「ようやくここに来られたか、さあここから始めようか」

比嘉栄昇

2007.02.22 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
奥深いバンドの音楽を伝えるための1枚

狙いはなくとも、疑問はあった。

「なぜみなさんがベストアルバムを待つのだろうか、と(笑)。それと、インターネットで1曲ずつダウンロードするということ。バンドの一部しか伝えられないんですねー。それは結果としてライブにつながらない」

どうしても、リスナーは自分で設定した“ビギンらしさ”を求めることになる。「恋しくて」とか「島人ぬ宝」とか、やっぱり「涙そうそう」だとか。

「“あれを作ったのは僕たちではない”と言いたくなるぐらいのいろいろな動きもありますからねー(笑)。そこでいざビギンがライブをやると、“『涙そうそう』みたいな感じの曲をいっぱい”って期待していらっしゃる方々には、ギャップがあるんですね。それを埋めるために(バンドの全体像がわかる)アルバムがあったんですが、その仕組みが崩れてきているんですね」

比嘉栄昇は1968年生まれである。中高生のころは、音楽といえばダウンロードどころかCDですらなく…「レコード。何が一番よかったかっていうと、早送りとかスキップという発想がなかったことだったんです。針を落としたら、音楽が流れてるあいだ、結界が張られたようにその場でじっと聴いている…A面が終わって盤をひっくり返すときの間…あの感じを伝えたい。レコードのような感覚のCDを作ろうという話はしてましたね」。

このアルバム以前、約2年間はバンドとしては表向き停止状態。メンバーそれぞれが思い思いに活動していた。

「バンドの感覚を認識する作業が必要だったんです。それで、沖縄で1カ月間、曲作りをしようと。僕がそのとき沖縄で思ったのは、(島袋)優と(上地)等が東京から来て、スタジオで曲作りしても何も変わらないんじゃないかと。じゃあ一軒家を借りて、そこで曲を作ろうと。まずは部屋を一緒に探すことが大事だと思ったんですね」

そして「導かれるように」、ピンクの外壁の建物にめぐり合った。曲作りのためだけに借りる予定だったが『PIG PINK』と名づけられ、ビギンの沖縄拠点となった。今回はレコーディングスタジオとしても活躍した。

「…東京で5曲録り終えて、ベストアルバムみたいにかっちりできてることに愕然としたんです。それで “あそこなら何かができるかも”って」

狙いは「なんにもない」と答えながら、ここまでの確固たる発言。それでもやっぱり狙いなんてなんにもないのだ。あるのは音楽に対するスタンス。

「こうして取材でしゃべらせてもらうのがもっとも難しい(笑)。“いま思うとそうだった”としか言えなくて」

言葉ではなく、“あるもの”だから。

デビュー曲が大ヒット。でも、“ここじゃない”

90年、バンドブームのなか、ビギンはデビューした。石垣島から上京したのはその4年前、18歳のとき。

「僕らは島を離れなきゃいけなかったんですね。石垣島にはサイクルがありまして、高校卒業すると、ダーッとみんな島を離れる。出て行けと言われる。外を見てまた戻って来いと。見てきた世界の話をしながら酒を飲むんだと」

そのサイクルに乗っただけ。“東京”に強い動機はなかった。島で年配者と話す機会が多かったので、予備校生が子どもに見えた。5回ぐらいで行くのをやめた。高校時代一緒にバンドをやっていた上地等と島袋優がそろって上京していたのは、偶然だった。

「退屈だったんです。学生時代にも僕はどちらかというと優と等が目立っているのを見て喜んでいる生徒で。たまたま歌ってみたら歌えたからボーカルになったけど、人前で歌うのはイヤでイヤでしょうがなかった。そんな僕がふたりを誘ったのは、音楽でだったら“沖縄の証明”ができると思ったから」

沖縄は72年に日本に復帰していた。それから20年近くたっても、依然として東京で偏見は残っていたという。

「日雇いのバイトをすると、外国人のところに並ばされるんです。優なんかはタクシーで“なんでオキナワが乗るんだ”って言われてケンカしたって。“パスポートいるんだっけ?”“英語?”みたいなことに対して、そうではないっていう反発する気持ちがありました」

当時ストリートライブの聖地だった原宿のホコ天には、ザ・ブームがいた。「カッコよかったですねー。でもそれ以外は“こんなもんか”と。うるさいし、全然よくないんですよ。自分たちが島で先輩に教わってやってきたことが、全然負けてないんじゃないかと」

ホコ天どころか、オーディション番組『いかすバンド天国』…つまり“イカ天”でも負けなかった。そして90年3月、「恋しくて」でデビュー。完全に “沖縄”は封印された、美しくブルージーなバラードであった。

