「わからないから、面白い」

原田芳雄

2007.04.05 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 稲田 平=写真 photography PEY INADA
老舗のやり方が通用しないだからこそ面白い!

「ちょうど俳優座に入って4~5年で、煮詰まっちゃってたもんですから。僕はもともと映画青年でもなかったし、自分の芝居のことをどうにかしなくちゃならないと思ってたから」

60年代、演劇界には新たな動きが次々と起こっていた。鈴木忠志の早稲田小劇場が名を馳せ、唐十郎の状況劇場が新宿・花園神社の紅テントで公演。蜷川幸雄が現代人劇場で演出家としてデビューを果たしていた。

「映画どころじゃないんですよね。1度お断りしました。2度目に澤田(幸弘監督)さんが俳優座に訪ねていらしたときに、たまたま僕、ジーンズの上下だったんですよ。これはさすがにダメだろうと思って“このままの格好でいいなら出ます”って言ったら“どうぞ”って(笑)」

ジージャン・ヤクザの誕生は勢いだったのである。時代もそれを許した。

「その時分、日活はあと1年で終わるという方針が決まってんですね。それで新人をどんどん登用していこうという状況だったらしいんですよ。それで行ってみたところが、今日に至る入口になっちゃった…」

日活最後の1年。ヤケクソ的な状況に加え、社会は70年安保で揺れていた。現場は混沌としていたという。

「シナリオもあってないようなもんで。その場その場で変わりましたからね…組の看板燃やすところから始まるヤクザ映画なんてね! 要するに組織そのものを最初からぶっ壊してしまう。それがちょうど70年の世間全体の申し立てと呼応してたんでしょうね。プログラムピクチャー(ほぼ週替わりだった劇場の上映番組を埋めるために量産された映画)ですから製作期間は21日って決まってるんですが、あいだに“今日は清水谷に何時”とか、反戦系のデモの予定が入ってる。それが撮影スケジュールに組み込まれてる、そんななかでやってたんですよ(笑)」

ラストも現場で変わった。撮影中に、実際に広島県で起きたシージャック事件をモデルにしたのである。

「ずーっと生中継してましたからね。あのとき初めて、警視庁にライフル隊があることを知って“アレだ!”と。すぐに『アサヒグラフ』買ってきて、衣装さんたち徹夜ですよ。一晩でライフル隊の衣装作んなきゃならなくて」

映画の現場のカオスぶりは、新たな波が押し寄せる演劇界でのオノレのあり方に頭を悩ませていた原田芳雄にとって、非常に刺激的だった。引き込まれた。

「その場で湧き上がってきたものをみんなでつき合わせて。現場で起こることがすべてみたいな。それまでやってきた自分のものがガラガラ音を立てて崩れていく、そういう実感がありましたね。“こりゃあ、いいや。ここにいたらこういうことが起こるんだ”って。そこが原点だったみたいですね。へその緒決まっちゃった、みたいな」

やめる自由を傍らに未知の楽しみを追う

将来に対しては、何の展望も持っていなかったという。歌手になりたいという夢は、10代のころエルヴィス・プレスリーを聴いたショックでついえた。

「俳優という生業を得たのは流れの中の偶然だし、なりたいと思ってなったわけじゃないし、いまだに“なんで自分はこんなに向いてないことやってるんだろう”って思ってますよ。選択した覚えがない。なんか、こうなっちゃった(笑)。そのかわりボヘミアン的に“やめりゃやめられるんだ”という自由をずっと意識してましたね」

『反逆のメロディー』以後、1年で日活作品計6本に出演。『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ!』では藤田敏八監督、渡哲也らと出会い、大いに刺激を受ける。そして東宝、松竹とわたり歩く。

「技術とか磨くとかナントカいうところからできるだけ遠ざかりたかった。ところが身についたものはなかなかとれないんです。セリフを渡されると、とたんに自分の中でニュアンスができちゃう、これがヤなの。そういうところからぶっ壊さないといけない。自分が思いつくようなことって、絶対にいらない。それをできるだけ払拭しようと。だいたい世の中がそうでしたから。戦後、日本で培われたいろんなことを全部否定して、変わろうとしてた。いくらぶっ壊したって本質的に変わっていかないと、細胞がもう一度結合するんじゃ何も変わってない。根本的にこっちが変わんない限りダメだっていう、ヘンな強迫観念がありました」

74年、黒木和雄監督の『竜馬暗殺』で坂本竜馬を演じた。大手映画会社ではなく独立プロと協力し“1000万円映画”と呼ばれる作品を世に送り出していたATGでの作品である。

