「全部、偶然ですよ」

小山薫堂

2006.11.22 WED

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA サコカメラ=写真 photography SACO CAMERA
偶然思い出し、そのまま出てしまう

「文化放送というラジオ局でアルバイトを始めたんです。そこで僕の先輩がやっていた番組が『ミスDJリクエストパレード』。しゃべり手で千倉真理さんという人がいました」

現役女子大生がパーソナリティとなり、後の女子大生ブームのきっかけになったといわれる番組だ。

「先輩に紹介されて面識はあったんです。それで大きなお世話ながら、18歳の僕が20歳の彼女のことを“この人どんな女になるんだろう”って、気にしてたんです(笑)」

そして2006年。“覚えてらっしゃいますか”というような書き出しで、小山薫堂の事務所ホームページに、彼女からメールが来たのだ。

「“あーっ、千倉真理だ!”って。彼女は千倉書房という出版社のお嬢さんで、ずっとフランスに暮らしてたんですが、帰国することになって、そのときにフランスの書店で偶然、この本を見つけたそうです。で、これをぜひとも日本で出したいと」

実は『Moi, J'attends…』はイタリア語とドイツ語とスペイン語と英語に訳されていて、世界的に有名な絵本だった。出版社からOKが出るまでに1年待たされたという。

「最初は自分で訳してみたそうです。それがどうもしっくりこない。なんとなく表紙を見てるうちに僕のことを思い出したらしいんです(笑)。それで僕のところに来たんですよ」

23年間没交渉で、顔がなんとなく似てるという理由。偶然も甚だしい。

小山薫堂は『Moi, J'attends…』を読んで「“まってる”って言葉がいいなと思いました。でも、相当迷いました。そして最後、“まってる”に戻ってきた」という。そこには日本人の“待つこと”に対する人生観をめぐる一考察があるのだが、「まあそれは読み解きたい人が読み解けばいいので」、このシンプルな題となった。

偶然はついて回った。日本語訳を、書類としてメールで送ったりせず、フランス語版のカラーコピーに、直接手書きして渡したという。

「味気ないと思ったんです。そしたら“このままでやりたい”って。手書き文字にしたいって言われたから、“じゃあ書き直します”って言ったんですけど“この字がいい”って。もっとうまく書けるんで、書き直したかったんですけど(笑)」

こうしてこの本がある。読んで目頭を押さえるのもいいが、どうせなら25歳以上男子、うまく活用したい。

「それは考えてあります(笑)。ひとつは、本に書かれてるいろんな“まってる”のなかから、いま自分に合う“まってる”状況をマーカーでピッと塗っちゃう。あるいは、一番最後のページをわざと空けてあるんですが、そこに “きみからのメールを待ってる”って、相手に渡したりするといいんじゃないかな」

人を選ぶワザである。

面白いつながりがあり、新しい何かを生み出す

さて放送作家になったのも、絵本同様、文化放送でのアルバイトがきっかけ。大学4年のときに、先輩作家の長谷川勝士から『11PM』の仕事を紹介され、デビューする。

「最初はビデオアーティストになりたかったんです。今年亡くなったナム・ジュン・パイクにあこがれてました。高校時代は詩人になりたかったんですけどね」

大学1年からベータムービーで素材を撮りためたり、長谷川に誘われて三宅裕司とニューヨークを3人旅したり(そこでもパイクのビデオを探した)、アクティブな学生さんだった。いつしかビデオアーティスト熱は冷め、かわりに“一発当てたい”熱が浮上。大学3年の頃には、文化放送で番組を担当していた吉田照美と、口癖のように金儲け話をしていたという。

「当時、照美さんは『夕焼けニャンニャン』にも出てたんですよ。で、このとき〈セーラーズ〉っていうブランドがヒットしていた。とんねるずやおニャン子クラブが着て番組に出たからですよね。せっかく吉田照美も出てるんだから、僕らもブランドを自分たちで作って着ればいいじゃないか、ということになったんです」

ブランド名は〈バナナトリップ〉。竹下通りに物件を借り、ファッションブランド〈ピンクドラゴン〉を成功させて億万長者になった山崎眞行をスーパーバイザーに迎えてスタート。