「それこそが僕らにとっての沖縄の証明だったんです。僕らの先輩に、嘉納昌吉&チャンプルーズとかハードロックの“紫”とかコンディション・グリーンという方々がいたんですが、“本土進出!”って沖縄から出て行くんですよ。それでどう言われたかっていうと、どんなに歌がうまくても、ギターがうまくても“どうせガイジンだから”で終わってしまうんですね。僕らは日本人で、沖縄は日本なんだと。音がやかましくて何を言ってるかわからなくてもいいという風潮がバンドブームにはありました。だから僕はどのバンドよりも言葉がはっきり聞こえて、どのボーカルよりも標準語の発音がいい、というふうに歌いたいと思った。ヒットしたときに“あのバンド、沖縄なんだってね”って言われるぐらいに」

「恋しくて」のヒットでそれを勝ち取った気がしていた。しかしすぐに、些細なこだわりだったことに気づく。

「沖縄ブームが来て、世間の沖縄に対するイメージが一変するんですよ。りんけんバンドさんが出てきたり、おおたか静流さんが『花』を歌ってヒットして、自分たちが今まで抱えていた暗い霧がすべて吹き飛んでしまった。そうして見晴らしがよくなると、どこに行っていいのかわからない。戦おうとしていたものがあっという間に消えました(笑)」

時は折しもバブル絶頂期。ドラマやCMとのタイアップがないと、新曲を発表しにくい時代。デビュー曲はクルマのCMを契機に売れたにもかかわらず、このときには完全に流れから置いてかれた、と笑う。提案する曲が次々ボツになり、CDのセールスは落ち、ライブにもお客は入らない。そして…

「気が楽になるんですよねー。じゃあ3人でもう1回やるか、と。みんなは大変だねーって言ってくれてたんだけど、僕としては“やった!”みたいな感じ。ようやくここに来られたか、さあここから始めようかって」

東京を離れ、全国のライブハウスを回った。都落ちではなく、嬉々として。「化け物がいるんですよ。歌のうまい人、ギターのすごい人。わけあってメジャーシーンには出てこないけれど、ものすごい人がいる。名物マスターみたいな人がいて、酒飲みながらケチョンケチョンに言われる。そんなのが楽しくて。とくに関西に行くと、上田正樹さんや有山じゅんじさん、憂歌団…大好きな人たちばっかりで。僕らが思い描いていた音楽の真実はライブハウスにあったんです。何もテレビに出たり売れたかったりしたわけではなく」

比嘉栄昇は5年ほど前から「“エイッ”って感じで(笑)」拠点を沖縄に移している。「ああだこうだ考えると動けなくなってしまうからねー」。

ライブハウスのリハーサルでギターを弾く有山じゅんじを見て思った。

「いいなあ、自由にギターが弾けて。歌えて。あんなふうになれたらなあって。人としてどうだろうって思うところもあるけど(笑)」

それはたとえば、タバコを手にしたまんま頭をかくくせ。だから有山の乗ったクルマは必ず天井が焦げている。

「でもそんなところも含めて(笑)」

比嘉栄昇の音楽(やその他いろんなこと)へのスタンスを決定づけたのはこうしたライブハウスでの日々だった。

このとき25歳…「あ、いや26? もしかしたら27歳(笑)。覚えてません」。

1968年、石垣島生まれ。高校卒業後、上京。小学生のころよりの友人、上地等、島袋優を誘い、ビギンを結成。89年、TBS『平成名物TVいかすバンド天国』で、いか天キングに輝く。90年「恋しくて」でメジャーデビュー。代表曲に「涙そうそう」「島人ぬ宝」などがあるが、それだけではバンドは語れないので、いろんなアルバムを聴くべし。これまでにベストを含む24枚のアルバムをリリース。最新にして強力な『オキナワンフールオーケストラ』は3月7日リリース。デビュー記念日でもある3月21日から、東京厚生年金会館を皮切りに『BEGIN TOUR 2007 ~オキナワン フール オーケストラ コンサート~』をスタート。また、彼らをモデルにした映画『恋しくて』はGW公開予定。

■編集後記

ライブハウスでは、辛口で知られる関西の客も優しかった。93年、神戸のライブハウス『チキンジョージ』で行われた上田正樹と憂歌団の『新春歌絵巻』を、いちオーディエンスとして見ていたら「キー坊(上田正樹)が、“ビギンがおるやないか。上がってこいやー”って(笑)。セッションが始まったんだけど、全然知らない曲(笑)。適当に作って歌ってた。それがよかったのかなあ。勝手な思い込みだけど、楽しい先輩を見つけたっていう感じで後ろを追っかけてましたね」。

武田篤典(steam)=文
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稲田 平=写真
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