「“熱の前”を見るのが面白い」

大友克洋

2007.03.01 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
蟲との共存を試みる劇的ではない映画

蟲とはきわめて奇妙な存在である。引き起こすことに悪意はない。たとえば雪の降る夜がやけにしんとするのは、“うん”という蟲が音を食っているから。食う音がなくなって民家に身を寄せ、たまたま人の耳に入ることがある。結果、入られた者は聴力を失う。主人公の蟲師・ギンコは、聴力を回復させてはやるが、必要以上の駆除はしない。そもそもそこにあるのは戦いではない。

「蟲はそばにいるんだけど、人間に関係するときもあれば、まったく関係しないで存在する場合もある。この言い方が正しいかどうかはわからないですけど、それが死であったり運命であったり、急にやってくる不幸であったり、幸せなことであったり…人間がどうにもできない不条理なもの。それにギンコは向かい合って生きている」

だから事態は極めて淡々と進む。

「劇的に見せたくなかった。妖怪じみたものを出して特撮で派手にすることなく作りたいなと思っていたんです。ちょっとロードムービーっぽいような、焦点があるようで流れちゃうみたいな映画にしたいなと思ってました。…何か、みんなが一斉に何かに向かっていく映画ではなくて、“まあそんなこともありながら、昔の人は生きていたんだな”っていう、そういう感覚を最初から持っていたんで。あえてドラマチックな見せ場は外してるというか(笑)」

ファンタジーである。光を食らう魚型のもの、文を運ぶ蚕、様々な蟲が現れる。登場人物のひとり・虹郎は山間の村の明かりを見て、「こんなところまで電気が来ている」と言う。けっして完全な異世界の話ではない。

「自分たちが末裔であるという部分が出ればいいなと思ったんですね。電気の灯った町ではなく、遠くから見えているのはいいなと。漫画はある程度抽象的な部分があってかまいません。実写映画だと、実際に人間が出てきて衣装を着て、小道具を出して汚しも入れなくちゃいけないし…どんどんリアリティを出すわけですよ。その一環として電気が見える村を入れたくなったのかもしれないですね」

撮影の多くはロケだった。

「シナリオ書いてるときは適当に自分で画を考えるんです。でもそれにあんまり体重を乗せないようにしてる…というのも、乗せすぎるとコケるので。作ってガッカリしちゃうんです。ロケハンしながらできていきましたね。滋賀県の菅山寺とか和歌山県の熊野古道に行ったときに、“ああ、何かいいものを見たな”っていう感覚があったんですよ。発見して世界観を作り上げたというか…まあそれがロケハンなんですけど」

実写は「絵で描けるものが必ずしも作れない」という。すべてを実際に見せなければならない。

「アニメーションは、最初にイメージボードを提示します。こんな画にしたいということをスタッフ全員で共有して、その世界に向かっていく。実写は、シナリオ書いてロケハンして、美術さん、照明さん、役者さん、いろんな人間と話をしながら少しずつできていく。小道具から何から作っていく。それらを集める。絵コンテは一応描きましたけど、段取り上のものなので、これも絶対ではない。編集して音楽が入って、最後に見てみないとわからない。それがしんどいところであり、できないなあと思うところであり、やってて面白いところでもあるわけです」

ニューシネマの影響とちゃんとした漫画

1973年、19歳のとき『銃声』でデビュー。82年から『AKIRA』の連載を開始し、83年には郊外の団地を舞台に超能力者の戦いを描いた『童夢』で日本SF大賞を受賞している。

大友克洋は漫画家である。漫画と同じぐらい、映画も大好きだった。小学生のころ読んだ石ノ森章太郎の『マンガ家入門』に掲載されていた『龍神沼』という作品に衝撃を受けた。コマのひとつひとつがカット割りのようで、まるでカメラワークのようであったから。

漫画のカメラワークに感心する小学生…ただものではない。

「いや、それは…(笑)。20代の前半、僕はイラストに近いような漫画を描いてたんですよね。何年間かは適当に描いてて、そこそこお金ももらえてたんですけど、ある日“ちゃんと漫画を描いてみよう”と思ったんです。それで昔の漫画を思い出しながら、または昔の自分の本を読んだりして“漫画というものは、そもそもどういうふうにできているのか”を見直してみた」

子どものころは単純に、面白いと思っていたものが“カメラワーク”のすごさだと認識したのはそのとき。いや、もちろんその芽は昔からあった…さすがに小学生ではないけれど。

