「俺が一石投じる」

津川雅彦

2008.08.28 THU

ロングインタビュー


武田篤典(steam)=文 text ATSUNORI TAKEDA 森山雅智(vacans.inc)=写真 photography …
いかにして役になるか。俳優としての作法

「落語って…これは歌舞伎にもいえるんだけど、“抜く業”があるんだな。力が入っているように見えて、実はものすごく軽く言葉を操ってる。後ろを向いたらペロッと舌を出すくらい醒めていてクワ~ッと見得を切る。だからこそ大きく見える。そうやって“抜く”には、何代にもわたって語り継がれてきた技を習得しなきゃできない。工夫を重ねるってことは、実は余計なところを削ってシンプルにしていく作業なんだ。僕が今回、辛うじて噺家を演じられたのは“誰も演じたことのない新作落語”をやる役だったからね」

津川さんの役は三々亭平佐。ソープのおねえさんを自宅に呼んで借金取りと一緒に野球拳をしたり、テレビ番組で大臣の首を絞めるような落語界のトリックスターだ。もちろん真打ちである。軽みが完全に身についているはずだ。大師匠が前座みたいに一所懸命噺をするわけにはいかない。

「軽さを出すためには、“セリフを身に着けた”程度じゃまだまだ鎧を着けたように重い。ロレったり、不明瞭だったり、自由自在にはほど遠い。覚えることで、1枚1枚脱いで軽くしていく。鎧をブルゾンに替え、Tシャツにし、上半身裸に、最後にはふんどし一丁。いや血、肉を通して内臓に叩き込まないと、セリフは軽く出てこない」

落語家が歴史を受け継ぎ何十年も稽古して身に着ける“抜き方”や“軽み”をわずか2カ月で自分のものにせねばならないのである。

「セリフを軽くするのは肉体訓練でね。何百回も量をこなして落語を口に馴染ませなければ、筋肉つけないでスポーツ選手を演ずるに等しい。要は質じゃなくて、量の問題。僕はただ機械のように早く、セリフを回数繰ることで勝負した。質の方は本番で、これまで見聞きした名人たちのイメージを浮かべ、芸歴を信じてごまかす以外にない」

きちんとお客さんをだましきるために。俳優は詐欺師であると言う。

「東條英機をやったり徳川家康をやったりしたけどさ、“もしかしたらこんな人だったかもしれない”って客に思わせてナンボだからね。オレオレ詐欺とは違うのは向こうもだまされたいと思って入場料払って映画館へ来てくれて、馴れ合いの共犯関係に止まらず、ヘタしたら拍手までくれるところ(笑)。でも、68になってなお、技術だけで勝負できなかった噺家役は、とても辛い作業だったなあ」

くどいようだがキャリアは52年(子役時代を含めると63年)…だが、べつに俳優がやりたかったわけではない。

スターとしてデビュー、“俳優になる”まで

俳優になるべく生まれた。父・沢村国太郎は戦前のスター俳優。祖父・牧野省三は「日本映画の父」と呼ばれた日本初の職業的映画監督。女優・マキノ智子を母に、叔父、叔母に加東大介、沢村貞子という俳優を持ち、母方の叔父・マキノ雅弘は261本もの監督作で日本映画の黄金時代を築き上げた。兄・長門裕之も俳優という映画一族。

が、一時、新聞記者を志して早稲田高等学院に入るのだ。そこで「1本だけ」のつもりで出演したのが石原裕次郎と共演した、石原慎太郎脚本の日活映画『狂った果実』(56年)。フランス、ヌーベルバーグの代表、ゴダールやトリュフォーにも影響を与えた傑作だった。

「僕が俳優になったのはほかに能がなかったからさ。学校を卒業し、入社試験を受けて新聞社に入る学力も、サラリーマンになる根気もあるわけないよ」

16歳の津川さんは、一躍スターとなった。とはいえ、いまの活躍ぶりからはまったく想像もつかないが、順風満帆ではなかったのだ。10代後半にして所属映画会社を移籍するゴタゴタに巻き込まれ、新しい映画会社でも主演作が何本も作られるがすべてヒットには至らず、約5年で独立。そして。

「悪いことは重なるもんで、30の時に、不倫スキャンダルにまみれて、仕事がまったくなくなった。女性週刊誌の電車の中吊りすべてに僕の名前が出るという状況が4週続いてね(笑)。喫茶店に入っても誰かしら僕の話をしている。そんなとき友だちが『宣伝費だと考えたら何億だぜ、利用しない手はない』って。でも仕事がないのに、どう利用すればいいのかわからない。『みんなオマエが嫌いなんだよ。せっかく女にだらしがない、女ったらしのイメージができたんだ。世間の人が嫌ってくれてんだから、悪役をやれば喜ばれる』と。目からウロコだったね(笑)」

