「あがいてあがき続ければ、いつかご褒美が」

吉田照美

2008.05.15 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
気弱に慣れるべからずショック療法で克服

早稲田大学アナウンス研究会は、あの逸見政孝やNHKで大相撲を実況した杉山邦博らを輩出した名門サークルだ。吉田照美は現在57歳で、テレビやラジオで活躍しているけれど、34歳までは文化放送のアナウンサーで、さらにその前は、そのサークルにいた。

「初めてテープレコーダーで自分の声を聞いたとき、“なんて暗いんだ”と愕然とした思いがあって。対人恐怖症でもあったので、これは治したいなと。普通に人前でしゃべれるようになるために、入ったんです。でも夏合宿のフリートークで名前以外はひと言もしゃべれなかった。すごい挫折感でした」

そして、アナウンサーになるつもりもないのに、さらにアナウンス専門学校に通い始めることになる。

「気が弱いわりには、なんとかしなくちゃいけないな、という気持ちがどこかにあった。密かに自分を鍛えなきゃいけないなというか、次回また来年同じようなイベントがあるわけで、そのときにちょっと見返したいという気持ちがあったわけですけどね」

気弱さを自覚しているから、克服のためのモチベーションが働いた。そんじょそこらの気弱ではないのである。

「幼稚園ぐらいの話に戻っちゃうんだけど、いつも1歳年上の幼なじみの女の子に泣かされ、同い年の男の子からも泣かされてたわけですよ。そしたら僕の死んじゃった父親が、なんとかしなきゃならんと思ったんでしょうね。僕の記憶の中では、下駄が片っぽ脱げた状態で帰ったら、親父がその下駄を握りしめながら相手ともう一回ケンカしてこいって激昂してるんです。じゃないと家に入れないと。それで、しょうがなくその子のところに行って…頬をつねったとか、その程度だったと思うんですけど、泣かすことになっちゃって。だってうちの親父、僕の後ろで腕組みして見てんですもん(笑)。相手の子だって手出しできないよね。しかも、その様子を全部向こうのお母さんに見られているという(笑)。でも、身に染みてわかりました。やられっぱなしはいけないんだって。こんなショック療法が大切なんだと知りました」

大学2年のとき、サークルの先輩がニッポン放送でアナウンサーとしてデビュー。遅まきながら聴き始めたラジオの深夜放送にも、小島一慶など新しい世代のアナウンサーが出始めていた。

「自分にもできるかも」という思いが発生してしまうのである。

できることをするしかないそれを続けてきただけ

運がよかったのだという。ヤマが完璧に当たって大学に合格し、「たまたま自分が丸覚えしていた素敵な文章があって、それが見事にはまるテーマが出題されて」文化放送に採用された。

「作文で採ってくれたらしいです(笑)。しゃべる技術の方は、当時の入社試験のテープが残っているんですが“こんなんでよく入れた”というシロモノで」

そもそも口べただし特筆すべき技術もなかった。最初の仕事は相撲のレポート。支度部屋で得てきた情報を、実況のサイドで報告する仕事だった。

「相当鍛えられましたね。右も左もわかんないのに、三保ヶ関部屋かなんかに、朝稽古から行かされるわけです。僕がどこの誰かも向こうにはわからないし、僕は僕で、見ていても、とくに何も報告するべきことが見つからないんですよね。メモとペンだけ持ってひとりです(笑)。誰も教えてくれないから、最初は他の記者の人たちの様子を見ながらくっついて行って、後ろから話を聞くという。また聞きみたいな取材ですよね(笑)。お相撲さんもサービス精神があるわけじゃないので、何とかそこから自分でネタを拾ってこなければならない。4年半やりました。これもまたショック療法。つらかったけど、ものを覚えるにはてきめんでしたね」

勉強したことは少なくなかった。

「与えられた時間を一生懸命頑張ってあがいていれば、きっと何かネタが生まれる」ということ。「それが小さな話題でも、針小棒大っていうと言葉が悪いんですけど、面白おかしく伝えれば面白いネタだと思わせることができる」ということ。「面白いことは転がっていない。まずは自分が面白がらなければ面白くならない」ということ。