「ずっと独学でやってきたんですけどね。田舎にいるときから、そういえばエイゼンシュタイン(ロシアの映画監督)の全集みたいなやつも読んだなあ。漫画と同様に、映画の構造を知るのが楽しかったんですね。悲しんでる顔が映って、その次に皿があってスープがあれば、その人はおなかがすいているんだよっていうことがわかる…いわゆる“モンタージュ”という手法ですよね。中学か高校生ぐらいだったけど、“そういうふうにできてるんだな”って思った記憶があるなあ」

高校入学が70年。まさにアメリカンニューシネマの時代が到来する。夢見始めたのは、映画監督への道。

「ニューシネマの雰囲気がすごく好きだった。だいたいズルズルダラダラしていて(笑)。ロードムービーが多いんですよね。僕はヒッピーではなかったけど、それに近い感覚は持っていた」

映画監督への道が厳しいのは今も昔も同じ。そうして描き始めた“イラストみたいな漫画”は、ニューシネマの影響を色濃く受けたものだった。

20代の若者が登場し、別に大事件が起こるわけでもない。オフビートな初期・大友克洋作品群。

「そればっかりやっててもつまらないから、ちゃんとした漫画を描こうと思ったときに“ニューシネマによって駆逐された普通の映画も知らないといけない”と思って、古い映画をだんだん見るようになったんです。絵画でもそうですよね、きちんとしたロマン派があって、それを駆逐して印象派の世代がくる。最初から印象派を見ていると、そこがわからない。熱狂があると、その熱が冷めたあたりで“熱の前”を見たいなというのがありまして」

きちんとした漫画ときちんとした映画の作り方を学ぼうと、自らシフトを変えていった時期だった。

漫画はすでに生業だったが、映画に関しては“いずれ撮るぞ”が、飲み屋での話題になっているだけだった。

「そんなことばっかり言い続けてて。

“じゃあもう作んなきゃダメなんじゃないの”って、8ミリカメラを買って撮り始めて…16ミリにいったのが24歳ぐらいだったかなあ。ある出版社で単行本描いたお金で撮ったんです。その1時間ぐらいの自主映画で、撮影助手をしてくれたのが古賀(信明)くんっていう、『蟲師』の VFXをやってくれた人(笑)。付き合いは長いですよ。彼がその後、特撮系に行き、おかしなビデオを作ることになって、その現場に行ったらいたのが小椋(悟・『蟲師』プロデューサー)。だからね、腐れ…いや、いいご縁でしたねえ」

もちろん、映画がすぐに仕事になることはなかった。だが、果たして“ちゃんとした漫画”は描かれた。青年漫画誌『アクションデラックス』79年1月27日号に掲載された『FIRE BALL』。近未来、とらえられた超能力者が力を解放する、未完のストーリー。このときのイメージは、後によく知られる作品として完成する。

「僕は、そのときやっていた仕事をきちんとやるしかなかったわけですよ」

1954年4月14日、宮城県生まれ。高校(石ノ森章太郎の後輩に当たる)卒業後、73年『銃声』でデビュー。『漫画アクション』(双葉社)を中心にオフビートな作品を描き、82年より『ヤングマガジン』(講談社)で『AKIRA』を連載開始。大友自身の手で88年に映画化、世界に日本アニメ…大友克洋の実力を知らしめる。83年『童夢』(双葉社)で第4回日本SF大賞受賞。映画監督デビューは82年、自主制作の『じゆうを我等に』。劇場用実写作品は91年『ワールド・アパートメント・ホラー』。アニメーションでは04年『スチームボーイ』がある。監督・脚本としての最新作、オダギリジョー主演『蟲師』は3月24日全国ロードショー。

■編集後記

20代前半のニューシネマ時代に描かれた作品は『ショート・ピース』『ハイウェイスター』などの短編集で読むことができる。このころは、青年誌にSFが載るような土壌はなかった。飲み屋で各種映像作品の悪口を友人と言い合うという習性はあったが、腐ることなかった。むしろ、影響をニューシネマ以前のハリウッドの古典作品や、古い漫画を見直すことで、自らを磨いていた。16ミリで撮影、最後まで完成した初の監督作品もこのころ。ちなみにタイトルは「言いたくない(笑)」。

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
稲田 平=写真
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