「〈セーラーズ〉を追い越すアパレルをつくり、金持ちになろうというビジョンでした。大学の先生との面談で“就職大丈夫か”って聞かれたとき、バナナトリップの店長の名刺とノベルティのボールペンをあげて、“僕はこれでいきます。来年ぐらいにはすごいことになってますよ”っていう話をしました(笑)。何をいちばん間違ったかというと…吉田照美が着たことですね(笑)。そこがおニャン子と違った。むしろ照美さんが積極的に着すぎたのがダメでした」

10カ月で閉店。ショップの袋は、長らくゴミ袋として活用されたという。

「店を閉めたときには、僕、もう作家の仕事をしてました。そのとき吉田照美事務所の社員として給料もらってたんで“僕がマネージメントやります”って、1年ぐらいはマネージャーと作家を両方やってました。で、つねに“次は何をやろうか”“飲食じゃないっすか”って、本業じゃない儲け話をしてましたね(笑)」

そして放送作家として独立。原宿の店が失敗したとき、商才のなさには気づいていた。作家に自信があったわけではない。

「テレビの仕事は、面白いつながりがいろんな人と持てるんじゃないかと思って。将来を見据えたことはほとんどなかった。“何でこんな時間にこんなところでこんな遊びしてるんだろう”とか“何でこんな国にこんな人と旅行してるんだろうとか”(笑)。思いながらも、きっと将来の財産になると信じていました。無駄なことはたくさんしたけど、無駄だと思ったことは一度もありません」

面白そうで好きだからやってきたことが評判となり、得意芸と呼ばれるようになっていた。『カノッサの屈辱』は25~26歳にかけての仕事で、現代風俗を教科書風の切り口で見せるものだったが、第1回放送の企画は『ホテル』。高校時代から大好きで、いまや日光金谷ホテルの顧問である。

もちろん好きなことでも“そのまんま”では通らない。『料理の鉄人』でグルメの薀蓄を対決の図式に模したり、『お厚いのがお好き?』で難解な本を身近な例にたとえて読み解いてきた。

“視聴率を得るための宿命”と小山薫堂は言うが、ここのところに間違いなく得意芸のエッセンスがある。

「どれだけいろんなフィールドを持っているか、ですね。自分だけでは思いつかない。自分がアイデアの種…薬品を持っていると、違うジャンルの人と一緒になったときに化学反応が起きるんですよ」

それは偶然、起こる。“ノリとイキオイ”で過ごしてきた、20代のテレビの現場ならばなおさらだった。

「この絵本だってそうですしね。全部、偶然だと思うんですけど。僕ね、好きな言葉があって“現在は過去からの贈り物である”。だから現在は“the present day”っていうんだと。これも偶然に、ロンドンに住んでるあるアラブ人から教わったんですけど、つまりいまは未来への貯金みたいなものじゃないかな。そう考えると、つらくなくなる…ということをR25世代に言っておきましょう」

1964年6月23日、熊本県生まれ。放送作家、N35 Inc. 代表。日本大学芸術学部放送学科在学中より放送作家活動を開始。『11PM』でデビューし、90年『カノッサの屈辱』、ついで『進め! 電波少年』などを手がける。93年『料理の鉄人』ほか、オリジナリティあふれるお得意芸は深夜に多く見られる。2003年には「トリセツ」が国際エミー賞を受賞。現在は『世界遺産』『未来予報201X』などを手がけるほか、雑誌連載・ラジオパーソナリティ・空間プロデュースなどでも活躍。発想の元をひもとく『考えないヒント』(幻冬舎)も近日発売予定。オフィシャルウェブサイトは

■編集後記

大学時代から、業界に両足を踏み入れていた。サラリと、「長谷川と三宅とニューヨーク3人旅」というが、19歳の大学生が自腹でニューヨークである。みっちりと文化放送にバイトで入り、ほとんど使う暇もなかったのだという。「当時の仕送りが9万5000円、同じくらいバイトで稼いでましたから、学生にしては金持ってましたね」。その後、原宿にショップを出すときも資金の半分は自分で持つ予定だったらしい。就職活動なぞやるはずがないのも当然なのだ。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
サコカメラ=写真
photography SACO CAMERA

関連キーワード

注目記事ピックアップ

 

編集部ピックアップPR

ブレイクフォト