ちょうど20代半ば、このころがまさしく青春時代だったという。大学生のころは学生運動が盛んで、「僕自身はノンポリで、運動をやっている人たちの言葉も通じてこないところがあったけど、青春を謳歌してはいけない感じがありました。やり残していた青春がくすぶっていたんですね」。それがうまく仕事とリンクしたのかもしれない。

相撲と並行するような形で担当した『桂竜也の夕焼けワイド』の街レポート。歌を歌いながら街を行き、目隠しをして女湯に入った。社内的に、ヘンなヤツだと認定された。そして27歳のとき、深夜番組『セイ!ヤング』のパーソナリティーに抜擢される。

「これはご褒美でしたね(笑)。天にも昇るような気持ちでした。が、タモリさんの『オールナイトニッポン』の裏だったので、それはもう大変。ここでまた挫折感を味わうわけですが…」

またもや気弱。そしてコツコツ克服。

「若いころにやり損なった青春を、やり直そうと。若い子がやるようなヘンなことを街なかでやるわけです。そもそも自分に何もないから、そういう放送しかできないわけですよ。当時の深夜放送はシンガーソングライターの人が王様。みんな旅に行ったりして、いいエピソードをいっぱいお持ちでした。僕はぺーペーのアナウンサーで会社と家の行き帰りしかないから、自分で面白いことを作り出すしかない」

リスナーを集め、国鉄の車内で突如乾杯を始める「乾杯おじさん」に、学生服を着て合格発表の日に東大構内で胴上げされた「東大ニセ胴上げ事件」、テーブルの下でわざわざ食事をする「帝国ホテルでランチ」などなど。

熱狂的な固定ファンを獲得、2年半で午後9時台に移動し、中高生の圧倒的な支持を得ると、今度は日中の帯番組で働く人々を虜にして20年、そして現在は早朝の帯番組で30代から60代にアタック中。気弱な男はいつしか、ラジオ界のエースとなっていた。

そうそう、その間にフリーになっているのだ。それは、サラリーマンだったら異動で、一生アナウンサーでいることができなくなりそうだったから。

「売野雅勇さんという作詞家の方にお話を聞いたときに、“才能は持続力だ”とおっしゃったんですよ。あきらめちゃう人が世の中にはいっぱいいて、僕自身にも一般的に言う才能なんて何にもなかったし、アナウンサーにだってめちゃくちゃなりたかったわけじゃなかったんだけど、とにかくあがき続けてきたら何とかなったんです。なりたいとかやりたいとか思い続けて、続けてくると、きっとご褒美がくるよ的なね、その感覚は真理だなと。何だか身をもって学んだ気はしますね」

1951年東京都生まれ。早稲田大学卒業後、文化放送に入社。相撲支度部屋リポートを担当、『桂竜也の夕焼けワイド』の中継コーナーで、面白さを開花させる。78年からは深夜放送『セイ!ヤング』のパーソナリティに。その後は『吉田照美のてるてるワイド』『吉田照美のやる気MANMAN』と徐々に時間帯を遡り、現在では『吉田照美のソコダイジナトコ』(文化放送)で月~金朝6:00 - 8:30を担当。85年にフリーとなり、テレビなどでも活躍。あの『夕焼けニャンニャン』や『11PM』などの司会も務めた。現在は『ラジかるッ』(NTV)にてDJ TERUとしてラジオっぽく活躍中。企画から加わった『温水洋一・吉田照美の気弱な男の反抗術〈家庭編〉』は現在発売中。また趣味で始めた油絵の初めての個展を開催。5月29日(木)~6月4日(水)東武百貨店池袋店6階にて。

■編集後記

念願の深夜番組を担当したのが27歳。が、2年半で終了。“てるてるワイド”という中高生向けの番組が始まる。「深夜を続けたかったんです。浅い時間で中高生向けはやりたくなかった。でも実際にやってみると関係ないんですね。これを6年やって、今度は昼間をやれと言われて。そのときも“大人相手は面白くない”と思ってたんですが、やってみると関係ない。ラジオはね、どの時間でも、そこでしか聞けない人との出会いだなと思えるようになってきたんですね」

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
稲田 平=写真
photography PEY INADA

関連キーワード

注目記事ピックアップ

 

編集部ピックアップPR

ブレイクフォト