「前髪の長さを自覚すること」

吉井和哉

2006.09.28 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA サコカメラ=写真 photography SACO CAMERA …
フロントマンという位置とそこに立てるための才能

デビューはもちろん、ザ・イエロー・モンキーのフロントマンとしてである。アルバムごとに世界観を打ち出し、それに応じたライブパフォーマンス。デヴィッド・ボウイが『ジギー・スターダスト』で見せたようなグラムロックの高みを独自に消化し提示した。

「ぼくら、ややこしいヤツらでしたからね。パッとヒットしそうな曲を書いて売れていこうという発想がなくて」

バンドを結成したのは22歳のとき、最初はベースプレイヤーだった。音楽はずっと好きだったけれど、そのまま商売になるとは思っていなかった。

「23歳ごろ、イエロー・モンキーの初代ボーカリストが辞めるんです。ライブが決まってたから、次の人が決まるまでって、ぼくが歌ったんですが…そのときですね、やっていけるなと思ったのは。本当はピッチャーなのにずっとサード守ってたみたいな感じ」

ステージの中央に立ってみて、しっくり来る場所だということがわかったのだ。ぼんやりとその欲求はあった。欲求というよりは予感かもしれない。

「フロントに立って曲を作ってこういうことを歌えばきっと面白いことになるだろうな、という…ある種、これから起業するみたいな感覚。ぼくは中卒だし成績もひどかったんだけど、たぶん何か商売やっても成功してたと思う。生きるためのIQには、なぜか自信がありましたね」

デビューの期限は「25歳まで」と自分で決めていたという。自分の運命を早世のロックスターたちになぞらえた。

「ジム・モリソンとかジミ・ヘン(ドリックス)とか20代後半で死ぬ人多かったからね。みんな本当は気が弱くて、コンプレックスを抱えながら音楽をやっていたんですよ。だからドラッグとかに頼らないとロックスターでいる自分をキープできなくなってしまった。そうなっちゃダメだと思いながら、そういうロックが好きだったので、どこかで似たようなことしてました」

自ら設定した「25歳で決着つかなきゃ、辞めて普通の仕事」という決まりも作用し、“火事場のくそ力”が発生、「いまの事務所の社長から声がかかったんですよ、運よく」。

もちろん26歳になっても死ぬことなく、ザ・イエロー・モンキーはデビュー3年めの95年、8枚目のシングル「太陽が燃えている」で初のトップ10入りを記録。続く「JAM」は80万枚を売り上げる。バンドが活動を休止するのは01年、正式に解散したのは04年のことだ。

起こることは決まっている。いかに見せるかは自由だ

吉井和哉は言う、「運命を信じる」と。

「運命は、結局決められてると思います。自分で変えるとか言いながらも、“今回の人生”はろくなことなかった、みたいなことってあると思いますよ。長いタームで生まれ変わりながら、いろんなこと覚えていく気がします」

たとえば、よくこう言う―小さいころに父親を亡くしてなければミュージシャンになっていなかったかもしれない。裏を返せば、それもまた、運命。

「父が死んでもう35年です。ぼくは小さかったからわかんなかったんですが、母親はすごく悲しんだはずです。でもいまだにしくしく泣いてるかっていうとそうではない。それが父の人生であり、ぼくたちが生きてくために与えられた試練だったんじゃないかと思ってる部分もあります。そういう境遇が少なくともぼくにとっては、表現する上での武器になっているのは確かです」

そして「『SO YOUNG』(99年のシングル)以降、イエモンは終わった」とか、ある大規模なツアーに関して「成功ではなかった」とか言ってみたり。いわゆる“今にして思えば”ではなく、その渦中にいるときですら「これもまた運命」などと感じているのだろうか。

「感じてると思うようにしてるクセがありますね。たぶんそれは甘ったれて言ったんだと思います。『巨人の星』みたいに“なんでおれはこうなんだ!”と悩んで見せることで、ドラマチックに見せてしまうクセ。べつに隠そうと思えば隠せるし、言わないでおけば穏便にすませることができるのに言ってしまう。言うことによってドラマ性を帯びるし…まあ、あとはホントにバカなところもあるんでしょう(笑)」

見せる。魅せる。そういうスタンスがグラムロック的と呼ばれるゆえんだ。が、エンターテインメントの要素は強いもののフェイクではない。バンド解散以降、最近まで吉井和哉はなんだかわからない暗黒のときをすごしていた。

