「からだがありゃなんとかなんだろう」

麿 赤兒

2008.01.17 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
大駱駝艦とは何かそこで行われるものは

麿 赤兒のメインの活動場所は『大駱駝艦』という舞踏集団である。

演劇を志して奈良から上京したのが62年。その後、紅テントで当時のアングラ演劇界で多大なる影響力を持つことになる唐 十郎の『状況劇場』に参加。一方で『暗黒舞踏派』を名乗っていた、そして“舞踏”という新しい踊りのジャンルの起源と言われる土方 巽に師事する。

72年に『大駱駝艦』を旗揚げ。“天賦典式(=この世に生まれ入ったことこそ多いなる才能とする)”をセオリーとして活動してきた。簡単に言うと、人には必ず何か生まれ持った取り柄があるということ。

「肉体がそうです。でも、からだの大きい小さいじゃない。見せるのは背負ってきたもの。よく人に言うんですけど、“お前の背後には何百人という人間がいるんだ!”って。じいちゃんがいてひいじいちゃんがいて、そういう血縁だけじゃなくいろんなものが延々と続いて“今、お前をこうして歩かせてるんだ。背後にあるものを背負え!”って。エラソーだね(笑)。でも、それで変わる。背後にあるものを意識して歩くと、前に出る力が生まれる」

“背後”は歴史と言ってもいい。25歳のごく普通の男女の肉体にも、25年間生きてきた歴史が刻まれている。水泳やってて肩幅が広いとか、姿勢が悪いとかやせてるとかも歴史。立派な表現のひとつである…たぶん。

大駱駝艦の踊りは独特だ。人は普通、何か目的を持っていろんな動作をする。赤ちゃんのときにはまったく意味のない動きをするけれど、成長するにしたがって自然に、無駄なことはしなくなる。その淘汰されていく“目的のない身振り”に、麿さんちの踊りの本質があるという。それをうまく捕まえて、あとは自分の周りにある“空間”に身を委ねてみる。

学校は新宿の喫茶店。原点にたどり着くまで

麿さんだって、最初は普通の演劇青年だった。上京当時は、中学時代から憧れていた新劇の研究生になった。

「でも政治の話ばっかりしてるんです。60年安保の名残。そこがそのうち解散しちゃった。その後、若い者たちで劇団を作るんだけど、舞台の本番前日に俺が警察に呼び出されて。1年前のケンカの件で逮捕ですよ。“明日本番なんです!”って言っても、警察は知ったこっちゃないよね(笑)」

結局、その劇団にもいづらくなり、ニート街道一直線。居場所は新宿の『風月堂』という喫茶店だった。

「そもそも家がなかったから(笑)。そこにはエセ芸術家に政治運動くずれ、いろんな“卵”…わけわかんないのがごろごろいて。70円のコーヒー1杯でボーッとしてるわけです。芝居には未練があったけど、新劇には飽きが来ていて。そこに行くと、絵が売れて小金を持ってる絵描きとかが“キミひまそうだねえ、一杯行くか”とか声を掛けてくれたり。それでそいつらに絵のことを教わったり。“風月”で隣に座るとお互いのことをしゃべるんですよ、ひまだからね。全然知らなかったことをいろいろ勉強できたなあ」

試験を受けて入った大学は、結局ロックアウトで行かなくなった。かわりに「店が僕にとっての学校でしたね」。

そして唐 十郎と出会うのもここ。

「ある日、かわいい顔した男の子が “一緒にお芝居をやりませんか?”って。それが唐。ダンボールの切れ端にちょちょっとセリフを書いて、“こういう芝居をやるんですけどいかがでしょうか?”って。ダンボールに書くことも、セリフ自体もまた面白くて」

またあるとき、すごくカワイイ女の子にちょっとしたバイトに誘われた。「“何?”って聞いたら“ついておいで”って。フラーッと行ったら、天井がアーチ型になった洋館でね。中西夏之とか加納光於とか、当時のそうそうたる画家の絵が、ポッと掛けてあってね。そこに冬の日が差して…そんなアーティスティックな空間でドテラ着たあんちゃんが“おーい、餅食うかあ”って。田舎もんの俺は一発でやられました。自分もいっぱしの芸術家気分になって。それが土方さんだったんです」

