「経験をキャッチ! キャッチ! キャッチ!」

ルー大柴

2007.09.27 THU

ロングインタビュー


藤井たかの(steam)=文 text TAKANO FUJII サコカメラ=写真 photography SACO-CAMERA
ルーブログをきっかけに53歳で2度目のブレイク

「再び時代のウィンドをキャッチ! キャッチ! キャッチ! したんだよ」

昨年はスケジュールの大半が白紙だったというルー大柴。しかし、今年は分刻みの超ハードスケジュールだ。昨年末、自身の「ルーブログ」で使っていた“ルー語”(カタカナ英語を交えた日本語)に、「2ちゃんねる」から火がついた。その後、女子高生を中心にルー語がブレイク。また、ラッパーの仁井山と歌った『MOTTAINAI』は、NHK『みんなのうた』で放映され、異例の期間延長となる。今年から始まった本誌連載『オレはオマエをスルーできない!』も忘れてはならない。

「今年は本当にビジーになり過ぎて、今はピンクレディーの気持ちがよくわかりますよ(笑)。こんなのヤングの時に体験すべきで、53歳にして新人芸人なみのスケジュールですから。でも、34歳でブレイクして、53歳で再ブレイクするなんて、奇跡ですよね」

そして、DVDのリリース! まさにルーオンリー、街角でのフリーハグや“ルーズルーム”の公開など、これもまたある種の奇跡だといってよい。

俳優を目指して海外を放浪経験だけが己を成長させる

あまり知られていないが、ルー大柴は、社員100人を超す印刷会社の御曹司である。何不自由のない幼少期を過ごし、中学時代に『サウンド・オブ・ミュージック』を観て、俳優を志す。高校卒業後、進学や跡継ぎの道を拒絶して、海外を放浪する。

「イギリスで3カ月英語を勉強した後に、俳優になるには異国でもっといろんな人間を知らなきゃダメだと思い、ヒッチハイクで北欧をまわりました」

旅の資金は路上でアクセサリーを売って稼いだ。出発時の羽田ではスーツにネクタイの姿だったのが、だんだんヒッピーになっていった。

「寝袋を持っていたので、宿が取れない時は土管で野宿してました。朝方になって工事現場の人が来て追い出されたりしましたね(笑)。いちばん劇的だったのは、フィンランドかな。ヘルシンキのユースホテルで日本人と知り合って、ディスコに行ったんです。下駄にジーンズとジャケットを合わせて。そこにすごくかわいいブロンドの子がいたんです。その子は、男にダンスに誘われても絶対に踊らなかった。そこで、当たって砕けろで、彼女のそばに行き“シャル・ウィ・ダンス”って言ったんですよ。彼女はこう言いましたよ。“イエス。オフコース”。踊りながら、なんで俺の誘いにオッケーしたんだって聞いたんです。彼女は“実はあなたが店に来たときから、踊る相手はあなたと決めていたの”って」

見事、恋に落ちた2人は、屋根裏部屋を安く借りて同棲をはじめる。

「彼女はモデルをしてるぐらいキレイな子だったので、もうルンルンでした。でも1カ月ぐらい経ったときに、彼女を選んでこのまま暮らすか、夢を選んで旅に出るかで悩んで。結局、“オレは俳優になるために旅立つんだ”って、その子に別れを告げたんです」

美し過ぎるエピソードにも驚きだが、なにより、日本人が異国で外国人をナンパする、その度胸に目を見張る。

「あのころは、気に入った子がいたら、とにかくアタックしてました。行動しないと後で後悔するし、行動してノーと言われればあきらめもつく。やりもしないで頭で想像して怖がるなんて、僕の性格上できないんです。みんな頭だけで考えて、失敗を恐れるから、行動できないんだと思います。恥かいたっていいんですよ。経験をキャッチ! キャッチ! キャッチ! しながらグローアップしていくのが僕のフィロソフィー(哲学)ですから」

俳優の夢をあきらめたとき夢が自分を追いかけてきた

1年半の放浪を終え、20歳で帰国。長い下積み生活が待っていた。

「まず、俳優の三橋達也さんの付き人になりました。人に付くのは大変だから、本当は3日で辞めたかった。でも気がつけば2年半。忍耐を学んだね」

その後、勝新太郎主宰の「勝アカデミー」の第1期生に。ここで小堺一機と出会い、ともに舞台などで活動する。

「個人で俳優をやろうと思ったんです。でも、全然売れなくて」

バイトで生活をしのぎ27歳で結婚。これを機にイベント会社に入社した。

「自分には俳優の才能がないんじゃないかと思って、一度は俳優をやめるつもりでした。でも、昔の仲間にアングラな劇団に誘われたんです」

同時期に小堺一機が売れはじめたこともあり、いてもたってもいられなかった。イベント会社を退社して、再び役者生活に戻る。

「何年かはヒモの亭主でしたね。女房のボーナスでコートを買ってもらったこともあります。でも結婚して家庭を持ったら、やっぱり入れるもの入れないと、ぎくしゃくしますよね」