友だちとは当時朝日放送のプロデューサーだった人物。彼の手がける『必殺』シリーズに、主役が代わるたびに悪役としてゲスト出演し、正統派二枚目俳優としては考えられない無様な死に様を幾度もさらし、従来のイメージを打ち破ったのであった。

「役者の子に生まれ、実に濁った志で映画界に入り、運良くスターになったと思ったら、“運良く”叩かれて落ち目になった。袋叩きにあったからこそプライドが刺激された。僕が続けてこられたのは、結局プライドだけだね」

俳優として、ではなく一個人として人間を考え始めることになるできごとがあった。74年の夏、長女の真由子さんが誘拐されるのである。

「娘が無事に戻り、娘の父親としていかに人生を過ごすかが、ものすごく大事な問題になった。子育てはもちろん、子どもの持つ可能性に興味が湧いた。すべての子どもの人格は育てられ方で決まる。親の存在意義は大きい。娘の成長に関わり、娘をつぶさに見つめることで、逆に一人前の父親として育ててもらえた。さらに、実人生を充実させて生きることは、役者にとってもリアルな存在感が身につく大事なことだと気づいた。存在感は役者の魅力となり、銭のとれる役者になる原資でもある。つまり役者にとって人間観察と人間の成長に関心を持つことは必須事項なんだ」

“なんとなく”入ってしまった俳優の世界で、自覚的に生きていこうと決意することになるのである。

「兄貴に“役者は天職か”と尋ねられ、即答できなくて怒られた。天職には、指を立てたら札束が巻き付いてくるイメージがある。ちっとも巻き付いてこないからさ。でもそれは自分の逃げだったと気づいた。33年前、親父が死んだとき、仏前で“これからは天職って言います”って誓ったよ」

そこでようやく俳優を職業にすることができたと言う。そして生涯初めての演技賞を得るのは42歳のとき。

06年には映画『寝ずの番』でマキノ雅彦として監督デビュー。さらに今年公開の新作を撮り、3作目を撮影中。

「監督は職人だと思ってる。俳優もスタッフもドラマを手作りしてきた人間は、その世界が面白くて抜けられない。僕もこの歳になって、これ以上の生き甲斐はもうほかにないと思う。でも監督になるのも志は濁ってたな(笑)。“いつかやるんだろうな”としか思ってなかった。成り行きに任せてたら結局65歳で1本撮った…みたいな。でもヒットしたからって、次々とオファーが来るようなプロの業界じゃない。『Shall weダンス?』を作った周防正行は次を撮るのに10年かかった。あれだけのヒットでハリウッドでリメイクまでされた作品の監督に、映画界は無関心だ。サラリーマンが映画作ってるからね。プロデューサーをいい気持ちにする監督が関心持たれるとかね。一方、テレビ屋さんの映画の宣伝のノウハウはすごい。『こことタイアップ、このメディアを使い、ターゲットはこれ』。大量に宣伝しなきゃ、茶の間の客をごっそり動員できないと。分析力と実行力はさすがだ。逆に、質の良い映画を作るノウハウには興味なし。中身はどうでもいい。いや、せっかく育てた茶の間の客を惹き付けるためにも、小学6年生が1年生のテキスト見るような気楽な映画を提供するべし…テレビ屋恐るべしだよ。個性ある文化度を持つ大人がターゲットで30億ヒットは至難の業。俺が一石投じる程度で、何か変わるような環境じゃない。でも映画の神様はいるはずだ」

津川雅彦の攻めは止まらない。

1940年京都市生まれ。子役デビューの後、54年までは本名である加藤雅彦として活動。56年『狂った果実』で津川雅彦としてデビュー。73年、女優の朝丘雪路と結婚。78年にはおもちゃ販売会社グランパパを設立。81年『マノン』に出演し、第24回ブルーリボン賞最優秀助演男優賞を受賞。『マルサの女』『スーパーの女』などの伊丹十三監督作品に数多く出演、評価を得る。98年『プライド・運命の瞬間』では東條英機を演じ日本アカデミー賞優秀主演男優賞。06年には『寝ずの番』でマキノ雅彦として監督デビュー。第2作『次郎長三国志』は9月20日公開予定、第3作『旭山動物園物語 ペンギンが空をとぶ』は来年公開予定。また『落語娘』は8月23日より公開。

■編集後記

俳優の色気は勝新太郎や藤山寛美らの行動から教わった。「千両入って万両使うから千両役者。勝さんなんかはホント千両役者だったね。寛美さんに教わったのは、『ラーメン屋に入って“釣りはいらん”って言うには1000円やなく1万円払わなあかん』って(笑)。お金を遣い過ぎてドキドキする気持ちを乗り越える勇気から色気が生まれるんだろうね。普通のサラリーマンは『明日にも首になるかもしれない』って思うのが大切じゃない? そうすると今日をぬるく生きられないから」

武田篤典(steam)=文
text ATSUNORI TAKEDA
森山雅智(vacans.inc)=写真
photography MASATOMO MORIYAMA

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