「挫折している時間なんてなかった」

野口悠紀雄

2006.11.09 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
時間を一覧することで、有効に活用していく

日本の経済構造は戦時中のシステムであるとした『1940年体制』など、経済の専門分野における多くの著書や論文がある。が、広く有名なのは『「超」整理法』シリーズをはじめとする“「超」シリーズ”の著者として、だろう。従来の常識をまさしく超えた、資料の整理や英語の学び方、文章の書き方、勉強の仕方などをものしてきた。その最新刊が『「超」手帳法』である。

「スケジューリングというのは難しい作業です。人間はもともと農業をやって生活してきました。農業はスケジューリングが簡単。春に種まきをして秋に刈り取る、という年単位で考えればよいわけですから。たぶん本来の人間の能力はそこまでです。今のように複雑なことをやるようになったのは古いことではないのですね。たとえば、締め切り期限の違う仕事を平行して進めている。それらをうまく秩序づけるのは難しい。多くの手帳は見開きで1週間単位になっています。次の週はページを繰らないと見られない。予定を入れるときに、次の週を考えずに入れてしまうのはそのためです」

さらに先を見渡すことができていれば、つまらない用事を重要な予定の直前に入れてしまったりすること(先生、これを「居座り案件」と呼ぶ)は起こりにくい。漫然と日々を過ごして、気づいたときには何もしないまま状況が変わっていること(こっちは「竜宮城シンドローム」)も少なくなるだろう。「私自身も抱えている問題です。それをどうしたらいいのかと、試行錯誤しているわけです。『超』整理手帳というのは、その結果です」

「超」整理手帳が生まれたのは1994年。きっかけは、アスキーという出版社からの“オリジナルの手帳を作りませんか”というオファーだった。

「せっかくだから、そのとき考えていたことを実現してみたいと、自分でプロトタイプを作ってみた」

当時は先生も、普通の手帳を我慢しながら使っていた。ちょうど『続「超」整理法・時間編』の執筆中だった。考えていたこと、というのは時間の一覧性について。プロトタイプにはすでに8週間一覧方式が導入されていた。

手帳は年々アップデートされ、ユーザー数もどんどん広がっている。

もしこのときオファーがなかったら、どうなっていたでしょう? と尋ねると、先生、「どうでしょうねえ、自分で作って一人で使っていたかもしれませんねえ」と笑った。

経済学者であり、原則の人である

手帳本体はもちろんだが、本にも“使い勝手”のよさが意識されている。たとえば…「私は“索引のない本は本ではない”…という主張をしていますから、必ず本には索引をつけます。『「超」手帳法』には言葉の索引と問題別の索引をつけました」。また各章に「まずやってみよう」という提案と「まとめ」がある。これに関しても「“本は全部読む必要がない”というのも、私の主張です。重要なところだけ読めばよい、だから重要なところを見つけ出しやすいように書いてあるのです。本を200ページなり300ページに作るのは、出版社の都合。本当は10ページですむ本が多い(笑)」。さらに、前述した「居座り案件」「竜宮城シンドローム」などのネーミングについては、「長ったらしく言ってもダメ」なのだという。

「私は“重要なことは簡単に表現できる”という信念を持っています。たとえば学生に論文の説明をさせるとき、“要するにあなたが言いたいのはどういうことか、一言で言うとどうか”と言うと、15分ぐらい話す場合が多い。本当に重要なことを見つけていないから、わかってないからです。重要なことは、本当は一言で言えるはずです」

揺るぎない。とりあえず本に関してだが、ビシッと筋が通っている。こうした信念が生まれいずる過程を尋ねると「原則です」。

「私は“原則の人…man of principle”だからですよ。私は原則に忠実で、原則を振り回したい。正しい原則があると信じています。あるとき、それに気がつき、だんだんそれが正しいと考えるようになり、強固に主張すべきだと考えるようになった。場合によっては、間違っていたとわかって、捨てることもありますが。ただ、原則は貫きたい」

発明家ではなく経済学者である。何より原則の人である。

25歳のときには大蔵官僚だった。

後押しされても何でも、重要な決断は簡単である

「1日中仕事をしていました。1日中というのは…本当に1日中です(笑)。私が主計局にいたときは、ひと月の超過勤務が300時間を超えました。だから、挫折している時間なんてなかったのです」