バイトとはキャバレーでの金粉ショー。

舞踏の公演をする資金を得るための手段だった。結局それから約3年、麿青年はその稽古場に居つき、舞踏と金粉ショーに勤しんだ。並行して同じ場所で唐との芝居の稽古も行った。

「俺は唐の芝居にどっぷりと浸かって。土方さんに関しては、その人間としての面白さに一発でやられてしまったんだけど、ホント、舞踏をやるつもりなんて全然なかったんですよ」

状況劇場で都合7年活躍。麿さん、俳優としての評価も人気も得るけれど、なんだか飽きてしまった。

「よし、金儲けじゃ!」と、若くして断筆して商人として成功した天才詩人・ランボーを標榜するも失敗。「なんかやんべ」と声を掛けたら、かつてのファンが10人ほど集まった。

「“なんか”ったって、なんもないんですよ。今さらセリフで芝居はできない。それは唐が天才的にやってみせている。俺、何ができるんだ、と。とりあえず劇場は借りとこう。借りたけどやることねえぞ…よし!」

踊りは意識していなかったという。ただそれまでの経験で、しっかり身についていたひとつのことに気づいた。

「舞台にからだ転がしておいて、いい音楽を流しとけば成立するんじゃないの、って(笑)。“からだがありゃなんとかなんだろう”ってことですよ。それがすべての原型。やっていくうちに、どこかで存在…そこにいることがどれほど重いのかが分かってきた」

そうして大駱駝艦は“舞踏”を世の中に知らしめ、“BUTOH”として世界に知らしめ、35年を生きてきた。

一方で、江田島平八なのだ、この人。表現には随分な差があるような…。

「それは、第三者の目玉に自分自身を預けてしまうことです。“どうにでもしてください”みたいな(笑)。赤ん坊になれちゃうところがある。それはすべてに責任を持つという踊りの方の立場から解放される…“そのために映画作ってんじゃねえ”って怒られるかもしれないけどね。だから、楽なんですよ。それと、自分が踊りでそれなりに培ってきたものが、踊り以外のそういうところでどれくらい通用するだろうかっていう試みもあるしね。普段、若い者をいじめてるから、いじめられたいんだよね(笑)」

1943年、奈良県出身。62年、早稲田大学文学部入学のため上京、「ぶどうの会」に入団。64年、唐十郎の劇団「状況劇場」に合流。並行して舞踏家、土方 巽に師事。しっかりとした俳優さえいれば演じられる場所は問わないとする唐十郎の「特権的肉体論」を具現する役者として活躍。72年、舞踏集団「大駱駝艦」を旗揚げ。「天賦典式」という独自の表現形態でこれまでに60以上の作品を世に出した。82年にはフランス『アビニヨンフェスティバル』とアメリカの『アメリカン ・ ダンスフェスティバル』に参加、「Butoh」を世界に知らしめる。80年代後半以降、テレビや映画への出演も顕著に。『太平記』『葵~徳川三代~』などの大河ドラマや『濱マイク』シリーズなど出演作多数。ドキュメンタリー『裸の夏 The Naked Summer』は1月19日(土)よりシアター・イメージフォーラムで公開。公開前からハマリ役の声もグイグイ高まる江田島平八を演じた『魁!!男塾』はゼアリズエンタープライズ配給で、1月26日より(土)より、シネマスクエアとうきゅう/シアターN渋谷他全国公開。

■編集後記

唐 十郎は『風月堂』で麿 赤兒に声を掛けるまで、相手が役者だとは知らなかったらしい。「竹内 健っていうフランス文学者がいてね、その人はだいたい誰が何者かを知ってるんです。どうも唐が相談したみたいだね、“役者探してるんですけど”って」。また金粉ショーをやるきっかけもこの店だったが、『大駱駝艦』旗揚げ後、同じように麿さん、舞台の制作費を稼ぐのに、金粉ショーを始めたらしい。唐 十郎もまた、金粉ショーで舞台の費用を捻出していた。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
稲田 平=写真
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