「スポーツ選手でも“こんなこと”ができるんだ」

荻原健司

2007.09.20 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
歩くことで知る。世界の今、自分の今

「歩くことで、普段感じることのできない様々なことを感じられる。それ自体も素晴らしい経験だと思うし、そこから環境保全のことを考えたり、自分と向き合ったり、日々の生活に思いを巡らせたり。何かしらのきっかけになればいいなと考えているんです」

歩くことに特別なスキルはいらない。そのせいか、ウォーキングのイベントの参加者は中高年層が中心だともいう。

「若い人たちが、仕事が忙しいのはよくわかるんですよ(笑)。でも、だからこそ歩くことでリフレッシュしてもらいたいんです。ウォーキングイベントに参加して、自然の中を歩く気分は格別です! それが無理でも、普段から歩くのがいいんじゃないでしょうか。僕も実はいま日常的には運動不足なんです。だからなるべくエレベーターを使わないとか、少しの距離は歩いちゃうとか…小さなことですけど、実践してるんです。そうすると実感します。ああ、体力が落ちたなあって。たぶんエレベーターや自動車を普通に利用してると、そういう体の変化にも気づかなかったんではないかと思います」

“キング・オブ・スキー”が都会で運動不足…果たして“ノーマル・オブ・サラリーマン”はどうなんだろう。日々激しいトレーニングを積んできただけに、運動のできない環境に暮らすのは「相当気持ちが悪い」という。

「汗の出方も変わってきました。だけど、アスリートじゃない自分を受け入れることは必要だと思うんですよ。元スポーツ選手って、誘われて急にスポーツの大会に出るケースが結構あるんです。そのときによくアキレス腱切ったりじん帯伸ばしたりしちゃうんですね。引退後に何もしていないのに、選手のころと同じつもりで行くから。僕もスポーツドクターに釘を刺されました。“もうオマエは引退したんだから、スポーツをやるときは現役時代のことは忘れろ”って。受け入れて抑えてるつもりではいるんですが、それでもいろんなスポーツイベントにゲストとして呼ばれて行くと、キモチは走っちゃうんですよね(笑)」

筋金入りのスキー一家。でも楽しさしかなかった

69年、群馬県・草津の生まれ。アルペンの選手だった父上の指導のもと、小さいころからスキーを始めた。選手を意識したのは、小学5年でジャンプの少年団に入ってから。3人いるお姉さんも、実はスキー選手として活躍していた。うち2人は、クロスカントリーの中学全国大会で優勝しているほどと聞くと、どうしても星一徹的な、スパルタぶりを想像してしまう。

「厳しいと思ったことはないですね。熱心だったとは思います。基本的にスキーは子どものころからの遊びでしたから。親父と競争したり、弟と競争したり、基本だとか技術だとかじゃなくて、楽しかっただけなんですよね」

だが結局、息子2人も世界的なスキー選手に。ひょっとしたら、楽しさというオブラートにうまく包んでスキーを指導していたのかもしれない。

「いやあ、親父はただ純粋に僕らの親父だっただけです。うちは建築資材の販売が家業なんですが、そっちを僕に継がせたいという気持ちの方が、むしろあったとは思いますけど(笑)」

だが、スキーという“遊び”が、少しずつその域を超え始める。“決意”というほど大層ではない、というけれど、それまでとは変わった瞬間。

「印象的な親父の言葉があるんです。小学5年の冬ですかね。夕飯を食べ終わって、僕が居間で寝転がってテレビを見ていたんですよ。仮面ライダーとかウルトラマンとか、ああいうテレビの中のヒーローによく憧れていたんですね。で、なんとなく親父に“テレビに出られるようになるにはどうしたらいいの?”って質問した。“なんだ健司、そんな簡単なことか”って言うんです。“スキーの選手としてオリンピックという大会に出てな、金メダルっていうのを取れば毎日テレビに出られるぞ”って。“そんな方法もあるのか”と思いました。ヒーローか歌手か俳優になるしか、テレビに出る方法はないと思ってましたから…いや、そんなに出たかったわけじゃないですけどね(笑)。でも、小さいときからずっと好きで楽しかったスキーで、自分の一番得意とする分野で、なんとなく“達成できる”と思った瞬間だったんですね。親父はその話、全く覚えてないんですけど」