「セットでも35mmのカメラが立てられない場合があって、16mmを手持ちでぶん回すことになるんですよ。すると、それにあわせて芝居も変わってくるわけです。そして相手が―中岡慎太郎をやった石橋蓮司が何をやってくるか。それに自分が反応することで竜馬を形作っていく。僕に対して向こうが反応する。いま自分の中にあるものを出して“表現だ”なんてことはありゃしない、張子の虎みたいに中身は何にもない。こっちが竜馬っていうのを作って待ち構えてるんじゃない」

このとき確信が持てたのである。

「ものすごく不安だし怖いんだけど、同時に変な恍惚感がある。そこで起こっちゃったことに対して自分でぼう然としている。ただそこには自分より賢明なところに片足を置いている監督っていう人がいるのでナントカ軌道修正してくれるだろうという…そういうおっぽり投げ方でいいんだ、というか。でも、自分の手をおっぱなせない現場、あらかじめ何をどうするか決めなければならない場合の方がキツイです。そういう遊び方になるとしんどいな」

事前の役作りや演技プランを超えた何かが、現場では起こってしまう。それを見つける“遊び”は、決め込まれた現場では生まれないこともある。

「その遊びの面白さは、今まだ自分が思いついてないところにあるんだと思う。それがシャクなんだよ。だから七転八倒するわけですね。思いつくことなんて、そんなものはほっときゃいい」

年間の半分が現場。映画は現在、おおよそ2本。それとテレビ出演。やめる自由を持ちつつ、思いつかないことをしてしまう喜びを求めた結果が、この仕事へのスタンスなのかもしれない。しかし、40年以上のキャリアである。“思いつかないこと”なんて年々減っていってしまうのではないだろうか。

「そんなことはない。人間の思いつくことなんて、たかが知れているから。思いつかないことは、宇宙みたいなものだから。自分ひとりではなく他者とぶつかったりひねっちゃったりする軋みの中で生まれてくるものだから。だから自分が出た映画を観ると、裏切られるわけですよ。撮影現場で起こったこととスクリーンに定着されるものは別で…映画にかかわった全員が裏切られるものであってほしいと思う。鈴木清順さんの作品に出たとき、清順さんとずっとコンビを組んでたカメラマンの永塚(一栄)さんに聞かれたんですよ。“私は鈴木さんと何本も映画をやってるが、いまだにわからない。原田さんはおわかりになってやってますか?”って。宮川(一夫)さん―黒澤作品はじめいろんな撮影監督された方ですよ―に、聞いたことがあるんです。宮川さんぐらいになると、カメラ覗いててだいたいこうなるってわかるでしょって。そしたら“全然わからない。それで不安だから僕は現像所行っちゃうんだ”って。どんなベテランでも、そういうなかで撮ってるんです」

出演作を観るには時間がかかるという。完成後すぐだと、現場での思いだけがよみがえって熱くなるからだ。10年もたてば大丈夫。スクリーンを通して、自分がどんな演技をし、どういう映画になったのかが初めてわかる。

「そうして観ると、やっぱり現場のことは覚えてるんだけど、作品としては初めて観るようなもんなんです。わからないから、映画って面白いんですよ」

1940年、東京都生まれ。高校卒業後、サラリーマン生活を経て俳優座養成所へ。俳優座座員となり、1968年、松竹映画『復讐の歌が聞える』で映画デビュー。70年『反逆のメロディー』をきっかけに映画に本格的に取り組む。翌71年、俳優座を退団。74年『竜馬暗殺』に坂本竜馬役で登場以来、黒木和雄監督作品に数多く出演。88年『TOMORROW 明日』、03年『美しい夏キリシマ』、04年『父と暮らせば』の戦争レクイエム三部作にすべて出演。現在まで映画出演作は100本を超える。03年には、紫綬褒章を受章。主演作『反逆のメロディー』はじめ『流血の抗争』『不良少女 魔子』の3作が4月6日DVD発売。

■編集後記

『反逆のメロディー』公開のとき、劇場に行った。「学生たちは安保で忙しいから、お客3人しかいなかった(笑)。73年ごろオールナイト上映が始まって、どうも新宿がすごいらしいと。見に行ったら映画館のドアが閉まんない(笑)。そのまま上映して、スクリーンに日活マークが出たらワーッとなる。タイトルが出たらまたワーッ。いたたまれなくなって10分ぐらいで出てきました」。日活晩年のこうした作品は“ニューアクション”と呼ばれ、再上映で支持を集めていたのだ。

武田篤典(steam)=文
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稲田 平=写真
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