。46年ぶりの主演となる『やじきた道中 てれすこ』など、守りつつも攻める姿勢は貫かれ続ける。

■編集後記

20歳のころ、先代勘三郎の公演で「アメリカに行き観客の観方に圧倒された。みんな前のめりで観ていて、演じる側からすれば怖い」。00年、初めて平成中村座を立ち上げたのは隅田川のほとり。芝居小屋ではなくテント公演だった。せっかちを自認するけれど実は相当な粘り腰。こうと思ったことは20年越しで実現する。「いくらせっかちでも、できないときにはできませんからね。そんなの20歳でやろうとしたら、役者をやめさせられてますよ(笑)」

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
サコカメラ=写真
photography SACO CAMERA
村上智子=ヘア&メイク
hair & make-up TOMOKO MURAKAMI
高野いせこ=スタイリング
styling ISEKO TAKANO

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