「きっかけは自分で作るしかない」

椎名桔平

2007.02.15 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA サコカメラ=写真 photography SACo CAMERA …
サッカー部の大学生が自称・俳優になるまで

大人の男以前はサッカー少年だった。高校生で国体三重県代表に選ばれ、よりレベルの高いサッカーのために東京の大学に入った。1983年のことだ。大学1年の後半にはレギュラーでピッチに立つようになったが、サッカーを職業にするつもりはなかったという。Jリーグはまだ、なかった。

「企業に入ってサッカーをしても、現役のときは仕事面でも優遇されますよね。でも引退したら…そこで初めてきちんと仕事を覚えて会社員としてリスタートするわけです。それじゃ到底追いつかないでしょ」

と同時に、サッカー以外の何かにぼんやりと引かれていたのも事実。郷里でやってきたことが東京で通用することがわかって自信がついたのだが「東京には、田舎にはない社会や文化がありました。サッカーとは違う可能性を試したい気持ちも生まれていました」。

まずスポーツメーカーのCMに出た。“サッカーのできる男”を探していたスタッフから、巡り巡って声がかかっただけの話。そして同じスタッフで別のCMを製作するというとき、再び声がかかった。運命が決まった。

「そのとき出会ったある俳優さんとのとのつながりで、この世界を目指すようになりました」

このCM出演が、サッカー協会にバレた。アマチュア規定に抵触し、大学2年の春から半年間の謹慎処分。

「監督に呼ばれまして。猪木さんのような愛の鞭をいただいて“3日間考えてこい”と。監督さんいわく、“本当に覚悟があって、その馬鹿みたいな世界に行くというなら、何も言わないが、そんな馬鹿なことは考えないだろうな”と(笑)。そこで“もういいかな”って思ったんでしょうね」

このとき21歳。先輩の経営するスナックで知り合った俳優・寺田農(大のサッカー好き)の付き人をしながら俳優を目指す。だが、“付き人は2年もやれば、現場のこともわかる”という師匠のポリシーで、意外と短く付き人生活終了、気づけば大学も卒業。

あらゆる“立場”を失うのである。

自分で決めて命がけで役になる

俳優。でも役はなかった。

「機会に飢えていました。役者として何らかの責任を持たされる機会を望んでいたんですが、実際に勉強をしてきてもいないわけです。たぶん機会をもらったとしても、できないんじゃないかという不安も同時にあって」

自分なりのトレーニングに取り組んだ。たまに得る役はほとんどしゃべる必要のないものばかりだったから。セリフを言いたくて仕方がなかったのだ。

「6畳のアパートにビデオカメラを三脚で立てて、買ってきた戯曲を演じるんです。それをテレビに映して見るんですが、見事にへたくそ。そんなことやってても、何の意味もないんです。結局うまくなるには、実際に演じるという経験を重ねるしかないんですよ」

梁山泊というアングラ劇団に籍を置いたりもした、演じる機会を得るために。そこで「本当の意味での役者になるのにはどうすればいいのか」をどっぷりと考えた。そしてあるとき、彼は自分に引導を渡すことにした。

「国際演劇祭で、ドイツのエッセンという町にいました。『芸能界紳士録』っていう本を持って行ってたんです。これまで人づてにいろいろ紹介されて事務所に入ってきたけど、今度は自分で決めた自分の入りたい事務所に入ろうと。そこにいらっしゃる役者さんの顔ぶれとかを見て“入りたい事務所ベスト10”を作りました。で、1番から順にアポイントとらないでアタックしようと。履歴書持って、アルバイトの面接みたいに」

10カ所行ってダメならやめる覚悟。そこまでダメなら、“演じる機会”以前の問題だと思っていた。

「自分であきらめるきっかけを作ろうと思ったんですね。“本当にできない”と実感しないと“俺には隠れた才能がある”とか思ってズルズルいく世界ですから。21歳からから始めて6年間、そういう思いを溜め込んでいました」

結果、ベスト10以外の事務所に入った。女優しかいないと思い込み、リストアップしていなかったのだ。

27歳。望んだ事務所に入り、椎名桔平という新しい名を得て、だけど変わらなかった。大きな変化が訪れたのは2年後、新宿の『談話室・滝沢』で映画監督・石井隆と向き合った瞬間だった。

「『ヌードの夜』という作品の台本をいただいて。これはうれしかったですね。サッカー部辞めて以来初めて、人生がキラキラッと輝いた」

根津甚八を慕う同性愛者で、彼を殺した竹中直人と敵対する青年の役。ようやく巡ってきた“演じる機会”の重圧は大きかった。神頼みをした。

「べつに宗教を信じているわけではありませんが…。僕には小さくて亡くなった兄弟がいて、当時、僕は神棚に毎日水をあげていたんです。それで願をかけました。“神様に10年分、僕の寿命をあげます、そのかわりにこの仕事の成功をください”」  

だが、プレッシャーをはねのけたのは神様ではなく、役に対する命がけの姿勢だった。

「やり方がわからないので、ずっと役の人物として生きていました。敵対する竹中さんとは、本当に失礼だけど、何のごあいさつもしませんでした。役の状態でいるしか僕には手段がなかったんです。バイオレンスなおにいちゃんの役だったから、入れ込んで大ケガもしたし、自分でも“ちょっと危ないところにキテる”という自覚はありました。撮影日が来るのが怖くて、でも楽しみで。うまくいくことをイメージするんだけど、失敗の恐怖感に苛まれて。この作品が人生のすべてでした。機会を逃したら、後がないって…」

椎名桔平はいまも役者を続けている。

「今はもう、あのころのような状態にはなれませんね…もちろんいまの方が、もっとうまくできると思う。でも捨て身のアプローチで役作りをするなんてことは難しい。いまもモチベーションを高く持って取り組みますが、あれだけ役と同化するような時間を作ることはもうないかもしれないですね。あの作品との出合いはラッキーなできごとだったと思います」

1964年三重県生まれ。高校卒業後、青山学院大学でサッカー選手として活躍するも退部。21歳にして俳優の道を志す。端役や劇団員を経て椎名桔平の名を得るのが27歳。92年映画『湾岸バッド・ボーイ・ブルー』に出演したのをきっかけに、翌年、石井隆監督の『ヌードの夜』に出演。危険なチンピラ役を熱演し、以降、石井作品には欠かせない俳優に。代表作に『化粧師』『クイール』など。99年には『金融腐食列島[呪縛]』にて日本アカデミー賞助演男優賞に。今後『アンフェア The movie』(3月17日公開)『サイドカーに犬』(07年)『魍魎の匣』(07年)が待機。『さくらん』は2月24日より関東ロードショー。

■編集後記

20代半ばで入ったのはアングラの流れを汲む『梁山泊』という劇団だった。「自分は世代が違うんだけど、唐十郎さんの『状況劇場』とかのあの独特に濃い世界を好きになろうと思ってました。そこから枝分かれしてる劇団ではあったんですけど。だから根津甚八さんとか小林薫さんのお芝居にすごく興味を持っていました。『ユニコーン物語』とか『唐版・俳優修行』とか、状況劇場のお芝居のビデオをものすごく見ては、胸を躍らせてましたね。ものづくりの本質を知った時代でした」

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
サコカメラ=写真
photography SACo CAMERA
中川原 寛(CaNN)=スタイリング
styling KAN NAKAGAWARA
中嶋竜司(HAPP'S)=ヘア&メイク
hair&make RYUJI NAKASHIMA

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