とにかくその日のことをこなすことに精一杯。しかも嫌々ではなく夢中で。

ハードワークなので部署は頻繁に変わった。まず理財局に2年、理論研修を1年やり、建設省に出向になる。そこでアメリカ留学試験を受ける。

「その前にたまたま政府募集の懸賞論文で一等になっていて、私は結構有名だったのです。それで課長が“この試験受けないか”と言うもので(笑)。留学するつもりはなかったのですが」

1年間の奨学金をもらい、UCLAへ。期限が終わったら帰国して、大蔵省でこれまでどおり働くつもりだった。

「そのときの先生が非常に魅力ある講義をしてくれた。ヤコブ・マルシャックという、数理経済学を作ったような先生ですね。私もこの学問をやりたいって思った。でも結局帰ってきました。期限なんだから、これで終わりにしようと。そしたら、私の1年下のある男が、“途中でやめてはいけません。おれが全部セットしてやるから最後までやりなさい”と、私を押し出してくれた。彼はちょうどアメリカでPh.D(博士号)を取って帰ってきたところ。それが榊原英資という男です」

後に“ミスター円”の異名をとる経済学者である。そうして28歳の先生、今度はエール大学へと旅立ち、2年間でPh.Dを取得したのである。

「留学していたときも何も考えるヒマはなかった。勉強していただけですから。私はアメリカへ行って、自分のアパートと教室と図書館以外何にも知りませんでした。ときどき街に出て“ああ、ここはアメリカなんだな”と実感する程度。そのときは、“アメリカを簡単に見学できて便利だな”と思っていました(笑)」

帰国後、大蔵省に2年いて文部省へ出向。一橋大学、東京大学で経済学を教えることになる。

しかし先生の人生、ことごとく誰かのプッシュが作用している。大蔵省での2度の留学しかり。いや、そもそも大蔵省に入ったのも、そうらしい。経緯を超ダイジェストで描きます…東大では工学部で、たまたま公務員試験を受け、冷やかしで通産省を受験。佐橋滋(有名官僚です)と握手して帰宅したら、大蔵省からTELあり。出向くと高木文雄(後の国鉄総裁)が“オマエを採る”“通産省の始末はつけてやる”と。

「自分でやろうと思ったわけではなかった。しかし、いずれも正しい決断だったと思っています。重要な決断は非常に簡単なのです。いろいろな要素を考慮して“コレが60点でこっちは40点だからコレをしよう”などというものではないですね。わかってしまう。他人に言われても、正しいと思わなかったら、しなかったでしょうね」

この先、自分はどうなっていくのだろうなんて、考えるヒマがなかったという。今もそうらしい。

「充実してたと思いますよ。そういう余計なことを考えるヒマがないんだから。遊びは仕事しているときで、仕事は遊んでいるようなものです。私に区別はない。私にはオフの時間はありません。みんなオフともいえるし、みんなオンともいえます。私は嫌な仕事はやらないからだと思いますね」

かっこいいですねえ、とつぶやくと先生、「というより、大変恵まれてると思います」とにっこり笑った。

1940年東京都生まれ。東京大学工学部卒業後、大蔵省(現・財務省)入省。26歳のときUCLAに留学。72年エール大学にてPh.D取得。帰国後2年間大蔵省勤務を経て、一橋大学、東京大学教授などを経て、東京大学先端経済工学研究センター長を最後に退官。80年に『財政危機の構造』(東洋経済出版社)を中心として、サントリー学芸賞、政治・経済部門受賞。93年の『「超」整理法』(中央公論社)から始まった「超」シリーズで学問畑以外からも認知され、人気を得る。現在は早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授。94年からリリースされた独創的な「超」整理手帳もますます好調。

■編集後記

大蔵省で激務。「一般的にダラダラやっていると思われがちなんですが、大蔵省はまったくそんなことはありませんでした。会議なんかでも3人ぐらいでサッとやってしまう。終わって自分の机に戻ってきたら、局長から電話で“さっきの資料できたか?”って…できるわけないですよね(笑)。そういう環境にキャッチアップしなきゃいけなかったんです」。だが、イヤではなかった。そこからつねに「やりたいこと」を見つけ、まさに高きへ高きへと渡ってきたのだった。

武田篤典(steam)=文
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稲田 平=写真
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