俳優の芽は出ない。30歳を過ぎて子どもも生まれた。不安がつのるなか、母親から1本の電話。人生でいちばんつらい瞬間が待っていた…。

「母親に、“一生懸命やってダメだったんだからいいじゃない。こんな恥ずかしいことはやめてくれ。もう女房を泣かすな”って言われたんです」

自身を支えていた夢は急速に萎み、シビアな現実だけが残った。

「どんなことをしても、女房子どもを食わしていこうと。俳優はその時にあきらめました。でも、俳優の夢をあきらめたことが、僕にとってのターニングポイントだったんです」

アルバイトの収入で生活は徐々に安定し、役者へのこだわりも捨て、趣味で結婚式の司会やCMモデルも始めた。このモデル時代のプロフィール写真を関根勤が話題にして、小堺一機とのラジオ『コサキン』で笑いのネタになった。

「ある日、関根さんから電話があって出演を誘われたんです。でも、“オマエらは売れてなによりだけど、俺は子どもも生まれてそんな気持ちになれない。俺を誘わないでくれ”って断ったんです。それでも、1回出るだけでいいからって、何度も頼まれて」

もし誘いを断っていたら、ルー大柴もこのインタビューも存在しなかった。ラジオの出演をきっかけに、テレビにも出演するようになり、関根勤の劇団『カンコンキン』の旗揚げに参加する。これまでの苦労や挫折で溜め込んだものを爆発させる時がやってきた。

「僕は高校の体育教師の役で、裁判に出廷するんです。普通のジャージで出てもなんだから、海パン一丁なら変態っぽくていいかなと。ここから海パン芸が始まったんですよ。当時34歳、はっきり言って必死でした。とにかくインパクト重視で、自分の名前を全国に知らしめたかった。追いつめられての苦肉の策なんです」

どこにもいない「クドくて」「気持ち悪い」キャラを自分なりに演出したら、“ルー大柴”になっていた。

「おかげさまで嫌われましたよ…。 15年ぐらい前は、“抱かれたくない男”や“嫌いな男性タレント”は全部1位でしたから。だから、たまに2位になると機嫌が悪くなる。だってヒドいんですよ。抱かれたくない男の1位がルー大柴、2位小錦、3位ジミーちゃん…バカにするな!」

40代は舞台を中心に活動し、50代で再びテレビの世界に舞い戻った。今後はどんなビジョンがあるのか?

「60歳までは今の状況で走っていきたいですね。その後は、また芝居に取り組みたい。まだまだ新しいことにチャレンジしていって、このジャパンというスモールカントリーの評価を、もっと上げていきたい。渡辺謙さんもいいけど、まだジャパンにはルー大柴がいるぜ、みたいな(笑)。最終的にはハリウッドでアカデミー主演男優賞を受賞して、ティアー、涙するんですよ」

ビッグマウスはいまだ健在。NHKの大河ドラマや『徹子の部屋』にも出演したが、もとは単なるビッグマウス。

「今年はレッドホワイト(紅白)歌合戦に出ますよ。関根勤と小堺一機にバックダンサーをさせるため、5月からスケジュールを押さえてますから。すでに打ち上げ会場もキープしてます。たしかレッドホワイトにも、毎年お笑いの枠がひとつあったよね(笑)」

1954年1月14日、東京生まれ。新宿の印刷会社の御曹司。中学の時に映画『サウンド・オブ・ミュージック』を観て役者を宣言し、高校卒業後はヨーロッパを中心に放浪する。帰国後はアクターを目指し、20歳の時に三橋達也の付き人になる。その後、「勝アカデミー」の1期生になり、小堺一機と出会う。俳優をしながらバイトでしのぎ、27歳で結婚。イベント会社に勤める。ラジオ「コサキン」や舞台「カンコンキン」などに出演し、34歳の時に海パン一丁の「やけくそ芸」でブレイクする。しかし93年、94年には『an・an』の「嫌いな男」で2年連続グランプリを果たし、「日本一の嫌われ者」と称される。2007年にルー語のブームで再ブレイクを果たす。

■編集後記

勝アカデミーを卒業して、独立して俳優を目指すも泣かず飛ばず。「実家を出て、世田谷にある木造のボロアパートを借りて、6畳トイレ付き風呂無しで生活していました」。この時期はタレントではなく俳優を目指していたので、結構キザな面があったとか。「20代後半は、まだ人生をわかってなかったと思います。形だけで行動していたというか。やっぱりまだ若かったし、ナマイキな面もあったと思いますね」。そのうえ英語も話せたので、よけいにカッコつけているように見えた。

藤井たかの(steam)=文
text TAKANO FUJII
サコカメラ=写真
photography SACO-CAMERA

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