「人生社会化見学主義」

大槻ケンヂ

2007.03.08 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
今はこうじゃないでもそれもまた自分

2枚組、30曲。ベストアルバムのタイトルは『大公式』。である。

「筋肉少女帯はいくつかレコード会社を渡り歩いたんですが、その枠を超えたベスト盤を作りたいという思いがようやく果たされた。代表曲を中心にしているけれど、“なぜそれを入れない!?”とか“なぜそれが入る?”という意外性もあるセレクトになったんじゃないかな。ライブで必ずやる『イワンのばか』が入ってなかったり。シングルカットされた『僕の歌を総て君にやる』が入らずに『機械』が入っていたり…。オールタイムベストであると同時に、入門篇でもあるという」

大槻ケンヂは作家でもある。雑誌に連載した作品が単行本となり文庫本となる。その都度著者は読み直して原稿のチェックをするわけだが、毎回恥ずかしい思いにとらわれるらしい。

「文章はくせみたいなものが変わってきているので、“あ、このころ、こんな調子で書いてたんだ”っていうのが恥ずかしいんですよ。曲の場合はね、違うな。筋少は歴史が長いので、古い曲は中学生ぐらいのだし、最後のほうは30歳ぐらいのときのだけど…あのね、

“そういう気持ちの時代だったのか”っていう感じですね。歌詞にしても曲の構成にしても、歌い方にしても…たとえば筋少の後期、歌詞に異様に情感がほとばしっていた時代があって。 “何をこんなに熱くなってるんだ”と、驚いたりしましたね。だけど、まあそれも含めての自分史なんだろうな」

不安はあってもだいたいナントカなる

27年ほど前。中学生の大槻少年(江戸川乱歩、UFO好き)は、 “表現したい”キモチを友人と共に漫画にぶつけていたが、80年代ニューウェーブの盛り上がるなか、“おれたちもバンドやっていいんじゃないか”と気づく。漫画の友人と結成したバンドが解散を経て、高校で生まれ変わったのが筋肉少女帯だった。ほどなく、ケラリーノ・サンドロビッチ(ケラ)率いる『ナゴム』レーベルからレコードをリリース。

「 “インディーズ”ではなく、“自主制作”って言ってました。出したのはソノシート。うれしくて部屋中に貼って悦に入ったりもしたんだけど、ロックバンドを職業にするっていう発想自体がない時代だったから。89年ごろに始まって、後に僕らが巻き込まれることになるバンドブームによって、いろいろロックバンドが世の中に出るようになって、若い男の子も女のコも “将来ロックバンドで有名になりたい”って、普通に言えるようになったんです」

スーツを着て9時5時の仕事にだけは就けない自信があったという。高校卒業後、デザイン学校に入学してすぐに退学。2浪の末に大学に合格するが、社会への参加を遅らせるためだという自覚はあった。バンドは続けていた。

「やっぱり何か表現をやりたかったんだけど、何がいいのか分からなくて。僕、宅浪という名の引きこもり時代が1年半ありまして。いつもからし色のパジャマを着て、家から出るのはジュース買いに行くときとゼビウスっていうゲームしに行くときと、コンビニに弘兼憲史の『人間交差点』を読みに行くときだけ(笑)。なのにそんな時期にインディーズブームがあってね、あるとき『新宿ロフト』が満員になった」

いくつかのレコード会社から接触があり、ケラの有頂天やザ・ブルーハーツがデビューするに至って“ロックが職業”はウソではなくなった。

「ある人の紹介でトイズファクトリーっていうところに行って、世間話してたら“じゃあまた”ってことになったから、あわてて“ええとどうなるんですか?”って聞いたら“3月レコーディング、6月発売でいいんじゃない?”って言われて。何の現実感もなくて、帰りに“アレはデビューっていうことなんだよなあ”ってボーっとした」

88年6月、22歳でメジャーデビュー。現実感の得られないまま、学生気分でロック活動。プロを意識させられるようになるのは1年後と1年半後、ふたつのできごとによって。とても強烈に。

1年後:「オールナイトニッポンの1部のパーソナリティを任されちゃったんですよ。僕についたディレクターさんが結構カッとなる人で、“時間読みぐらいできるようにしろ”とかインカムで怒られたんだよな。そんなふうに怒られながらおもしろトークなんてできるわけないじゃないですか(笑)。そのときに生まれて初めて、“何をしてもどんなにあがいても始まってしまう”仕事の大変さを知ったんです」