だが、日本では、スキーの世界にプロはない。

金メダルを取って変わった、アスリートの存在意義

「大学4年生に上がったときに、ひとつの決心をしました。この1年間を最後に選手を辞めようって。高校2年生から海外の試合に出始めていたんですが、勝てる選手ではなかった。ずっと50人中30~40位ぐらい。続けてもきっとこれ以上良くはならない、オリンピックで金を取るようなことは無理だろうなって思ってたんです」

卒業を機にやめよう。どうせやめるなら、こだわる必要はないじゃん。

「何をやってもいい、と思いました。自分のスキーを良くするという大前提で。僕はジャンプが苦手だったので、とにかくゼロからやり直そうと」

V字ジャンプを取り入れ、92年アルベールビル冬季五輪で団体金メダルを獲得するのだ。今ではごく普通のスタイルだが、当時の日本チームでこの飛型を選択したのは荻原だけだった。

そこで変わった、という。競技を続けるという、人生の筋道はもちろん。アスリートとしての自分の持つ力。

「中学・高校・大学と“スキーを辞めたら何が残るんだろう”と思っていました。でも、メダルを取ってから日本中から手紙が届くようになったんです。スキーのシーズンって受験や卒業と重なるんですね。若い人たちの手紙の多くには悩みが綴られていて、でも僕の姿を見て“勇気づけられました” “夢をかなえるには努力が必要だということを教わりました”って。高齢の方や病気で長期入院されている方や障害がある方からも“頑張ろうと思います”“ありがとう”って。それまでは自己実現のためだけにスキーをやっていました。

“こうなりたい”という思いを、自分の好きなことで達成するんだから、頑張って当然なんです。でもみなさんは、そんな僕の活動の中に、それ以上の何かを見いだしてくれていた。スポーツ選手でも“こんなこと”ができるんだなと、実感した瞬間でしたね」

続く93~95年シーズンのワールドカップにおいて、荻原健司は3年連続の総合王者に輝くのである。

「そして“こんなこと”を将来的にも自分の取り組みとして続けていきたいと、考えるようになりました」

団体、個人合わせてオリンピックでは2度の金メダル、世界選手権で4度の優勝、ワールドカップでは通算19勝を収め、02年に現役を退く。そして04年、参院選に比例区から出馬し、当選。

「2年間は、悩みの時期でした。現役時代親父にも言われましたが“スポーツ選手は、今、強くなることだけ考えていろ”っていう感じできたもんですから。引退後の2年間は、競技生活を冷却しつついろいろ考えてきました」

そして出した答えが今の仕事。選手時代に漠然と感じた思いが、少しずつ実現しつつある。『R9プロジェクト』がそうだ。幼いころからスキーを続けてきたなかで得た“スポーツマンシップの大切さ”も伝えていきたい。

「自分のポジションでやるべきプレーって、べつに紙で説明されるものではないですよね。練習の積み重ねで、みんなが理解する。暗黙の了解でやるべきことを知りながらポジションに付いていると。そんなことで、社会は成り立っていると思うんです。与えられた役目やルールのなかで、自分がなすべきことは、自覚しておくしかない。これもある意味、社会におけるスポーツマンシップだと思っています。それを尊重することで初めてチームプレーが成り立つし、社会の…会社のなかの一個人が際立つと思うんです」

1969年群馬県草津町生まれ。子どものころからスキーを始め、小5でジャンプ、中学時代に複合に転向。89年、ソフィアユニバーシアードで優勝。91年には札幌ユニバーシアードで複合個人優勝。92年、早稲田大学在学中にアルベールビルオリンピック団体で金メダルを獲得。卒業後は北野建設に所属し、競技を続ける。94年リレハンメルオリンピックでも団体金メダル。93~95年、ワールドカップ個人総合3連勝など、世界的に活躍の後、02年、現役を引退。04年参院選で当選。日本オリンピック委員会アスリート委員会委員、日本オリンピック委員会環境専門委員会委員、日本スポーツ仲裁機構理事、財団法人全日本スキー連盟理事なども務める

■編集後記

「僕らが優勝したり日本チームが金メダルを取ったことで、たぶん外国の選手達やスキー関係者のなかにもルール不信が生まれたんでしょう。僕らはジャンプでグッと飛んで、そのポイントを貯金してクロスカントリースキーに繋げていく戦いでした。それが日本に不利に改訂されるようになった。30位とか40位だった選手がようやくここまで来たのに」。悔しかった。それをはねのけて、さらに優勝を積み重ねることが答えだった。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
稲田 平=写真
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