ポップで無責任な下半期あとは突っ走るのみ

転機。R25の大好物だ。

この言葉が、吉井和哉の書いたもののなかに登場していた。05年4月、ウェブサイトに掲載したコラムだ。

バンド解散後、YOSHII LOVINSONを名乗り、内省的な作品を作ってきた彼がはっきりと転機を自覚した瞬間。“おれは吉井和哉だ”と宣言する。

それが形になるまでに1年かかった。

今年の10月8日で40歳を迎える。年齢と誕生日と煩悩とを掛け合わせて、吉井和哉の初アルバムは『39108』というタイトルになった。2週間で曲をまとめ、レコーディング先のアメリカですべての歌詞を書いた。

「アルバムが完成してからようやく悶々とした気持ちが晴れました。これはね、厄払いのお札みたいなものです。本当はYOSHII LOVINSONで出した2枚のアルバムがそのつもりだったんですけどね…でも吹っ切れてる部分はたくさんあると思います」

ウェブサイトのコラムの今年7月の稿には“もう迷わない”“突っ走る”という表現。今度こそ本当の転機だ。新作は吉井和哉上半期・最後のアルバムを自認するものとなった。

「30代って責任を取らなくてはいけない世代だと思って生きてきました。20歳から39歳と、40歳から60歳は違うんですよ。40歳以降、やっちゃダメなことがたくさん出てきますよー。たとえばミック・ジャガーの前髪。今以上に伸ばしちゃいけない」

途端に下品なオヤジになってしまうから、だと言う。

「アレがギリギリ限界の長さ。“歳をとったらシルエットのきれいな服着てください”みたいなことを言うのと同じです。若いときは体がきれいだからオッケーだけど、40歳とかになるとそうもいかない。境目の時期だと思うんですよ。30代の責任っていうのは、こういう自分の変化のときに向かって落とし前をつけること。ぼくの場合、40代は分かりやすく無責任にポップな方に行こうと思ってるんですけどね(笑)」

30代は準備の時期でしたか、と尋ねると“いや、ここ1カ月で”と爆笑する。

「アルバムの『BELIEVE』という曲に、“出会いと別れのなかで人は強くなる”という詞があるんですが、別れたときに悲しんだり恨んだりする人がいます。それを気にしたら自分の人生が狂うと思う。“やりたいことなのに、その人が悲しむからやめよう”というのは間違った気遣いですよ。“ゴメン、やっぱりおれの人生だ”って、やった瞬間にすごく吹っ切れる。それが分かった瞬間がこの7月にあったんですよ」

自分の決意は長続きしないけど、と笑いつつも最後に大事なことを教えてくれた。それは“イギー・ポップは前髪が長くても大丈夫”ということ。

「ミックはアレだけのツアーをやって動員がいっぱいある。自分が最先端でいなきゃいけないと思ってるはずです。だからあの前髪なんです。一方でイギー・ポップみたいにいまだに前髪ドバーンって長くしてる人もいて、それもカッコいい。つまりいろんな品があって、その人なりの美学がある。そのへんが歳をとる難しさなんですよね。どこかでストイックさは絶対に必要なんです。じゃないとイタイ老人になるしかないわけですからね」

1966年10月8日、東京生まれ、静岡育ち。1988年にザ・イエロー・モンキーを結成。92年『Romantist Taste』でメジャーデビュー。95年の「太陽が燃えている」が初のトップ10入り、続く「JAM」もヒットし、30歳にしてのブレイクを体験する。以降は日本のロックシーンの中核を担うバンドのフロントマンとして活躍。04年のバンド解散に先駆け、YOSHII LOVINSONとして03年、シングル「TALI」でソロデビュー。『at the BLACK HOLE』、『WHITE ROOM』と2枚のアルバムをリリース。06年より吉井和哉名義で活動開始。初のアルバム『39108』は10月4日リリース。ツアーは11月8日の福岡より12 月27、28日の日本武道館まで全23公演の予定でスタートする。

■編集後記

デビューが、ギリギリ25歳。「デヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』と、三島由紀夫さんと美輪明宏さんの持っていた美しい日本人へのこだわり。それとあがた森魚さんにすごく衝撃を受けていて、バンド名がイエロー・モンキーだったので、日本人としてのバンドのあり方を必死で探してました。デビューしてセカンドアルバムから2枚連続コンセプトアルバム作って。そんなの売れないって(笑)。ホント、パッとヒットしそうな曲を書いて売れようという発想がなかった」

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
サコカメラ=写真
photography SACO CAMERA
二村 毅(FEMME)=スタイリング
styling TSUYOSHI NIMURA
須賀元子=ヘア&メイク
hair&make-up MOTOKO SUGA

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