1年半後:「バンドブームのピークでね。全国三十何カ所回る大規模ツアーを組んで、ファイナルを武道館でやることになったんです。東京駅では僕、牛追い祭りみたいに何百人という女子学生とかにギャーって追っかけられたんだけど、地方でツアー会場の1階の半分も埋まっていない状況が大半だったんですよ(笑)。地方まで人気が伝わってなかったの。まだツアーのやり方も分からず、声も出なくなる、体調もむちゃくちゃ…で、“人気がある”って言われてるのに半分も埋まんない(笑)。青春の苦悩ですよ。そこそこいい大学を出て挫折を知らない学生が、初めて会社に入って味わった大人の世界の厳しさ、と、あれはなんら変わらなかったと思いますね」

断崖のように落ち込んでいるブームの先を見た。終わりを実感したのだ。「でも本当に牛追い祭りみたいに追っかけられる経験をすると、いきなりそれがなくなることはないだろうと思っちゃうんだよね。みんなが蝶よ花よってもり立ててくれるから、自分を実際以上のものだと勘違いしちゃう。だから自分は大丈夫っていう妙な自信と、イヤダメだという不安がいつもありましたよね。僕がプレイヤーなら、売れようと売れまいと音楽っていうところに行くんだろうけど、僕にとってバンドは表現の手段のひとつだったから。でもこれをきっかけにいろんな世界を体験しよう。そのなかに自分に合うものがあるんじゃないかと考え直して、お話をいただくままに、映画にVシネにドラマにバラエティに。本を書き始めたし、ありとあらゆることをやってみましたね。人生社会化見学主義ですよ」

残ったのは、本を書くことと歌を歌うこと。あとの多くは「いまだに見学」。バンドブームに翻弄されたことは、けっして無駄な経験ではない。

「“目指せドーム”“売るぜミリオン”っていうのは、ヤングのころには一応試みた方がいいと思う。でも、結果はどうでもいいんだよね。結局売れなかったとして、それで彼の音楽の価値が決まるわけじゃない。人生も終わりゃしないんです。ヤングのころはビッグを夢見て、30代ぐらいになったら考えて、40代ぐらいから自分のやり方で音楽と対峙していければいい。そこで“やっぱり目指せミリオン!”っていう人は、そうすればいいし。そうじゃなくっていいと思う人はそれでいいし。僕は40代で再び筋肉少女帯というロックバンドと出会いました。いまはこの筋少という暖簾をきちんと大事にしていくのが、自分に必要なことではないかと。最近になって筋少をちゃんとやろうって思うようになってきた。遅いよって、そりゃそうなんですけど(笑)」

1966年、東京生まれ。82年にロックバンド筋肉少女帯を結成。インディーズ、ナゴムレーベルからのリリースを経て、88年6月アルバム『仏陀L』、シングル『釈迦』でメジャーデビュー。17枚のシングルと12枚のアルバムをリリースし、99年に脱退。並行してソロ活動も展開する。99年ロックバンド特撮を結成。作家としても活躍、処女作は92年の『新興宗教オモイデ教』。続く短編集『くるぐる使い』では表題作が第25回星雲賞日本短編部門受賞。ベストアルバム『祝!筋肉少女帯 復活! 特別企画オール・タイム・ベストアルバム 筋肉少女帯 復活究極ベスト“大公式”』とDVD『“THE・仲直り! 復活!筋肉少女帯~サーカス団パノラマ島へ帰る'06~”』は3月14日発売。そしてライブも。3月は16日大阪、17日・名古屋、24、25日は東京・LIQUID ROOMにて。各会場内容が違うのだ。

■編集後記

「日本印度化計画」「元祖高木ブー伝説」などの後、オールナイトニッポン1部のパーソナリティを務めたのが23歳。「3枚目のアルバム(『猫のテブクロ』)までは本当に学生気分でしたよね。そのころ『深夜改造計画』っていうテレビ番組の司会を、久本雅美さんとやってました。ロックミュージシャンって、自分からバカやるのは好きなんですけど、強要されると腹が立つもんなの。それで番組の収録1回トバしちゃった。ヤングだったけど、久本さんには本当に悪いことしたなあ」

武田篤典(steam)=文
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